2012年2月 1日 (水)

無為徒食の人を全力で擁護する

田中慎弥さんの芥川賞の記者会見を見て思ったことなど。

田中慎弥さんの記者会見、めちゃめちゃ面白かったです。

「もらっといて、やる」と緊張した面持ちで いうところとか、人に見られているという意識が低いのか時々口がぽかんとあいちゃうところとか、体力なくて姿勢が悪いところとか、目が悪いせいかたまに睨 むような目つきになってしまうところとか、虚勢をはっている小動物のような雰囲気で、大変かわいらしかったです。
(参考として→『現代日本のウェブにおける(不機嫌)メガネ男子萌え文化に関する考察』

コミュニケーション力が低いという反応もあるようですが、彼でコミュニケーション力が低いんだったらコミュニケーション力って何なんだろう?愛想よく相手の求める言葉を言うことだけがコミュニケーション力なのか?と思ったりします。
ちゃんと記者が言おうとすることを身を乗り出して聞いているし、短いながらも的確な表現で答えているように感じました。

残念ながら、彼の小説はまだ読んでいませ ん。
ちょっと仕事の区切りがついたら、本を購入しようと思います。
最初に芥川賞候補にノミネートされた「図書準備室」はちょっと読みたいと思いながら未読でした>< 働かない言い訳が書かれているらしいのですが、それにも関わらず妙に読ませる小説らしいです。

田中慎弥さん自体も興味深いのですが、彼のお母さんはすごいなと思いました。
20歳から小説を書き続けながらも32歳までデビューしなかった一人息子を支えつづけるというのは、なかなかできることではないと思います。
私の子どもがそういう状況になった時、私は同じことができるかというと難しいように思います。きっと、どこかのタイミングで、子どものやる気を完全に削ぐようなことを言ってしまい、子どもを損なってしまいそうな気がします。

マスメディアで彼はニートと言われていますが、20歳からずっとこつこつ小説を書いていたのだったら、ニートではなく、ずっと小説家だったと言ってもよいのではないかと思います。
所得や契約があるものだけを仕事と捉えるのは、あまりにも視野が狭い考えです。
世の中には、所得が発生しないけれど、重要な仕事がたくさんありますよね。
文学とか芸術って、そういうもののように思います。 (食っていけないのは困りますけれど、ちょっとそれは別の話)

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田中慎弥さんが、秋葉原事件について新聞に寄稿していた文章の一部を見つけました。
芥川賞作家・田中慎弥「取り押さえられた時の加藤被告の横顔が私自身にそっくりだった」
自分が秋葉原事件を起こした加藤に似ていることに触れた上で、生き延びるためにあえて不真面目であることを選ぶと述べています。

(こういうことを書くと どん引きされると思いますが)私にとって秋葉原事件の加藤のことは、全く他人ごとではなかったんですよね。
加藤がインターネット上に書き込んだ言葉を読んで、その想いに共感してしまう自分自身にぞっとしたりしていました。
私は運が良いことに、結婚して家族もいて、仕事も連続してもらえています。
「研究者なんて、楽しそうでいいね」とよく言われますし、それなりにやりがいがあることをしていると思っています。
ですが、契約は常に数年ごとで、数年先に自分がどこにいるのかよくわかりません。
いつ、博士号をもっている高学歴ニートに なっても不思議ではありません。
加藤の居場所を奪われる焦燥感、誰にも認められていないという孤独感はよくわかります。

何となくですが、世の中に真面目であることを「強いられているんだ!」と感じることがよくあります。
不平不満を発すると、自分の居場所を見つけられないのは真面目さが足りなかったんだろうと責められるように思います。

秋葉原事件の加藤は、 中島敦の山月記のように自分の心の中の虎を飼い馴らすことができなかったんだと思います。(加藤のように、全く無関係な外に向かって暴発する人は少ないと思いますが、自分や自分の身の周りに向かってしまう人というのはよくいるように思います)
多分、不真面目に生きるというのは、虎を飼い馴らすために必要なことなんでしょう。

私は工学部出身なのもあって、世の中の役に立たないものは存在価値がない、もっと効率化をはかるべきという考え方が自分の基本のところになってしまっています。
でも、その考え方に基づくと、自分みたいな中途半端な人間は、家族の最適化、社会の最適化のためには働くべきではないという結論にいたってしまって、 自分の首をきゅーっとしめてしまうことになります。
多分、その価値観は、生きづらさを増すばかりなのです。
たとえば、ほら、文学の世界なんかには昔から何で糊口をしのいでいるんだか分からない無為徒食の人がたくさん出てきますよね。
夏目漱石の「こころ」の登場人物も川端康成の「雪国」の主人公もそうですし、内田百閒先生の短編にも無為徒食の人がよく出てきたような気もします。
昔はそういう何をやっているんだか分からない人を容認する空気があったのかもしれません。

