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2008年6月

2008年6月28日 (土)

遠きにありて思うもの

 福井弁にまつわる話が続くよ。

 全セリフが福井弁で話される「福井青春物語」という自主制作映画を見つけた。youtubeで全編見ることができる。主人公を演じる津田寛治をはじめ、全員が福井出身者で、ものすごくnativeな福井弁をしゃべる。「きのどくな(ありがとう)」、「ひっで(すごい)」、「おえー(うわあ(感嘆))」など、福井に帰らない限り聞くことができなくて、福井出身者以外には理解不能な福井弁が全編に溢れている。あまりにもわからないので、標準語の字幕付きである。ロケ地も福井駅前や東尋坊など福井出身者であれば知っている場所ばかり。羽二重餅や今川焼、五月ヶ瀬、江川の水ようかんなど福井出身者が泣いて喜ぶ銘菓がたくさん出てくる。あふれんばかりの福井への愛を映画全体から感じる。
 自主制作系の映画をあまり見たことがないのでどう評価すればよいかわからないのだが(だって、ほとんどの人の演技が素人だもの)、「福井青春物語」はすごくよい映画だと思う。大阪で大阪の映画を作るのとはわけが違う。あれだけ人口が少なくて、特色らしい特色が少ない(と思われている)福井に住み続けながら、福井をストレートに愛して、福井に生きる自分というのを表現しているというのは、すごいことだと思う。
 たぶん、私が福井に住み続けていたら、この映画は恥ずかしくて見ることができなかっただろう。なぜなら、あまりにも福井への愛がストレートすぎる。福井にいた頃は、空気と水しかないこの地がそれほど好きじゃなかった。福井弁もできるだけ使わないように気をつけていた(でも、訛っていたけどね)。この土地から見あげる空は、都会からみる空よりも劣っているのではないかと思っていた。でも、最近、指輪物語のホビット達がホビット庄を懐かしむように、福井のことが懐かしくてたまらない。ふるさとは遠きにありて思ふもの。たぶん、多くの人はふるさとへの愛情を都会と比較することで、初めて強く感じることができるのだろう。そういう意味で、この映画の製作者たちはえらいな、と思う。あー。福井に帰りたいなー。

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 「福井青春物語」2005年作成。詳しいことはwikipediaに。監督の勘違いのくだりとか、とても面白い。(監督が事件を起こしたのはイタイことであるが、この映画自体は良い映画だと思う。)
 著作権フリー宣言がされていて、youtubeで全編見ることができる。

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2008年6月22日 (日)

ふるさとのなまりなつかし

 先日、TA(ティーチング・アシスタント)をしている時、うちの専攻の2年生の中に福井出身の子がいることがわかった。で、その子と福井弁について少し話をした。福井にいた頃から福井弁のイントネーションがおかしいというのは薄々気づいていたけれど、日常的に使っている単語が方言だと気づいた時ってびっくりするよね、とかいう話である。

 その子が大阪に出てくるまで福井弁だと知らなかった言葉は、つるつるいっぱい、ジャミジャミ。私が「おちょきんとか、うらかしまとか、かぜねつも通じないよ」と伝えたら、ものすごくびっくりしてくれた。

 それと、「はよしね」とかは誤解されることが多い福井弁だよね、という話が通じてうれしかった。福井弁で「しね」は「しなさい」という意味なので、「しね」という言葉は頻繁に使われる。特に、さっさと早くしなさいということで、「はよしね」という言葉は、福井弁を知らない人が聞くと、ちょっともたついているぐらいで「早く死ね!」と言われているように聞こえてしまう。恐ろしい恐ろしい。

 その福井出身の子は「僕は標準語を話しているつもりなんです」といいながら、微妙に訛っていて少し可愛らしかった。そんな彼もあと1年ぐらいたったら、大阪に慣れてしまっておかしな関西弁を喋っていることだろう。TAは時間をとられるけれど、普段接することのない若い人たちに会うことができるのはよいことかも。

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2008年6月16日 (月)

おしゃれピラミッド

 「デトロイトメタルシティ」というおバカな映画がこの夏公開される。渋谷系に憧れていた地方出身者は多分、いや、絶対泣けるよ。

 ストーリーは、渋谷系ミュージシャンを夢見て、田舎からわざわざ上京してきた根岸君が、何を間違ったかデスメタルバンドのボーカルとして成功しちゃうという話。もうこの設定自体が泣けるよね。いまさら渋谷系って。しかも見た目がまんま半ズボン番長の加地君だよ。

