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2008年9月

2008年9月27日 (土)

人としてどうよ?

200809061537  時折、私って人間としての何かが欠けているような気がする。他者がどういう気持ちでいるのかということを想像することが時々できなかったり、妙に自分のことばかりしか考えられなかったり。

 先日、1つ上の姉と子ども習い事について話していて、姉が「エレクトーンの発表会に結局1回も出なかった」と話したのには少しショックを受けた。なぜなら、私は姉が発表会に一緒にいたのか、それとも不在だったのかを全く思い出せないからだ。

 姉は小学生の間、私と一緒にエレクトーンを習っていたのだが、毎回「出たくない」と強く言い張ったらしい(姉も少し変な子だ)。私は、上がり症である癖に妙に出たがりであるので、毎年、発表会にウキウキと出てたことをはっきりと覚えている。どうやら私は自分が発表会に出るのに気持がいっぱいいっぱいで、他のことにまで気を回していなかったようなのである。姉のことを気にかけていたのであれば、なぜ姉は発表会に出ないのか疑問に思ったはずである。

 きっと今でも、自分のことだけにしか気が回っていないことが多数あるような気がする。視野が狭いんだ。どうかと思うよ、本当に。どうしたらいいんだろう?ちょっと意識して、周りを見ること、自分を客観視することが大事なのだろうが、なかなかできない。

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未来を変える

 「デザインで未来を変える」とはデザイナーの川崎和男さんの言葉。先日たまたま見たテレビで言っていた。自分がしていることが未来を変えることにつながっている、という明るい自信がすばらしいと思った、本当に。
 誰もがやっている仕事は、多少なりとも未来に関わっている。ただ、そこに「未来をこう変えたい」という強い意思があるかどうかで、仕事のやりがいだとか、その人自身の面白みとかが大きく変わるような気がする。
 そうだよ。そうだよ。それなりの給料をもらって、安定していることが仕事の第一義の目的じゃない。私は私がしていることを信じよう。私がしていることは小さいことかもしれないけれど、未来を変える仕事をしているんだ。
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 川崎和男さんは世界的に活躍するかなりめに有名な方なのだが、字幕がないと聞き取りづらいのではないかと思うほど)福井県出身でものすごく訛っていた。それでも話す言葉はすべて面白いし、かっこよかった。面白い人だったので、本を何冊か読んでみようかと思う。

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2008年9月23日 (火)

モテナイさんにはわからないこと

 あー、私ってモテナイ人生を送ってきたんだな、と感じた話2つ。

 先日、家のiTunesからジッタリンジンの「プリプリダーリン」が流れ出した。他愛もない歌詞の歌なのだが、聴いていて「あ、そういうことだったのか!」と少しはっとした。はっとしたのは、「お願い今夜は帰りましょ。こないだのウソがばれちゃった」という部分。

 この曲をよく聞いていた中学生の頃、私はこの歌詞の意味がさっぱりわかっていなかった。どこに帰らないといけないのか、誰に対してどういうウソをついているのか考えもしていなかった。今となれば多少の場数も踏んだので、それなりに意味がわかる。当時はそういうシチュエーションになったことがなかったのだ。

 もう一つ、モテナイさんエピソード。

 先日オットと行った雑貨屋で2つで1セットのブローチを見つけた。「かわいいけれど、2つ合わせてつけるのもおかしいし、何でわざわざ2つに分かれているんだろうね?」とオットに話したところ、「ペアでつけるんじゃないの?」と当り前のように言われた。

 これも、私にはそういう経験が少ないため、ペアで付けるという発想が思いつかなかったのだ。

 やれやれ。モテナイさん人生を送ると、詞を味わう能力や雑貨を楽しむ能力にも欠けてしまうのか。今となっては別にどうでもいいんだけど、ちょっと自分でも面白かった。モテ/非モテって体にしみついているのよ、きっと。

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2008年9月17日 (水)

長年の友とのお別れ

 Excelさんは、大学4年で卒論を書いた時からお友達で仲良くやってきた。かれこれ10年の付き合いになる。Excelさんがいなかったら、研究や仕事のほとんどができなかった。ありがとう、Excelさん。