最近は、「ダイバーシティが大事」、「多様性に合わて」とかいう言葉が飛び交っています。個人の多様性に合わせたワークライフバランスの構築ってやつです。
ですが、その言葉の裏には、頑張っている人、価値を産み出す人に限って多様性を認めてあげますよ、というニュアンスを含んでいるように感じます。
私自身も、そういう空気に合わせて、頑張っている自分を演出しようとしますし、身を守るために心に鎧をつけたりして、軽い悪意に気づかないふりをしたりしています。
でも、そうではなくて、価値があるかどうかよくわからない人、頑張っているかどうかもよくわからない人、そういう人をも支援できる世の中の方がみんな気楽に生きられるし、より良い社会になるんじゃないのかなあと思ったりします。

小説家の話から始まりながらも、まったく小説に関係のない話になってしまいました。
そんなこんなで、私も、もうちょっとゆるゆると 不真面目に生きていこうかなと思いますし、無為徒食の人が非難を受けている場面があったら全力で擁護しようと思ったりしたのでした。

(※Facebookのノートに書いたものを転載しています。こういうことをFacebookに書くと、リア充の友人・知人をドン引きさせることができるよ!という中二病的ライフハック!)

(追記)

同時に芥川賞を受賞した円城塔さんは、ポスドク経験があるという希有な経歴の作家です。円城塔さんの小説もすごく面白そうなのですが、私は残念ながら未読です><

寄稿 円城塔さん、芥川賞に決まって 「中間の賞」広げるのが良い

ポスドクからポストポスドクへ (日本物理學會誌 63(7), p.564-p. 566, 2008-07-05)(軽い感じで書かれていますが、これを読んで、研究者としても優秀な方だったんだろうなと思いました。優秀な方でもこういう待遇にしかつくことができないという話はよく聞きます(私はあんまり優秀じゃないので、いろいろと残念ですけど……。)。博士号取得者を育てるのに、かかる費用や時間(本人のリソースも含めて)を思うと、その能力を生かす事ができる出口をたくさん用意するべきだと思います。自己責任に帰して解決する問題だとは思いません)

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2011年12月15日 (木)

これからの道路の話をしよう

今回の記事は、前回の記事の補足。
私の道路に対する思いをちょっと整理する。

私は道路を愛している。
前回の記事で、「道路には世界を革命する力がある」と半ば本気で書いた。
それくらい道路というのは、暴力的な強い存在だ。

道路には、大きく分けて、二つの機能がある。
LINK & SPACEの2つである。
前回の記事には、こんな感じで書いた。
"連中に道路が人と人を繋ぐ線であることを思い出させてやる(LINK)
連中に道路が人々の集う場であることを思い出させてやる(SPACE)"

今の道路のほとんどは、LINK機能に特化してしまい、SPACE機能が貧弱だ。
私は、もっとSPACE機能に特化した道路があった方がいいと思っている。
街の中心部には、たくさんの人が集う空間がもっと必要だろうと。

LINK機能に特化した道路にとって、交通流が留まることは悪だ。
だから、たとえば、円滑な交通のために、多額の費用をかけて、地下歩道を整備し、地上の横断歩道を撤去するなんてことが起こってしまう。

交通渋滞は、大気を汚染する。円滑な交通流を促進することは、環境にとってよいんですよ。
歩行者や自転車を地下歩道や陸橋に追いやると、自動車との交錯がなくなって安全になるんですよ。
そういう名目で、今も多くの交差点改良や道路整備が行われている。

だが、道路整備はさらなる自動車交通を誘発する。この不況下で交通量は少し減ってきたが、依然として自動車の分担率は高いままだ。
1990年代から、ロードプライシングやパークアンドライドといった交通施策によって、交通需要をマネジメントするべきという考え方が出てきたが、まだまだ十分に進んでいない。
TDMに早くから取り組んでいる金沢市などでも、パークアンドライド駐車場の整備台数はたいした数ではない。