 根岸君が妄想するオシャレピラミッドを見たとき、不覚にも涙が出たよ。あー、わかるわかるって。恥ずかしい高校時代とか思い出すよ。フリッパーズギターの御用達ブランドのアニエス・ベー、うちの地元には売っていなくて、必死で見た目が似たようなお洋服を探したよ。当時はインターネットが発達していなかったから、雑誌で小山田君がおすすめするCDをチェックしては、いちいち田舎のレコード屋さんで注文して買っていたよなー。BeatlesもXTCもろくに知らないのに、イギリスのインディペンデントレーベルのCDを買っていたよ。タワーレコードに初めて入ったとき、めちゃめちゃ感動したなー、こんなにたくさんのCDが視聴できるなんて夢のようだなって。自分が考えるオシャレピラミッドの底辺あたりをうろうろしていた高校時代。思い返すと全然オシャレでも何でもないのが、またイタイ。

 予告編の最初の曲をきいてなんてうまく渋谷系っぽい曲を作っているんだろう、歌い方まで渋谷系だよと感心していたら、加地君本人が歌っていたよorz。加地君、私たち渋谷系に憧れていた人間達が馬鹿にされている映画で、喜々として歌わないで。というか、喜々として歌うあたりが加地君らしいよね。

 たぶん、映画館に見に行くことはないだろうけど、DVDで見るのが楽しみ。というわけで、youtubeにあった予告編を貼付けておきます。

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2008年6月15日 (日)

選べるということは幸せなのか

 私たちの生活は常に選択を迫られている。選択する余地がないということは不幸せであるように思われていて、選択肢(オプション)が多ければ多いほど幸せであるかのように思われているような気がする。車のCFなんかでは、オプションがたくさんあって、その中から自分らしく好きな物を選ぶことが素敵なことだと宣伝されている。だけど、選択肢が多いいということは、本当に果たして幸せなんだろうか?選択できない状況であれば、それは環境や社会が責任を負う部分もあるような気がする。しかし、選択の幅が増えると、選択の結果を個人が負うことになるような気がする。結果の責任まで含めると、選択の幅が増えるということはそれほど幸せなことではないのではないか。

 異論はあると思うが、私は女性の方が、多くの、しかも重大な選択を迫られているような気がしてならない。車のオプションを選ぶくらいであれば大したことではないかもしれないが、子どもを産むのか/産まないのか、子どもを産んだ後も仕事を続けるのか/働き方を変えるのか/専業主婦を選ぶのかといった重大な選択を迫られているのである。男性も同様の選択があるのかもしれないが、女性の子どもに関する選択にはタイムリミットがある。男性であれば還暦が過ぎた後でも子供を持つことが可能であるが、女性は、男性で働き盛りといわれている時期に、子どもに関して決断を迫られることになる。それに、子どもが生まれたとしても男性が仕事をやめるかどうかで悩むというのは、理論上は選択肢になりうるだろうが、現実問題としてそれを選択に入れている男性はほとんどいないだろう。

 私は、子どもを持ってから「今こんなことをやっていていいのだろうか?」と思うことが度々ある。インターネットとかテレビの視聴とかくだらないことで時間を費やしている時だけでなく、大学に行っている時は「かわいい子どもを置き去りにして...」という思いに囚われることも多い。特に、子どもが保育所で別れる時に駄々をこねた時など、子ども以上に大切なことをしているのだろうか?と切なく思う。その一方で、子どもと一緒に過ごしたいから、夜や週末に行われる多くの勉強会や会合を断っている時も、「せっかくのいろんな知識を手に入れる機会を無下にしているのではないか」と思う。論文を作成している時も、どんなに締め切りまで切羽詰まっていたとしても、子どもを迎えに行ってご飯は一緒に食べたい。でもその一方で、さまざまな思考は中断され、作業量も少なくなる。

 また、子どもは母親が働くか否かで大きく環境が変わる。母親が働いていなければ、保育所に行かずに子どもは母親と濃密な時間を過ごすことになる。好むと好まざると、子どもは母親から大きい影響を受ける。保育所に行けばいろんな先生、多くの友達に会い、多くの人間から影響を受けるし、特別な一人の人間から愛情を受けることが困難であるので、淋しい思いは必ずすることになる。どちらが幸せなのかはよく分からないけれど、母親が選んだ結果が子どもに大きく影響を与えているのだけは確かなことだ。