 でも、2007バージョンはあんまりにも使い勝手が悪くて、お友達をやめたくなった。特にグラフの使い心地が最悪。グラフの塗りつぶし効果でハッチがかけられなくなって、白黒グラフが使えないのは本当に致命傷。世の中のほとんどの配布物も白黒コピーだし、学会誌のほとんどはまだまだ白黒印刷だというのに。黒とグレーの濃淡じゃわかりづらいし、立体的なグラフなんか見にくいだけ。おいおいしっかりしてくれよ。

 と、思っていたら、Word上で挿入できるグラフはExcel2003の操作性であることを発見。ちょっと使いづらいけれど、これで何とかハッチを使った白黒グラフが作れるよ。今までWordさんでグラフを書くなんてありえないと思っていたけれど、これからは使わせてもらうよ。

 というわけで、私がここしばらく抱えていた問題は解決。ユーザ側が工夫しないと解決しないなんて、Microsoft Officeのアップグレードって困ったものだ。いっそのことOpen Officeを使うべきかも。

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 少し調べてみたら、みんな困っていた。

開封厳禁Excel2007のグラフは使えない(2)
http://blog.livedoor.jp/satkit/archives/51022945.html
Excel2007(エクセル2007)Q&A(Tips):塗りつぶしでパターン(斜線やドット)を使いたい
http://www.eurus.dti.ne.jp/~yoneyama/Excel2007/FAQ/graph_pattern.html

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 で、結局昨晩からOpen Office org. Calcを使ってみている。今のところ、操作性に特に問題ない。しばらく使ってみて問題なければ、Excelさんとさよならできそう。というかOpen Officeで生きていけるのであれば、高いお金を出す必要がなくなるので、こっちに慣れた方が幸せかもよ。WordさんからOpen Office org. Writerへの移行はそのうち。フリーソフトの方が使い心地がよいなんてどうなん?

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2008年9月14日 (日)

満天の星をみあげながら

200809141544_s  子どもの頃、夏休みには、毎年3泊4日ぐらいのキャンプに行っていた。家族で行くキャンプではなくて、少数の大人に引率された子ども主体のキャンプだ。キャンプに行くのは楽しみでもあり、面倒でもあった(だいたい私は子どもの頃から覇気がなかった)。キャンプ場まで3kmぐらい歩かないといけなかったし、ご飯を作る度に火を起こさないといけないし、夜は電気もないから早く寝るだけだし、トイレなんかボットンだ。お風呂もなくて、川で水浴びをする程度だ。

 それでも、毎年、野原に飛ぶ無数のトンボや満点の星空が楽しみだった。トンボは本当に多くて、私のような鈍くさい子どもでも、虫取り網をスパッとふれば数匹取れて、虫籠はあっという間にいっぱいになった。夜にはこぼれおちんばかりに星が瞬いていた。初めて見た時はあまりにもたくさんの星に、かえって怖いと感じたものだ。

 私はアウトドアはあんまり好きじゃないのだが(だって面倒だもの)、あの星空と無数のトンボを見上げるためであれば、キャンプに行ってもいいな、と思う。

 だから、大阪に来てオートキャンプ場を初めて見たとき、ここにみんな何しに来るんだろう?と不思議に思った。電気があるし、車で乗り入れることができるから不便さもない、その代わり満天の星空と無数のトンボがない。そんな場所にわざわざ何しにいくのだろう?今でも不思議に思っている。オートキャンプ場なんかがつぶれずに繁盛している意味がさっぱりわからない。私が子どもの頃に行ったあの不便なキャンプ場は今でも不便なままであってくれているのだろうか?