道路を整備する人達は、道路管理者である。
彼らは、国土交通省や地方自治体の道路建設課など土木技術者だ。
彼らには、交通需要をマネジメントするという意識はまだまだ薄い。
なぜなら、信号や通行規制などの交通管理の権限は彼らにはなく、警察が持っているからだ。
道路管理者が施策を考えても、交通管理者が認めないと施策を実施できない。

ここしばらく道路管理者の方々とお話する機会があった。
彼らの道路を愛している様子には、ほっこりと和むものがあった。

彼らは、自分たちが整備した道路が、経済成長に寄与し、地域住民の生活の利便性を向上するものと信じている。
だが、地域を細やかに見ると、道路によって苦しむ人達がいる。
たとえば、気管支炎や喘息などの病気で苦しんでいる人達がいる。
自動車利用者が円滑に移動できる代わりに、歩行者や自転車は自動車に脅威を感じながら移動している。
こういった人達を切り捨てるのは、道路を愛する者たちの本意ではない。
彼らは誠意をもって、道路構造の改善について一緒に検討してくれたが、それによって、状況が改善したかというと、んー、えっと、前は向いているけれど進んでいないという感じかな。

では、どうすればいいのか。

答えは簡単に出るものではないけれど。
きっと解決の糸口は継続したコミュニケーションにある。

できれば、道路の整備前に、道路空間をどのようにするのかをみんなで議論する。大型車、普通自動車、自転車、歩行者がどこを通るのか、道路管理者とか交通管理者とか地域住民とか、ステークホルダーをできるだけ集めて。
そして、たくさんの代替案を作って、それが地域に与える影響を評価する(この計画段階から環境影響評価を行う仕組みを戦略的環境アセスメント(SEA)というそうだ。日本のSEAは、"日本版SEA"と言われており、他国と仕組みが異なっている)。
整備後も、ステークホルダーと共に整備の影響を評価し、改善していく。
こういったプロセスは、手間暇がかかるし、地域住民にとっても負担が大きいけれど、道路の暴力性を緩和して地域との折り合いを付ける有効な方法だと思う。

そんなわけで、私は
「道路!! 道路!! 道路!!」
と叫んで、カタルシスを感じたい気持ちがありつつも、もうちょっと道路のことについて、みんなで考えられるといいな~と、ゆる~く思っています。

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通勤途中に、iPhoneでせっせと書いたので、事実誤認がありましたら、ご指摘くださいm(_ _)m
ほんまは、もっと教科書とかいろんな文献を見直して書くべきなんだけど(>_<) 今は時間があんまりとれないので、こんな適当な内容でごめんなさい。

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2011年12月13日 (火)

よろしい ならば道路だ

諸君、私は道路が好きだ
諸君、私は道路が好きだ
諸君、私は道路が大好きだ

一般道が好きだ
高規格道路が好きだ
自動車専用道が好きだ
農道が好きだ
バイパスが好きだ

過密な大都市で
寂れた地方都市で
人けのない郊外で
田畑しかない農村で
鬱蒼とした山間部で

この地上に存在するありとあらゆる道路が大好きだ

一本の長い道路が好きだ
地域を変容させる様子など心がおどる

あまたの自動車により工業製品や農産物、商品が運ばれる様子が好きだ
あまたの人々が道路を使って目的地に急ぐ様子など胸がすくような気持ちだった

高架橋柱が整然と立ち並ぶ様子が好きだ
複雑なジャンクションが美しい線形を描く時など感動すらおぼえる

真新しいアスファルトが煌めく時などもうたまらない
地図上に新たな道路が書き加えられるのは最高だ

交差点の改良により
渋滞が解消した時など絶頂すら覚える

可能交通量の限界まで交通流が流れる様子が好きだ
サグや上り坂のために道路の機能を十分に生かすことができていない様子はとてもとても悲しいものだ

一般国民が当たり前のこととして道路を捉えているのが好きだ
道路利権と非難されるのは屈辱の極みだ

諸君 私は道路を 国土の骨格となる道路を望んでいる
諸君 私に付き従う道路好きの諸君 君たちは一体何を望んでいる?
更なる道路を望むか 
糞の様な道路を望むか?
全国民に愛されるような道路を望むか?


道路!! 道路!! 道路!!


よろしい ならば道路だ

だが、不況による交通量の減少に耐え続けて来た我々には
ただの道路ではもはや足りない!!
大道路を!! 一心不乱の大道路を!!