 何だか愚痴めいた文章になってしまった。何が云いたいかというと、私は私がした選択に少し不安を持っているということだ。育児も家事も中途半端にしながら、向いているとも思えない研究(あるいは仕事)に足をつっこんでいる生活が楽しいと思う時も多いけれど、辛い時も多い。それでも、もうここまで来たら、後戻りはできないような気がする。もし、今大学をやめてしまったら、すべてが無駄になってしまう。娘のかわいい盛りを犠牲にしてまで、研究と仕事をしてきたんだから。

 たぶん、一番幸せなのは、悩むことなくこれしか選択肢しかなかったんだと思いこみ、一つ一つ他の選択肢を消していく方法だ。つまり、自分で選択肢の幅をぎゅっと狭めた方が幸せだということだ。そして、選択した後は、今はこれしかすることができなかったんだ、これが最善の策なんだと思いこむことだ。私が大学に行くのは、私が引きこもりにならずに社会との関係性を保っていくために必ず必要なやり方であるし、引きこもりの母親になるよりも子どもにとっても良いやり方であったに違いないと思いこむことだ。そうした上で、時間の優先順位をしっかりとつけて、効率よく日々を過ごしてくことだ。そして、それぞれの時間を集中して、充実させて過ごしていくしか、できることはない。

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2008年6月14日 (土)

そんなジョブズにだまされて

 マックブックを買うと、i-podが付いてくる。そんなジョブズのあおり文句にだまされて、調子にのってi-pod touchを買ってしまった。つい先月の話だ。

 今更ながら、i-pod touchは素敵だった。素晴らしい操作性、今までのどのPDAよりもさくさくと動くし、何よりキーボードがついていないので見た目がシンプル。インターフェースがよいとか、ユーザビリティが素晴らしいとかじゃなくて、まさにユーザー・エクスペリエンスを提供してくれているよ。

 と、すっかりi-pod touchにうっとりしていたのだが、touchに電話とカメラ機能が付いたi-phoneがもうすぐsoftbankから発売されるとか。しかも、2万円ぐらいで売るかもよ、という話。Σ(゚д゚|||)ガーン。この前の抱き合わせは、在庫一掃セールですか、ああ、そうですか。

 いや、いいんですよ。i-pod touch、MP3プレイヤーとしてはかなりよい機種だと思うし、満足してますよ。でも、素晴らしいおもちゃを手に入れたというウキウキ感が一瞬で終わってしまって、淋しかった。

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2008年6月 7日 (土)

質問するということ

 学会で札幌に来ている。今回の学会は、いろいろと得る物が多くて、とても楽しい。

 学会にまだ慣れていないころ、発表後に質問が来るのが怖かった。その質問に答えられなかったら困るな、と思っていた。

 でも、今は逆に質問が来ないことのほうが怖い。なぜなら、その研究発表は議論に値したい、誰の興味も惹かなかったことを意味することになるから。答えられない質問も、その研究の幅を広げてくれる質問かもしれないし(研究を全否定されていることもあるけど)。

 それと、質問をするという行為は、質問をする人の疑問が解決するだけでなく、他の聞いている人にとってもその研究発表を理解するのに役に立つ。

 私は厚顔無恥なので、学会で質問をするのは結構好きだ。自分の能力に見合って大したことは質問できていないかもしれないけれど、徐々に意味のある質問ができるようになってきているような気がする。

 最近、学生さん達と一緒に勉強会をしているのだが、全く質問が出ない時があって困る。みんな恥ずかしがりなのか、ちゃんと聞いてないからなのか分からないが、ふだんから質問しなれていないと、他のところで質問できるようにならないと思う。一人の質問はみんなの役に立つ、ということをきちんと伝えて、質問し合うという文化を育もう。

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2008年6月 6日 (金)

ひみつに、そーっと

 学会で家を2,3日空けていた時、娘はどうしているのだろうと思い、家に電話した。オットの話によると、娘は母の不在にも関わらず、健気に機嫌よく過ごしている様子。

 娘に電話を代わってもらい、「おみやげに『白い恋人』買って帰るね」と伝えたところ、急に大きな声で「お母さんと○○(娘の名前)とふたりで、ひみつにそーっとぜーんぶ食べようね」と叫んだ。傍らにオットがいるはずなので、そんな大きな声で叫んでは、全然秘密でも、そーっとでもなくて、笑ってしまった。でも、母と二人きりで秘密に何かをしたいというのが、母を特別扱いしてくれているようで、うれしかった。