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2008年9月13日 (土)

自由が、夢や希望や永遠と同じ色だった

 ジブリの名作「耳をすませば」をGoogleとかで検索すると、関連検索で「耳をすませば 鬱」とかが出てくる。どうやら「耳をすませば」は見ると鬱になる映画で有名らしい。「Dancer in the dark」のように鬱になるような話、映像というわけではなくて、「耳をすませば」の世界があまりにもキラキラと輝いて美しすぎて、自分が過ごした学生時代を振り返って鬱になっちゃうっていうことらしい。ああ、何てつまらない暗い青春時代だったんだろうって。私も田舎で地味な青春時代を過ごしたからすごく気持ちわかるよ。「時をかける少女(アニメ)」をこの前テレビで見たのだけれども、同じように鬱になったよ。

 で、そんな「耳をすませば」や「時をかける少女」を鬱映画のように感じてしまう私であっても、しみじみと自分の思春期を振り返ることができる映画がある。

 「25年目のキス」は、ものすごくイケてない青春時代を過ごした記者が高校に潜入取材を行って、自分の青春のやり直しをするというもの。せっかく高校時代をやりなおしているのに、数学部に馴染んじゃって、キモイ感じで計算問題を解いたりしているのに、共感を覚える。学校の人気者やそれのフォロワーをくだらないと思いつつも、皆から羨望を浴びる姿に憧れ、彼らから声をかけられると嬉しく思ってしまうという気持ちが皮膚がひりひりするほどよく分かる。最後はハリウッドらしくわかりやすいハッピーエンド。でも、イケてない学生時代を送ったとしても、それで人生が決まったりしないし、人生はやり直しがきくという誠実なメッセージを強く感じることができて、元気が出ると思う。

 「ゴーストワールド」の主人公は、何だかこの世の中がつまらない、世の中と折り合えないし、折り合いたくないと考えている。それでも学校を卒業して、大人にならないといけない。この映画では大人になる方法を3つ提示している。主人公の親友のように自分を殺して社会と折り合うか、シーモア(スティーブ・ブシェーミ)のように趣味の世界に浸れる時間を作ってonとoffを分けるか、自分を受け入れてくれる場所を探して旅に出るか。

 少しベクトルは違うけれど、「ヴァージン・スーサイズ」も夢の中の儚い思春期に浸ることができる大好きな映画。画面にはかわいくてガーリーなものしか現れない。思春期の頃って大人になるのをやめてしまいたかった。大人になってしまえば、大人って結構気楽だなと思うし、もう二度と思春期になんか戻りたくないけれど、思春期特有の感受性の強さとか潔癖性だとかそういうのってもう戻って来ないと思うと少しだけ寂しい。実際にはイケてなくても、夢の中での自分は何だかはかなげな美少女のつもりだったあの頃を思い出すことができる。

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2008年9月10日 (水)

僕は僕の僕だけのために

 草間彌生の画面いっぱいの水玉やヘンリー・ダーガーのパステル画に妙に心ひかれる。かわいいような、気持ちが悪いような不思議な世界。草間彌生は統合失調症を患っていたし、ヘンリー・ダーガーは知的障害があった。私自身も境界性人格のようなところがあるから、こうした人々に強く惹かれるのかと思っていた。

 そんなわけで、先日、金沢の21世紀美術館のミュージアムショップで「アウトサイダーアート」という本を見つけたとき、一も二もなく購入し、熱心に読んだ。私はアウトサイダーアートのことを精神疾患がある人が書く絵のことだと勘違いしていたが、実際は違う。「アートのシステムから逸脱した部外者が自由奔放に表現した作品」である。つまり、草間彌生の作品はアウトサイダーアートとは呼ばない。よく子どもの絵の面白さとアウトサイダーアートが間違われるが、子どもの絵の面白さは稚拙さからきているのであって、4歳ぐらいになれば評価者の目を意識して絵を描いたりする。アウトサイダーアートは、自分のためだけに、作らざるを得ないという意識のもとに創作している芸術のことである。

 アウトサイダーアートは、正式な芸術の枠組みから外れた人々の芸術であるので、知的障害者や精神障害者が創作したものであることが多い。こうした人々の創作は、芸術という観点からの評価よりも、障害者教育としての効果、福祉の向上という点からの効果ばかりみられてきた。スイス・ローザンヌ市には「アール・ブリュット・コレクション」というアウトサイダーアート専門の美術館があって多くの人が訪れたり、さまざまな美術館がアウトサイダーアートの特別展をやったりするようになって、アウトサイダーアートをきちんと芸術として評価する動きが起こっている。