我々はわずかに小数
鉄道好きに比べれば物の数ではない
だが諸君は一騎当千の築土構木の徒だと私は信じている
ならば我らは諸君と私で総兵力100万と1人の土木技術者集団となる
我らを忘却の彼方へと追いやり、公共事業は全てムダだと言い募るマスコミや大衆を叩きのめそう
道路批判の立場から引きずり下ろし 眼(まなこ)をあけて思い出させよう

連中に道路が人と人を繋ぐ線であることを思い出させてやる
連中に道路が人々の集う場であることを思い出させてやる
道路には奴らの哲学では思いもよらない、世界を革命する力がある事を思い出させてやる
1000人の築土構木の徒で 世界を漆黒の道路で埋め尽くしてやる

目標 さらなる円滑な交通流を

道路ネットワークを拡充せよ

征くぞ 諸君


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参考:少佐演説ジェネレーター
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何か電波を受信して書いた。
せめて三年前くらいに思いつきたかった。時期を逸しすぎて意味がわからないけれど。

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2011年12月 7日 (水)

聞くこと、伝えること、変えていくという意思を持つこと

 先日、私の職場の主催の公害教育に関するシンポジウムに出席した。

 シンポジウムで興味深かったことについてのメモ。

 私の職場のひとつである財団では、3年にわたって、公害地域に学生等を連れて行き、フィールドワークをさせ、最後の報告会で何らかの提案させるというスタディツアーを行っている。
 スタディツアーの企画に携わった先生曰く「当初は、現在進行形でへヴィーな現場に何も知らない学生を連れて行くのに、批判もあった」とのこと。公害地域は、何も知らない人間が土足で踏み込んでよい場ではないと。
 だが、スタディツアーの参加者は、かなり真剣にフィールドワークを行い、それは地域にとっても、ツアー参加者にとっても大きな効果があったようだ。公害地域の今を知り、被害者だけでなく加害企業の話を聞き、その緊張感のある信頼関係を目の当たりすることにより、参加者は公害地域の再生について理解する。地域は、参加者の真剣なまなざしを受けることにより、自分たちのしてきたことの意義を問い直すことができる。

 公害教育にずっと携わっている先生のお話も、興味深かった。
 「水俣に学生を連れていくと、その地域にはまって何回も行く学生がいる」とか。はまる理由は、まず、人がやさしいこと。たくさんの苦悩を乗り越えてきた地域であるため、学生はそこで自分の悩みを相対化することができる。もう一つの理由は、白黒の水俣がカラーの水俣に鮮やかに変わったこと。白黒の水俣は、教科書などに掲載されている暗い公害の過去の歴史。だが、水俣は自然が美しい、魅力的な地域であるとか。

 水俣では、最も公害が酷かった時期に、公的な機関によって「水俣病に負けない身体づくり」という教育がされていた。胎児や子どもなど弱い人達は汚染の影響を受けやすいが、地域に水銀そのものを排出しないのが筋であるのに、体づくりや教育だけで公害を克服するなんて間違っている。。
 福島を始め原発がある地域でも、「正しく理解すれば放射線は怖くない」という教育がされていた(私の地元の福井でも、その手のパンフレットを見たことがあるし、原発見学ツアーが頻繁に行われていた。敦賀などの原発のお膝元には原子力を学ぶための立派な施設がいくつもある)。行政や汚染物質を排出する企業は、安全側に傾きがちで、責任を住民に押し付けようとするというのは、今までの公害の歴史で繰り返しされてきたことだ。私達は歴史からちゃんと学べていない。

 土壌汚染の研究者の先生によると、イタイイタイ病の後、田んぼ1.5haごとにカドミウムの検査をしていたそうだ。カドミウムの汚染から田んぼを復元するのに、膨大な金額と年月がかかっている。
 今の福島でされている検査はもっとザルだとか。放射能汚染はムラがあるので、本当は田んぼ1枚ごとに検査してもよいくらいだそうだ。福島の土壌汚染は、今までの公害の中でも最大規模で、除染は間に合わない。

 四日市喘息の被害者支援をしている方が、「工場萌え」をあまりよく思っていないと発言されたのは少しショックだった。工場のばい煙のために被害を受けている人がたくさんいるのに、工場を美しいモノとして観光するのは浅はかではないかという意見だった。大学の先生からは、工場の景観に魅力を感じた人に、公害地域再生を伝えていく余地はあるのではないかとの提案があったが、なかなか難しいのではないかと思った。
(私は、工場萌えの写真集を出した大山顕さんのファンなので(大山さん主催の写真撮影ワークショップに参加したことがあるくらい)、この意見をちょっと複雑な気持ちで聞いていた。「工場萌え」というのは、テーマパークのような無味無臭で安全で小ぎれいな景観でもなく、写真家が撮影してきた絵葉書のように美しい景観でもない、自分たちにとってかっこいい景観を新たに発見する試みだと思っている。そうした場に、公害地域再生の話を持っていくと、教条主義的なものに思われて、反発を招いてしまう恐れもあるように思った。)

