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2008年6月15日 (日)

選べるということは幸せなのか

 私たちの生活は常に選択を迫られている。選択する余地がないということは不幸せであるように思われていて、選択肢(オプション)が多ければ多いほど幸せであるかのように思われているような気がする。車のCFなんかでは、オプションがたくさんあって、その中から自分らしく好きな物を選ぶことが素敵なことだと宣伝されている。だけど、選択肢が多いいということは、本当に果たして幸せなんだろうか?選択できない状況であれば、それは環境や社会が責任を負う部分もあるような気がする。しかし、選択の幅が増えると、選択の結果を個人が負うことになるような気がする。結果の責任まで含めると、選択の幅が増えるということはそれほど幸せなことではないのではないか。

 異論はあると思うが、私は女性の方が、多くの、しかも重大な選択を迫られているような気がしてならない。車のオプションを選ぶくらいであれば大したことではないかもしれないが、子どもを産むのか/産まないのか、子どもを産んだ後も仕事を続けるのか/働き方を変えるのか/専業主婦を選ぶのかといった重大な選択を迫られているのである。男性も同様の選択があるのかもしれないが、女性の子どもに関する選択にはタイムリミットがある。男性であれば還暦が過ぎた後でも子供を持つことが可能であるが、女性は、男性で働き盛りといわれている時期に、子どもに関して決断を迫られることになる。それに、子どもが生まれたとしても男性が仕事をやめるかどうかで悩むというのは、理論上は選択肢になりうるだろうが、現実問題としてそれを選択に入れている男性はほとんどいないだろう。

 私は、子どもを持ってから「今こんなことをやっていていいのだろうか?」と思うことが度々ある。インターネットとかテレビの視聴とかくだらないことで時間を費やしている時だけでなく、大学に行っている時は「かわいい子どもを置き去りにして...」という思いに囚われることも多い。特に、子どもが保育所で別れる時に駄々をこねた時など、子ども以上に大切なことをしているのだろうか?と切なく思う。その一方で、子どもと一緒に過ごしたいから、夜や週末に行われる多くの勉強会や会合を断っている時も、「せっかくのいろんな知識を手に入れる機会を無下にしているのではないか」と思う。論文を作成している時も、どんなに締め切りまで切羽詰まっていたとしても、子どもを迎えに行ってご飯は一緒に食べたい。でもその一方で、さまざまな思考は中断され、作業量も少なくなる。

 また、子どもは母親が働くか否かで大きく環境が変わる。母親が働いていなければ、保育所に行かずに子どもは母親と濃密な時間を過ごすことになる。好むと好まざると、子どもは母親から大きい影響を受ける。保育所に行けばいろんな先生、多くの友達に会い、多くの人間から影響を受けるし、特別な一人の人間から愛情を受けることが困難であるので、淋しい思いは必ずすることになる。どちらが幸せなのかはよく分からないけれど、母親が選んだ結果が子どもに大きく影響を与えているのだけは確かなことだ。

 何だか愚痴めいた文章になってしまった。何が云いたいかというと、私は私がした選択に少し不安を持っているということだ。育児も家事も中途半端にしながら、向いているとも思えない研究(あるいは仕事)に足をつっこんでいる生活が楽しいと思う時も多いけれど、辛い時も多い。それでも、もうここまで来たら、後戻りはできないような気がする。もし、今大学をやめてしまったら、すべてが無駄になってしまう。娘のかわいい盛りを犠牲にしてまで、研究と仕事をしてきたんだから。

 たぶん、一番幸せなのは、悩むことなくこれしか選択肢しかなかったんだと思いこみ、一つ一つ他の選択肢を消していく方法だ。つまり、自分で選択肢の幅をぎゅっと狭めた方が幸せだということだ。そして、選択した後は、今はこれしかすることができなかったんだ、これが最善の策なんだと思いこむことだ。私が大学に行くのは、私が引きこもりにならずに社会との関係性を保っていくために必ず必要なやり方であるし、引きこもりの母親になるよりも子どもにとっても良いやり方であったに違いないと思いこむことだ。そうした上で、時間の優先順位をしっかりとつけて、効率よく日々を過ごしてくことだ。そして、それぞれの時間を集中して、充実させて過ごしていくしか、できることはない。

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