 現代芸術は面白いけれど、作り手が鑑賞者に問題意識を投げかけるような作品が多くて、見ているこちらはびっくりさせられっぱなしで心が疲れてしまう。その点、アウトサイダーアートは違う。他人の目を気にすることなく、自由に、ただ自分のためだけに描かれている、つくられていていて、視線が内向きだ。私がアウトサイダーアートに惹かれたのは、病的なためではなく、そういった自由さや視線に惹かれたのかもしれない。

 私は子どもの頃から絵を描くのが苦手だったし、最近ではまったく絵を描いていない。私も私だけのために絵を描いてみようと思う。

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 「アウトサイダーアート 現代美術が忘れた 『芸術』」は良書だと思う。新書なので値段も手ごろ。芸術に関しする素養がまったくなくても面白く読める。日本ではほとんど顧みられることのなかったアウトサイダーアートの歴史が丁寧に書いてある。文章も大変読みやすいし、図版や写真も多い。

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2008年9月 5日 (金)

ドア叩いたってムダだって

200808291514_1  研究費で、やっとパソコンを購入。

 4月から1年間の研究に対する研究費なのに、まともに使えるようになったのは最近。今までの旅費とかはずっと立て替えていたのだ。

 大学の先生方が研究費を業者さんにプールして問題になったりしていたけれど、この原因の一つとして、年度初めに研究費が使えないというのがあるような気もする。もっと研究費を使いやすくしたほうが、起こらなくてもよい不正が起こらなくなるのに。いや、もちろん、研究費のプールというのは駄目なことですけど。

 しかも、うちの大学の事務は、カフカの世界とほぼ同じなので、さらに輪をかけて不条理なことがたくさん起きる。4月から1年間の研究費であるのに、6月末に助成先から研究費が大学におりてきて、実際に使えるのは8月からとか。今年からは出張証明とやらも必要になって、飛行機を使う場合は飛行機の領収書のみの提出でいいのに(空港へのアクセスに関しては領収書はいらない)、電車を使う場合は出発地から目的地の最寄り駅までの領収書が必要とか。何かの悪い冗談かと思うようなことを、大真面目でやっている。

 それはさておき。私は研究費がさほどたくさんあるわけではないので、どのパソコンを買うかかなり悩んだ。
 私はよくパソコンを持ち歩いて作業をするというのと、大した作業をするわけでもないので、
 1.持ち歩きができること
 2.壊れにくい
 3.普通に統計ソフトとワードとかを同時に動かせること
 以上の3点さえクリアしてくれればなんでもよいわけだ、本当は。でも、ついついいろいろと考えて、1カ月ほど悩んでしまった。

 Let’s Noteは軽いし、バッテリーも持つし、悪くはないんだけど、あの銀色のフォルムが何となく好きになれないし、キーボードも使いにくい。見た目でいうならば、Intel入っている最近のMacBookでもいいのかも。Windowsもソフトを買えば、問題なく動くし、しかもKeynoteが使えてプレゼンが格好良くできていい。

 でも、結局、ThinkpadのXシリーズにした。IBMからLenovoに移って、なんだかデザインがださくなったとはいえ、それでも四角くて黒くてかわいくて、丈夫だ。指紋認証でのログインも便利だし。使い慣れているし。しかも、値段がかなり安くなったし。

 というわけで、新しいパソコンを買ったのに、ほとんど使用感も見た目も変わらないものになった。昔は新しいものがくると、わくわくして体を機器に合わせるのを喜々としてやっていた。でも、今では使用感が変わらないほうが面倒くさくなくてよいな、と思う。こういうところにも年を感じるな

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2008年9月 4日 (木)

先生になるということ

 先週は集中講義という名の出稼ぎ週間であったので、本当に疲れた。

 今年の授業は、まあまあうまくいったかな、と思う。授業の構成もなかなか良くなってきたし、始めから寝に来ている学生を除くとそれほど眠くならない授業ができたのではないかな、と思う。アンケートを読むと、授業中に質問されることって少ないみたいだし、グループワークもほとんどしたことがないみたいなので、そういう面を取り入れることができたのはよかったのかな、と思う。きっと私が学生の頃、この授業を受けていたらそこそこ面白かったと思うよ。