 私は、今の職場で勤めるまで、公害や公害被害を受けた地域の現状についてほとんど何も知らずに来た。
 公害についていろいろと知ったりすると、私はいろんなものにきちんと目を向けないで過ごしてきたんだと改めて感じる。自分がいかに感性が低かったのか、想像力がいかに欠けていたのかを感じる。
 聞くこと、伝えること、過去のことをふまえて未来を変えていくという意思を持つこと。地域で多様な人々と暮らしていくために必要なこれらの態度を培う場が、公害教育なのだと思う。

* この記事は、友人や知人たちに向けてFacebookに書いたものを転載しています。シンポジウムで得た知識を踏まえて書いているため、細かな部分の裏付けをとっておりません。ですが、私は、個人的に、今、この時期に、公害教育について知る意義、取組む意義はかなり大きいのではないかと思い、取り急ぎ公開しました。間違い等がありましたらご指摘ください。

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2011年11月23日 (水)

見知らぬ人に本を渡す

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 先日、大門玉手箱の箱主になった。箱主になるのは9月に続いて2回目。大門玉手箱は、初宮神社という小さいお宮さんで2ヶ月に1回行われる一箱古本市。

 2回出店してわかったことは、一箱古本市は、本を介してお話をする場で、私の好きな本を読んでくれそうな人に手渡す場だということだ。本棚の整理にもほとんどならない。そういうことをしたいのだったら、ブックオフに行くとかアマゾンのマーケットプレイスに出す方が効率的だ。

 竹宮恵子の表紙の新井素子のコバルト文庫を持っていったら、私と同世代の女性が何人か「懐かしい~」と、話しかけてくれた。最近、新井素子が日経新聞でエッセイを書いていること、もう初老といえる年で内容もそれに見合うような老眼などの話題をしているのに昔と同じような女子高生の口語体の文体で書き続けているということ、そういう他愛ないことで盛り上がった(残念ながらその本を持っている方ばかりなので、売れはしなかったけど、それでも持って行ってよかった)。

 赤ちゃんを触りたいと近寄って来た小学生の男の子に、高橋留美子の「人魚の森」をおすすめしてみたら気に入ってくれたのもうれしかった。「人魚の森」は私が子どもの頃に読んでいた20年前の漫画。当時の高橋留美子は、うる星やつら等でループし続ける世界を桃源郷として描いている一方で、不老不死の残酷さをこんな形で描いていた。

 梨木香歩や多和田葉子を買ってもらえたのもうれしい。梨木香歩は「西の魔女が死んだ」が映画化されているのでまだ知名度があるが、多和田葉子はあまり知られていないようだ。犬婿入りが芥川賞をとったの、もう20年くらい前だしなあ。いずれも此方側と彼方側の境目を曖昧にした世界を書く作家で、読みながらうっとりとするし、ぞわわとする。もっとたくさんの人に読んでもらえると嬉しい。

 ほかの箱を覗くのも楽しい。箱の中は、箱主の本棚の一部なので、その人の趣味や人柄がわかって興味深い。今回は安野光雅の赤ちゃん向けの絵本、西瓜糖の日々、諸星大二郎の漫画、猫町の絵本などを手に入れることができて、ほくほくしながら帰った(つまり、うちの本はまったく減っていないんだ……)。

 大門玉手箱では本以外のものもたくさん売っていて楽しい。手づくりのお菓子やパン(プロの方も混じっている)、花瓶敷にちょうどよい板、難民支援活動の手づくり雑貨、マッサージなど。9月には、ハンマーダルシマーの演奏をする方(クポリンさん!)が来られて、ぽろんぽろんと素敵な音色を奏でてはったのも、すごくよかった。

 一箱古本市は2005年に不忍ブックストリートで始められたイベントで、今は全国各地で開催されているらしい。『一箱古本市の歩きかた』(南陀楼綾繁著)には、全国の一箱古本市やブックイベントの情報がまとめられているらしい(ごめんなさい。まだ購入していない><)。また、誰が始めてもよい。開催する時に、一箱古本市をはじめた南陀楼綾繁さんに一言連絡すると、すごく喜んでもらえるそうだ。自分の本棚から本を選んで持っていくだけなので、箱主はあまり準備もテクニックもいらない(でも、手間かけたらかけた分だけ楽しくなると思う)。これは地味だけどなかなか楽しい遊びだなあと思いましたことですよ。多分、これからも定期的に箱主になると思います。

