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2009年2月 7日 (土)

大学の人間が地域に入るということ

 今回は、私がやっている研究上の取り組みについて。

 I助教と二人で、過疎部のE地域で住民さんと一緒にバスを検討している。この取り組みの目的は、「住民自らの手で、身の丈に合ったバスを走らせよう」ということである。この地域に足をつっこんで、2年半の月日が流れた。行政施策だとか既存のバス路線との兼ね合いがあって、なかなか前に進まなかったが、とりあえずこの3月に10日間だけバスの試験運行をすることになった。この試験運行を踏まえて、本格運行を検討していく予定である。

 E地域に入ってしばらくのうちは、かなり怪訝な感じで見られていた。一般的に、大学の人間は地域に利益をもたらすでもなく、調査と称して地域に面倒なことをさせて、データがとれたらハイサヨウナラと出ていくような輩だから仕方がない。私たちは、地域住民が運行するバスってどうやったらできるんだろう?という研究上の興味でこの地域に入ってきた。最初のうち、住民さんたちは「高齢者になっても、みんな車を運転するから困っていない」と言ったり、「交通は行政に任せておけばいい」というようなことを言っていた。住民さんたちとの会合や調査など、さまざまな活動を通して、徐々に住民さんの意見は変わってきた。たとえば、「地域の維持のために交通は大事だ」「今地域内で困っている人たちのことは他人ごとじゃない」「行政任せにしていてはいつまでも問題の解決の糸口は見えない」といったことをよく言うようになってきた(あくまでも私の聞いている範囲だけど)。大学の人間は地域に対して責任感がない部外者なのに、地域の人々はよく私たちと一緒にやってきてくれたと思う。

 社会基盤整備における住民参加は、福祉とか建築とか他の分野に比べて遅れてやってきた。最近では土木の教科書にも「住民参加は重要」と書かれているけれど、なかなかノウハウが無いし、実行は難しい。研究者が地域に入ったからといって、地域の人々の思いは少しずつしか変わらないし、地域の人々の思いが変わったとしても、思った通りに前に進まないことが多い。しかも、それが論文のネタになる保証はない。それでも、知識を集積している象牙の塔の人間は、地域社会に少しずつ知識を還元する役目はある、それが例え大したことの無い知識であったとしても。誠実に地域社会に接していけば地域の人々の意識も変わって、何かが前に進んでいく。それに、若輩者の私には、活動を通してワークショップの運営だとかニュースレターの作成だとか、いろんな余技を増やしてくれた。何より、E地域は美しい山間部なのと、住民のみなさんの人柄も良いから、行くのが楽しかった。

 この先、どうなるのか見えていない部分があるけれど、どうにか今年の秋には本格運行にこぎつけたい。その際には、地域の人々が「大学の人間が言うことについてきたこと」を後悔するのではなく、この取組みが地域の役に立ったと感じることができるようにしたい。


本/書籍に、「スズキさんの休息と遍歴」「バスでまちづくり―都市交通の再生をめざして」「市民の政治学―討議デモクラシーとは何か」「煙か土か食い物」を追加。

 いずれの本も面白かったのだが、「市民の政治学」は、私達がE地域でやっていることは、討議デモクラシーの実験の一つなんだ、と納得しながら読んだ。もっともっと本を読もう。世の中には面白い本があふれている。本は私に知識を与えてくれるだけでなく、私がしている行為の意義を教えてくれる時があるのだから。

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コメント

当地では病院の熾烈な患者獲得競争の結果、
公共交通よりも病院の無料送迎バスのほうが人気です。
移動販売車(移動スーパーね)も向こうからやってくる「社会」として人気です。

ここ数年は「社会」なんてうそっぱっちではないか?
と疑うことが趣味になっています。
ジョンアーリの社会を越える社会学―移動・環境・シチズンシップ など面白いですよ。
気づかないうちに複雑でやっかいなディスクールにがんじがらめになっていることにこそ「気づきたい」と思うのです。