 と、自画自賛しつつも、反省点も多い。例えば3年目であるので、同じ授業資料で話していると話しながら自分が飽きてくる。聞く学生が毎年異なっていたとしても、自分がノリノリで話すためには、できだけ情報を更新して面白い資料を毎回作りなおさないといけない。それと、配布資料には注意が必要。学生に質問しときながら、それの答えが配布資料に書いてあるというヘマも何回かした。15コマ中1コマは、自分でもあんまり面白くなく感じたコマがあるから、来年もやるとしたら内容を大きく変えたい。

 それにしても。授業って本当に疲れる。ずっと学生に見られているから緊張しているし、学生からの質問もやさしく公正に答えるように気をつけているからすごく疲れる。慣れればそうでもないのかと思っていたが、今年で集中講義も3年目になるが、それでもすごく疲れる。家に帰ってくると、いつも以上に最低限のことしかしていない。睡眠時間もやたらと長い。年のせいもあるのか?

 疲れるのは初めから目に見えていたので、晩御飯だけは対策を考えておいた。手をかけなくてもできるように、あらかじめ大量のトマトベースの野菜スープを作っておいて、毎日その変化形を食べていた。1日目は野菜スープ、2日目は大豆と豚肉を入れてポークビーンズに、3日はショートパスタを入れてスープパスタ、4日は野菜スープをミキサーにかけてカレー粉を加えてカレー(5日目は幸せなことに義母のおいしいおかずが届いた)。おかげで、しばらくトマト味のものは食べたくない。

 1週間だけだから、こんな調子でどうにか過ごせたけれど、これが1学期間続いたらと思うと、想像するだけで辛くてたまらない。一応、今のところ教員志望ではあるのだけれど、もし、なれたとしても、ちゃんとこなすことができるんだろうか?結構不安が大きいよ。

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2008年9月 3日 (水)

自分の本を持つ

 夏祭り*の古本市で買ったin Pocketの大江健三郎インタビューが思いのほか面白かった。大江健三郎が村上春樹や吉本ばななといった世界で読まれている新進気鋭の作家を意識していることも意外であったし、自分の本が売れていないことを気にかけているとは思いもよらなかった。そのインタビューで、基準となる「自分の本」を持つことが大事ですよ、という話をしていて、ああ、そうだな、そういうのって大事だよなと共感した。大江健三郎の自分の本は「ニルスのふしぎな旅」と「ハックルベリーフィンの冒険」だそうだ。

 で、私の場合、自分の本と呼べる本があるだろうか?と、ここ数日考えていた。繰り返し読んだ本ならば結構あるのだけれど、自分の基準となる本ってなんだろう?

 小学校高学年から中学生にかけては、コバルト文庫をよく読んでいた。氷室冴子**の描く社会とうまく自分をすりあわすことができない繊細な少女たちに自分を重ね合わせ、新井素子の書く不思議な世界に現実逃避していた。それらの本は私が思春期を過ごす中で大きな役割を果たしはしたけれど、自分の本かというと少し違うような気もするし、数冊に絞りきれない。

 中学生から読みだした村上春樹は、今でもすごく好きな作家。人生に対して多大な期待を抱いてはいないけれど諦めていない主人公の考え方とか、暴力的な何かに奪われそうになる日常の普通の生活を必死で守ろうとする姿勢とか、日常生活の丁寧な描写とかが大好きだった。大学生の頃に暇に飽かせて読んでいてドフトエフスキー、中でもカラマーゾフの兄弟はミステリー小説さながらの面白さやドミーチャを始めとするさまざまな登場人物の人間くささなんかも魅力的だったし、陪審員の章をはじめとする深いテーマ性などが興味深くて、繰り返し読んだ。川上弘美の淡々とした描写も好きで、「先生の鞄」は素敵な恋愛だな、とあこがれた。大江健三郎も夢中で読んでいた時期があるし、内田百閒だって太宰治も夏目漱石も面白かった。森茉莉のエッセイの世界観も好きだった。でも、これらは好きな本ではあるけれど、よく理解できていない部分も多いし、自分の基準となる部分ではないような気がする。