写真:9月の大門玉手箱の様子

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2011年11月18日 (金)

きれいは汚い、汚いはきれい

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" きれいはきたない、きたないはきれい。
闇と汚れの中を飛ぼう。"


妊娠、出産、育児のさまざまな場面で、一つの物事に相矛盾するものが含まれているとよく思う。
多分、親というのは、子どもが感じる矛盾を一手に引き受ける存在なんだと思う。
私は未成熟な親なので、時々、矛盾をうまく引き受けることができなくて、子どもにかわいそうなことをしてしまう時もあるのだが。
成長するというのことは、様々な矛盾を自分の中で消化できるようになることのように思う。


今月で、下の娘が産まれてから六ヶ月が過ぎた。半年前にこの人はこの世に存在しなかったというのが不思議だ。

六ヶ月児にどこまで感情があるのかわからないが、観察していると表情がくるくると変わって興味深い。
いつまでも見惚れてしまう。
ベビーカーで移動中に身を乗り出して外を熱心に眺めたり、自分が座っているベビーカーを検査するかのように真面目な表情でパチンパチンと手で触ったり、こちらと目を合わすとにこっと微笑んだ後に恥ずかしそうに布で顔を隠したり。


六ヶ月児の発する言葉にならない声も面白い。
下の娘は、声がちいさくて、喉の奥の方で小さな声を出す。
機嫌がよい時に「キュッ」と笑い声をあげたり、「うー」「くー」といった喃語(書き写すのがとても困難な不思議な音)を発する。
赤ちゃんの声をきくと、つい真似をして同じような音を発したくなるが、大人が言うととてもキモいので、真似するのは推奨できない(>_<)


彼女はこちらの世界に慣れていないので、私たちは一緒にいるだけで貴重な時間を過ごしていると思える。
次女は、上の娘に比べると、あっという間に育っているように感じる。いつのまにかいろんなことができるようになっている(もう離乳食を食べてるんだぜ! 電気のコードを抜こうとしたり。この前、産まれたばかりなのに(>_<) )。
日々の喧噪の中では、大事なこと、貴重なことを見極めるのは難しかったりもするが、毎日をやり過ごすのではなく、月齢児との時間を丁寧に過ごしていけたら、と思う。


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最近、よく更新しているのは、通勤時間にiPhoneのココログアプリを使うようになったから。
iPhoneから、こんなに長文を入力する私って、ちょっとキモイわ(>_<)

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2011年11月16日 (水)

ゆるふわ素敵女子ブログだと思った? 残念!t80935さんのブログでした!

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 少し前に、親しい友人に「t80935さんは生き生きとネガティブにしてるのが似合ってる」と言われて、あー!まじで!私!そんな感じよな!と、もうめっちゃ「!」を無駄に付けたくなるぐらい納得した。

 私は、基本的に超ネガティブで、人見知りで、そのくせかまってちゃんで寂しがりで、すぐ人のことを羨むし、私なんか誰にも必要とされてないねんって卑屈になるし、自虐もひどいし、自己憐憫が大好きだし、大ざっぱで無神経で他人の心の機微がよくわからないし、空気よむのめっちゃ苦手、でも、めっちゃ神経質で、自分にむちゃくちゃ甘い。私には「リア充爆発しろ!」という権利があるだろって思ってる。あははははは。書いているだけで超鬱陶しいですね☆ミ おまえ、友だちいないだろ♡ 自分、死ねばいいのに♪ 自己嫌悪の無限ループ∞(自意識過剰すぎて、いい年の大人が書く文章じゃない(>_<) 本当にごめんなさい)

 私はもう若いとは言えない年齢になったし、家族もいるし、仕事もあるし、幸いなことに周りは良い方ばかりで、みなさんに仲良くしてもらっているし、そこそこ信頼してもらっていたりする。環境に恵まれている。とても運がよい。外向きの私はポジティブに擬態していて、ダメな自分は出さないように気をつけている(おお、こう書くと、私、リア充じゃん*!自分、爆発しろ)

 それでも、体調崩したり余裕なかったり人間関係がごちゃごちゃすると、素のダメな自分が綻びから出てきて外向きの自分を蝕もうとする。ダメな自分を抹殺できるんだったらよいのだが、長い年月を積み重ねて作ったものなので、簡単にはいなくならない。子どもの頃の自家中毒に比べれば、点滴のお世話にならないだけましだ。