矢作俊彦は職人です。スズキさんが面白いと感じたらカートヴォネガットも是非。ロンググッドバイを清水版、村上版、矢作版と読み比べも楽しい。
矢作によるチャンドラーへの素晴らしいオマージュ。

こうして畠の上での読書から逃げられなくなるのです。
いつ学び捨てできるのかしらん。

投稿: 八 | 2009年2月 7日 (土) 21時36分

こんにちは。八さん。

私が行っている地域には、病院の無料送迎バスは無いのですが、移動販売車は週に1回来ていて、利用されていると聞きました。
確かに、移動の解決策は、公共交通だけではないですね。
ただ、バスであれば、自分自身で行き先を選択できるし(この選択の幅を広げるというのが重要な気がしています)、地域への訪問者も利用できるという利点があるかなと思っています。
病院とか商店に無料送迎バスを出させるのでなく、地域が運行するバスに協賛金を出してもらえないかと、みんなで話しています。患者さんやお客さんを連れて来てあげるから、社会貢献だと思ってお金を出してよって。

関係のない人間が地域社会に入っていくのは、押し付けがましいな、と思っている面もあります。
それまで地域の人は問題だと感じていなかったのに、「問題がある」なんて言うのは、価値観の押しつけだよなーって。
でも、地域で本当は住み続けたいお婆ちゃんが、車の運転ができなくて移動しにくいとかいう理由で都会の息子の家に移り住まないと行けない現状は、お婆ちゃんだけでなく、地域の他の人にとっても不幸なんじゃないかな、と。
地域が衰退して行くという状況を運命だと諦める前に、少しだけみんなで手を動かせばひょっとして状況を動かすことができるかもしれない、その一歩として、まず交通について取り組んでみましょう、と思っています。
やっぱり押しつけかも。でも、当面は、地域の人に来てくださいと言われている間は行き続けようと思っています。

「社会」なんて嘘っぱちなんですか?ジョンアーリの社会を越える社会学―移動・環境・シチズンシップ、読まないと。
ディスクールについてもよく知らないので、フーコーも読まなければ。うーん、なかなか追いつかない。
いろいろと物事を知らないので、教えてくださって、ありがとうございます。

カートヴォネガット、だいぶん前にオットに勧められて「ガラパゴスの箱船」だけ読みました。文体が独特で、面白かった記憶があります。本棚を探したら、「タイタンの妖女」もありました。また、折りをみて、読んでみます。
矢作さんのロンググッドバイも面白そうです。

それにしても、八さんの知識の広さ、深さにはいつもいつもびっくりします。
それに、ミキコさんとの馴れ初めも気になります。

投稿: ぴか | 2009年2月 8日 (日) 00時54分

ぴかさん、こんばんは。
どうしてもブログ上のやりとりだと
言葉の制限があって要約下手なので
最初にあやまっときます(笑

地域に入るのはとても良いことだと思います。
いろんな暮らしに触れることができます。
漠然とした地域おこしとか村づくりとか振興とかより
境界がはっきりしている分おもしろいではないですか。
僕も地元の公共交通の検討会委員だったこともあったような。。

目の前の困った問題を解決するのはとても大事なことだと思いますので胸をはって取り組んでください。応援しています。
そして研究が一区切りついても継続して追いかけてくだされば幸い。
同じ地域に15年近く住んでみると(僕の場合)、どんな策が役にたったか、なんとなく見えることもあって面白いです。
ちなみに僕は不便を解消するのではなく?「不便」という概念がどのようにもたらされ、染み付いていったか?にこそ現在の閉塞状況をなんとかする糸口がみつかると思っています。
「遠い」「貧農」「不衛生」「非文化的」。。。
挙げるときりがない「社会的」に非合理的なことを改善すべく、
戦後、食事、遊び方、学び方、基盤整備、仕事、福祉、医療と、様々な事業や取り組みが、それこそ「社会的」に善かれと推し進められてきました。
そして残ったのは病院が遠い、子供が遠い、スーパーが遠い、仕事がない、道が悪い、教育レベルが低い、とまさしく他律依存型のネガティブな事象。
このような事象に対してイバンイリイチは「最善の堕落は最悪である」と僕のブログの表題にある概念を提唱しました。
ここが僕の問いの源の一つです。
イリイチからフーコー、ブルデュー、アナール派の歴史学者、宮本常一から網野善彦、と流れてきて現在です。寄り道多数ですけれど。ジョンアーリはその流れ。