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 結局、白い恋人は娘と二人で食べるのではなく、家族3人で仲良く食べた。だいたい『白い恋人』は、砂糖やバターが山ほど入っているさくっとした歯触りがよくて、とてもカロリーの高い豪奢なお菓子であるので、二人で食べきるにはもったいない。娘も母との約束をすっかり忘れて、気前よく父に『白い恋人』を渡していた。

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2008年6月 3日 (火)

研究を進める推進力

 M助教授と話していて、「結局のところ、研究を進める推進力って、問題意識だったり、楽しいって思う気持ちでしかないだろう」という話になり、激しく同意した。

 私がいま取り組んでいる研究の元々の動機は、移動に困っている人々に会った経験に基づいている。

 学生の頃、ボランティアで視覚に障害があるOTさん(作業療法士)のガイドヘルパーを2回だけした。そのOTさんは、病院に来られない人々の家を回ってリハビリをしていた。そのリハビリの付き添いの際に、私はかなり衝撃を受けた。その地域は大阪の下町で、細い道に小さな住宅がかなり密集して建っていた。小さな住宅の中に、寝たきりの高齢者や一人暮らしの高齢者が暮らしていて、OTさんを待っていた。ある30代ぐらいの男性は、事故で寝たきりになったらしく、首から上と足首から下しか動かなかった。その人は、光が差し込まない暗い部屋で、テレビを見ていた。それまで、私は、これほど困っている人がたくさんいるという状況を考えたことがなかった。こういう移動に困っている人々がいるのに、何で行政は、社会は助けないんだろう、という憤りを感じた。これが私の研究の一番の動機である。

 研究は辛い。本当に辛い。ミクロな目で見ると、こんなことをして何の役にたつんだろう、と思う。世の中の役に立っていないような気もする。でも、大局でみると、私が足を突っ込んでいる分野の研究成果は確実に世の中に還元されていて、世の中の仕組みを少しずつ変えている(例えば、コミュニティバス計画や事業評価、バリアフリーなど)。すぐに役立つものだけが、重要なんじゃない。すぐには役に立たないかもしれない、でも、何かの役に立てようという思いのもとに作ったものじゃないと、長い目で見ても役に立たない。小さくてもいい、世の中を少しでも変えていきたい、そう心の底で思いながら、研究を進めていこう。

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2008年6月 2日 (月)

名前をつけてやる

 何かに名前や愛称をつけるという行為は、その対象物と特別な関係を結んだということを認証する行為なんだと思う。たとえば、義母が作ってくれたうさぎの人形に「ピッピちゃん」と名前を付けた日から、その人形はただの人形じゃなくて娘のピッピちゃんになった。同様にモントリオールのお土産のテディベアは、「モンちゃん」と名付けられてから、ただの大量生産品ではなくて、娘のモンちゃんになった。たとえ安直な名前であったとしても、名前を呼ぶことでモノと人の距離がぐっと縮まる。

 ある日、娘のおじいちゃんからマイシングウェアのペンギンの人形をもらった。娘はかなり喜んで「名前をつけてあげる」とはりきった。で、付けた名前が「ぺんぎんぐる」。ぐるって何なんだ?娘の名前の最後に「る」がつくので、「る」を付けたのだろうかとは思うのだが、変な名前だ。それでも、とりたてて変更する理由もないので、そのまま「ぺんぎんぐるちゃん」と呼んでいる。娘はぺんぎんぐるちゃんとカルタとりをしたり、ご飯を食べたり、一緒に寝たりして、かなりお気に入りのようで、始終「ぺんぎんぐるちゃん、○○をしよう」と話しかけている。私もそのペンギンの人形を見ると、マイシングのペンギンではなくて「ぺんぎんぐるちゃんがいる」と思うようになってきた。名前って不思議だ。

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 名前をつけたり愛称で呼んだりする行為、私はあんまり得意じゃない。友人の何人かはかなり親しかったのにも関わらず名字で呼んでいたし、いまでもオットのことを名字で「○○君」と呼んでいる。親しい人に対してはどこまで親しくしていいのかが分からないので、呼び方だけでも距離をおいているのかもしれない(あー、でも、最近オットに対しては、呼び方は相変わらずヨソヨソしいのに、図々しい感情の押し付けをして、それがもとで口ゲンカをしている気がする。ちょっと初心に戻って、オットとの距離感を考えよう)。

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