 たぶん、ダメな自分をいないものとして扱うよりも、どうにかして飼いならさないといけないんでしょうね。ネットなんだから自分を偽って、ゆるふわ素敵ブログを書こうと思っていたのに、自意識過剰な変な文章(微塵子に生まれ変わりたいとか「私って孤独やん」という自己憐憫とか)を書きたくなるのって、箱庭療法みたいなものだと思う。私は、適当にネガティブにしていないと死んじゃう>< 

 そんなわけで、ここによくわからない変な文章を書いている時、私はとっても元気です。ゆるふわ素敵ブログは、私には書けない。残念女子だから仕方がない。

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参考:残念さやかちゃん

*子どもや赤ちゃんは細胞単位で毎日をしっかり味わっているリア充なので、子どもや赤ちゃんと一緒に暮らしている私もリア充に決まっているのだけどね。こんなに無条件で私のことを必要としてくれる人って、他にいなかった。子どもたちが大きくなると、また関係性は変わっていくと思うので、その時までにちゃんと子離れしないといけないと思う。でも、しばらくはこのまま。

本文と無関係な写真:奈良女子大記念館の講堂の天井。天井が高くて、めちゃかっこいい。素敵なシャンデリアがかけられている。中央部の花形飾りは換気口なんだそうだ。奈良女子大記念館は、国の重要文化財に指定されている。国立の女子大らしい質素なたたずまい。奈良はこういう古い建物がちょこちょこ残っている。こういう奈良のいろんな楽しいところを紹介する記事も書きたいのだが、なかなか書かれへん。そういう楽しそうな記事書くより、今回みたいな厨二病な日記を書いているほうが心安らぐって、どうかしてる……。

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タイムカプセルとしてのWeb

ウェブアーカイブスというサービスで、削除されたホームページを見ることができるというのを知ってしまい、ここしばらく、とある人の10年前の文章を読んでいる。

削除されたページをわざわざ発掘するなんて、趣味の悪いことだと思うので、一応、本人に読むことを連絡した。
本人からは、読むのはいいけれど、終わったことなので蒸し返さないでほしいと言われた。
それはそうだ。私も10年前の自分は別人だと思うもの。

ウェブアーカイブスを読みながら、すごく不思議な気持ちになる。
私、当時のこの人のこと、まったく知らなかったのに、時を超えてこうやって、この人が過去に考えていたことを読むことができるんだから。
普通の日記だったら、どんなに私がその人に興味を持っていても、その人が廃棄してしまったら読むことはできない。有名な作家であったら、誰かが日記を保管していることもあるかもしれないけれど。

ウェブに文章を書くというのは、タイムカプセルみたいなものなんだな。
こうやって書き続けている私の無意味な文章も、アーカイブされていくのかと思うと、ぞっとしたりもするが、面白いことでもある。
私が興味なくなってこのページを閉鎖しても、何かの時に誰かに発掘される危険性があるということだ。

だから、私は、ここに書く時に、少なくとも以下の二つのことを心しようと思ったりした。
・ばかなこと、くだらないこと、面白くないことでもよいが、自分の言葉で書くこと(自分の言葉なんて曖昧なもので、借り物の言葉や決まり文句と自分の言葉との区別を付けるのは難しいよね。先生、オリジナリティってどこにあるんですか?)。
・できるだけ人を傷つけるようなことは書かないでおくこと(私がここで生きて存在している以上、誰のことも傷つけないということはできない。存在をなくせば、誰も傷つけないかというとそうでもなくて、存在を消すことは強く誰かを傷つけることになる。仕方がない。仕方がないが、意図的に誰かの傷をえぐるようなことを書くのは、あまりにも見苦しいと思うし、基本的に私の言葉しか載らないここでそういうことを書くのは不正義だと思うんだ)。

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2011年11月 5日 (土)

幸せと孤独と

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 起きた瞬間から寝る直前まで続く上の娘の甲高い話し声、言葉にならない何かを発し続ける下の娘の不思議な声、少し熱っぽくさえもある子どもたちの手のぬくもり、ぎゅっと握れば握り返してくれる小さな掌、目を合わすと返してくれる笑顔、短い手足をばたばたと動かす下の娘。
 私は、今、そういう幸せの塊みたいなものばかりに囲まれている。
 きっと、私は、人生の中で、一、二を争うぐらい幸せな日々を送っている。
 幸せなんだと思う。