「皆」が普通に「社会的に」「世の中のために」「世間」などと
意識したり口にするときの「皆」とそれぞれの「社会なるもの」というのはナニモノカ?
追いかければ追いかえるほど、発明されたり、自律的に従うように仕込まれたものだったりと、まさしくあじゃぱの世界。
学校で平等に教育を受けることや病院で治療してもらうこと。
ケッコンして家族を持つこと。職業につくこと。
徹底的に問いをたてます。


とおしゃべりしすぎました。肥料の勉強せんと(笑
フーコーとかは原典はとんでもなく読みづらいので
紹介本と批評本を数冊並行読みが手っ取り早いです。
専門家権力の弊害についても、アフターフーコーの人々が論考をすすめています。そちらのほうがおすすめでしょうか。
大きな話(ヨーロッパのロゴスへの疑い)と小さな話(各専門分野における弊害事例の解析)と、いろいろあります。
知らないほうがシアワセかもしれません。
象牙の塔ムラの真ん中の人たちは、都合の悪い概念はなかったことにしてしまうようなので、知らないほうがサバイブしやすいかもです。。。
サイードのいう伝統的知識人ではなく有機的知識人にむけて舵をきってくださればと、相方の大事なお知り合い故のおせっかいでした。

投稿: 八 | 2009年2月 8日 (日) 22時41分

>八さん
丁寧なコメント、ありがとうございます。
このblogは、コメントをいただけるのをあまり想定しないで付け出したものですので、こういうやり取りができて、感激しています。
でも、私の知識が足りていなくて、きちんと八さんのコメントを理解した返事が書けていなくて、それが少しもったいない。

私だけでなく土木技術者は、すぐに「社会」のためにという言葉を使います。
それが私達の存在意義だと思っているのです。
学生達にもそう教えます。「社会の役に立つ仕事をしなさい」と。
「社会」とは何か、という問いを立てることなく。

いまだに、土木計画学で一番始めに学ぶのは「最適化」です。
この旧来の土木計画が目指して来た最適化によって、いろんな地域が衰退してしまいました。
多くのいろんな施策が、地域にとってよかれと思って行われてきました。それなのに、それらの施策は地域が元々持っていた力を失わせてしまったんじゃないかと思っています。

私は地元の人々と話す中で、本当はこの人たちはいろんなことができるのに実行する機会を失ってきたので、実行する気力がなくなっているんじゃないかという気がしています。
最初の会合で私と一緒にやっているI助教は「私達はこの地域にとって一番最適な解決策を持ってくることはできません。代わりに、一緒にみなさんと考え続けることはできます」と言いました。
その言葉通り、私達は地域の人たちと2年半ばかり堂々巡りを続けました。
でも、私達が頼りなかったせいで、きっと私達がここで手を引いても何の問題もなく、このまま何らかの事業が始まるんじゃないかと思っています。

サイードも読まなくては(知らないことばかりで、少し恥ずかしい)。
まだ読んでいないので、インターネットで知り得た範囲ですが、私は専門家じゃなくてアマチュアの知識人になりたいのだと思います。

自分の研究のことを書くのは難しくって、すごく突っ込みどころがあることしか書けないので、この日記もweb上にさらすかどうか少し迷いました。
ですが、八さんからのコメントが付いて結果的によかったと思いました。
多分、今後も他愛もないこと、突っ込みどころの多いこと、しかも自分の書きたいことしか書きませんが、今後もよろしくです。

投稿: ぴか | 2009年2月 9日 (月) 21時29分

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