 そうやって記憶をひも解いていく中で、小学生の頃繰り返し読んだ本にやっとたどりついた。井伏鱒二訳の「ドリトル先生シリーズ」だ。寝る前や病気の時、ベッドに引っ張り込んで繰り返し読んでいた。

 ドリトル先生は井伏鱒二による翻訳で、とても読みやすい文章だった。たぶん、私の中の名文の基準はドリトル先生にあるような気がする。ドリトル先生の文章は、シンプルで大げさじゃない、また、行間にユーモアにあふれている。この2つがそろっている文章を私は名文だと判断しているのだ。大人になって、オシツオサレツが原語ではPushmi-Pullyuであるというのを知って、翻訳の妙に感心した。

 ドリトル先生の冒険は、絵本のように小さな出来事を大げさに描写するのではなく淡々と描かれていて、なおかつドリトル先生の落ち着いた姿勢が素敵だった。ドリトル先生は動物と話すことができるという特殊技能をもっているけれど、一般の大人たちには疎んじられている。代わりに、動物たちとだけ気ままに楽しく暮らしているのだ。そういうアウトサイダーとしての暮らし方にも憧れた。紅茶やベーコン、エッグといったイングリッシュブレックファーストもおいしそうだった。思い返すと、私は小学生のころから性格や嗜好が変わっていないというのがよくわかる。私は、子供のころから団体行動が嫌いで、自分のペースで楽しく暮らすのを夢見ていたんだ。

 だんだんと、ドリトル先生が読みたくてたまらなくなってきた。今、手元にはドリトル先生シリーズは置いていない。娘のためにも、私のためにも少しずつそろえようかな。

*この夏祭りは、地域の自治会の連合組織が行っているもの。娘の保育所も輪投げの夜店を出していて、私も売り子をした。古本市は、各家庭の不要な本をただで集めて売るので、大人の本は20円、子どもの本は10円とものすごく格安で販売される。こんなに気軽に本を買える機会ってなかなかない。嬉しくてついつい何冊も買ってしまう。

**この時期にコバルト文庫に出会えたことって本当に幸せなことだったように思う。今はやりの「恋空」とかと違って、軽すぎず重すぎない物語が多く、思春期の女の子にとって身近な話が多かったように思う。性描写はほとんどないし、反社会的な傾向もなく、病的でもない。といって、先生方がおすすめする名作全集ほど硬くないし、女の子はかくあるべきという教条主義でもなくて、面白かった。私はコバルト文庫を読むことって、現実逃避であるのと同時に自分を見つめなおすきっかけになっていたようにも思う。20年ぐらい前にコバルトを読んでいた世代であれば、久美沙織さんの「創世記」が面白く読めると思う。最近氷室冴子さんの訃報を聞いて、本当に悲しかった。お悔やみを申し上げたい。

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2008年9月 2日 (火)

ところが全てが夢なわけでもないし

 胡蝶の夢のように、あまりにリアルなイメージの夢の場合、現実との区別がつかない時がある。経験値の少ない子どもにとってはなおさらだ。時折、夜中に「イヤー」という恐ろしい悲鳴を上げたり、しかも抱き上げても泣きやまない時があった。きっと子どもは恐ろしい夢を見て、目が覚めた後も安心感を得ることができなくて、泣いているんだ。毎回寝る度に胡蝶の夢を見ているのかと思うと気の毒でもあり、うらやましくもあった。

 先日、娘は目覚めるとすぐ、「夢の中で虹がかかっていたよ」と言った。たぶん、娘は生まれて初めてした夢の話だと思う。おお、いつのまにか娘は夢と現実を区別できるようになっていたのか、と少しだけ面白かった。夢というものを認識できるようになって、成長したんだ、きっと。その代わり、夢を本気で楽しむことができなくなるのかもしれないけれど。

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