 でも、毎日、なぜかひどく疲れていて、ゆっくり考える間もなく常に小走りで、いろんなことがうまくこなせなくて、いろんなことを先送りにして、大事なこともせねばならぬことも置き去りにしている。 私は関わりたい物事にきちんと関わることができていなくて、役立たずのまま、無為に日々を過ごしている。
 そして、ふっと気が抜けた時、私って一人なんだなって思う。この一人という感覚に堪らなくなる。

 恋人ができれば、結婚すれば、子どもがいれば、子どもがもう一人いれば、傍らに誰かがいてくれれば孤独から逃れられると思っていたが、もちろんそんなわけは全然ないのだ。 幸せなものに囲まれているということと、孤独であることは両立してしまうんだ。

 孤独に蝕まれることを避けるためには、孤独とちゃんと付き合うしかないのだろう。 結局のところ、一人で生まれて、一人で生きて、一人で死んでいくのだよ。
 一人でいることにちゃんと向き合わないと、家族をはじめとした他者とうまくつながる事ができない。 自分と他者との境目が曖昧になると、世の中を中立な立場から見ることができなくて、見える世界がどんどん狭くなって歪んで見えてくる。 歪んだ目でしか世界を見れない人間は、世の中に怯えることしかできなくて、自分の世界に閉じこもることになる。

 他者から見えていると思われる自分と、自分が認識している自分との間には、いつでも深い溝があって、その溝を埋めようともがけばもがくほど傷つく。 相互理解というのは、必ず傷を伴うものだから。 傷つかないようにしようと思ったら、誰とも接しないようにするのが手っ取り早い。
 だけど、私は、だれかと接しないと生きていけない。だから、そのために、ちゃんと孤独と付き合えて、些細なことでは傷つかない強い人間にならないといけないと思う。

 孤独とちゃんと付き合うって、何をしたらいいんだろう。 健康的な生活を送ること、自分の矜恃を大事にすること、自己憐憫に浸らないこと、よく勉強したり本を読んだりすること、一人で過ごす時間を無駄にせずに大事にすること、とかいろいろ。よくわからない。
 人生は突然終わるかもしれないが、思いのほか長く続いてしまうものかもしれない。 人生が長く続いた時に、孤独に苛まれているとしたら、それは年の重ね方を失敗しているのだろう。 とかなんとか。 なんしか寂しいし、先のことがすごく不安。
 私の今の状況で寂しいとか不安だとか思うのは贅沢で、それを口にするのは間違ったことのように思うし、実際にそれを口にしたら人に笑われた。「いったい何をいっているんだ」って。 そのとおりだと思う。私が弱すぎるんだ、ただ単に。

(追記) 読み返したら、自分自分自分って自分のことばっかり考えているな、そんなんだから、すぐ詰むんだよ、バカバカしい。 もうちょっとひいて自分を見なあかんな、とりあえず。時はいつのまにか過ぎて、時が解決してくれることもあるし。 えっと。少女革命ウテナみたいに、「世界を革命する力」が欲しいなあと。

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2011年11月 3日 (木)

他人の夢の話ほどつまらないものはない

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 微塵子になる夢をたまに見る。身体が透き通っていて「初代iMacのようにトランスルーセントだ」ってちょっと感動する。脚はなく、手の代わりに透き通った触手が頭から生えている。

ふと気がつくと、傍には単為生殖で増やした私のクローンの子どもたちが無数にいる。みんなで、両腕をバタフライのように同時に動かしながら、光の中をすすんでいく。私達がいる世界は小さな水たまりのような場所かもしれないが、それでも十分に広大で、どこまでいっても世界の果てが見えない。

 少し前まで生まれ変わったら飼い猫になりたいと思っていた**。だけど、微塵子の方がいいかもしれない。甲殻類だから身体が殻で囲まれているのもいい。単為生殖できるというのも魅力的だ。私にそっくりな無数の私の子どもたちに囲まれると、私は私のことを好きになれるのだろうか。

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 あああ。なんか不思議ちゃんぶった文章でキモイなあ。

**上の娘は生まれ変わったら、魔女になりたいそうな。魔女修行をして偉大な魔女になりたいとか。私は飼い猫になりたいって言ったら、そんなんあかんって怒られてしまった。寿命が短いし、頭使わへんからダメって。飼い猫には飼い猫の苦労があるように思うんだけど。人間を飼いならすのとか難しそうやん。

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