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2009年4月25日 (土)

お仕事のこと

 がんばって就職活動するよ。でも、このご時世だから、ひょっとしたら就職できないかもしれない。年も年だしね。

 で、どうしよう?どうしよう?と、いろいろ悩んでいたんだけど、どうにかこうにか、就職しないでもやっていく方法も考えた方がいいかな、という気になってきた。

 「市民科学者として生きる」を書いた高木仁三郎さんみたいな生き方もありだよな、ということ。市民に寄り添って、研究活動を行うって、そんなに不可能でもないかもしれない。

 論文を書くこと自体は、大事なことだと思っている。だって、査読に通りさえすれば、名もない私の書いた論文と、有名な大御所の先生の書いた論文が同格のものとして、同じ論文集に載るんだよ。そして、少なくとも全国の研究者の目には触れる。これって、すごいことだと思う。

 でも、論文だけを研究の成果として見るのは、やっぱり足りない。論文じゃ人の心に届かないもの。弱い立場にいる人に寄り添って、知識人としての責務を果たす必要がある。で、その責務は、研究機関にいなくても、できるような気がしてきた。負け犬の遠吠えに聞こえるかもしれないけれど。

 私は交通計画に携わることが好きだ。いろんな人に会うのが好きだ。フィールドワークも好きだ。で、今年度いっぱいで幸せな大学院生活は終わってしまうけれど、来年度以降もどういう形であれ、交通計画に携わっていくよ。

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コメント

連続コメ失礼。

これに関しては諸手をあげて大賛成です。
詳しく語ると止まらないのでやめておきますが(笑

査読に通って「権威」の判子が押されること=ガクモンというのは矮小な世界だと思います。

暮らしの手の届く範囲の中の研究やガクモンがそれに劣っているとは思えません。
吉本隆明は10年手を動かしながらやり続ければなんとかなると。

まったく利害の無い立場から
必要な理論や手法を編集翻訳し現場に降ろす、現場から声を出し続けるというのがとてもたいせつだと思います。

職はまた別の世界です。
地域計画の儀礼を受けた僕が
実際に田舎で暮らして20年近くがたちました。

が、少なくとも僕の知りうる範囲内で
アカデミックな提言や事業が無数にありますが
実際に役に立ったものや生き残ったものは
「一つ」たりともないと断言できます。

成功事例の分析はいくつもありますが
学術的ペテンに近いものばかりでした。
ゆうめー大学のせんせがたくさん通り過ぎて行ったなあ。
学生とともに。

職としてどうのこうのは、時代背景もあるからなんともいえませんが
研究やガクモンへのアプローチは何処だってだれだってできると思っています。


投稿: 八 | 2009年4月25日 (土) 23時55分

>八さん
コメント、ありがとうございます。
いろいろと思うところがありますので、また、後ほど返信を書きます。

投稿: ぴか | 2009年4月27日 (月) 07時27分

ああ。
今落ち着いて読み返したら
かなりヒネた中傷めいた書き方になっています。
ごめんなさい。

ここんとこあまりにも
知のお墨付きを持っているだけの人々が押し寄せてきたもので敏感に反応しやすくなっているのかもしれないなあと自己反省。

ぴかさんの個人的な生き方や背景を否定するものではないので誤解なきよう。
あらためてごめんね。

投稿: 八 | 2009年4月27日 (月) 22時30分

>八さんへ
いえいえ、お気になさらずに。
おおむね、八さんの意見に賛同していますので。

あんまり言うとブーメランで自分に跳ね返ってくるんですが、現場を知らない(あるいは現場をバカにしている)研究者も多いですし、どこそこ大学の教授と言っても、よくわからないお話をする先生もいらっしゃいますし。
人のこといえる立場かって、つっこみがあちこちから来そうで怖いです。

査読については、「権威付け」という役割よりも、科学的な一定の手続きにのっとって行われているかどうか、間違っていないかどうかというチェックの役割の方が強いのかなぁ、と思っています。
土木学会論文集の論文の要件には、「有用であること」というのがあるのですが、本当に使える物かどうかのチェックまではできていないかも、という気はします。
むしろ、有用なものは現場から生まれることの方が多いような気がします。
たぶん、査読というシステムがなかったら、もっともっと研究者は堕落します。

研究者がフィールドワークをする時に、本当に地域のことを考えて、調査しているかというと、疑問になることも多いです(予算が余っていたせいで、大学の先生が主導して変な社会実験やっちゃっている例とか山ほどありますもの)。
でも、どうしても大学にいる立場からすると、研究も少しは世の中の役に立っていると思っているし、思いたいんですよね。

繰り返しになっちゃいますが。
地域をもてあそぶこと無く、地域と向き合うヨソモノでありたいと思っています。
八さんにはサイードを教えていただいて、感謝しています。

投稿: ぴか | 2009年4月27日 (月) 23時24分

いやほんとうにごめんなさい。

どうみても酔っ払ってケチつけているおっさんですねえ。

おかげさまで。。といっては迷惑な話ですが
自分の中のもんだい設定がはっきりとできました。

対話形式だからこそだったと思います。
ありがとさんです。

落ちついて整理してみると
研究が世の中の役に立つかたたないかは
たつこともあれば、結果たたないこともあるし
たたないと思われたことも将来たつかもしれない。
です。

そして僕が最ももんだいにしたかったのは
「客観化・論理性・科学的」な判断をする場の
「客観化」はどのようなものだろうということでした。

グレゴリーベイトソンは
こういう誤りを「論理階系ロジカルステップ」が違うのだと申しております。
まさしく階段違い。
反省の意から自分のブログに断片を書き散らしてみます。
論理的にはまとまらないですけど。

娘さん、はちさんともども連休お楽しみあれでした~。

投稿: 八 | 2009年4月29日 (水) 00時59分

ああ、また、八さんについていけていません。
抽象的な思考が苦手な上に、読書量、知識量が全然足りていない。

普遍的な言葉のドレイ、頭にとどめておこうと思います。
(ちゃんと理解できているかというと別の話ですが。)

どんなに稚拙な考えであっても、いったん言葉にすることは大事だと思っています。
でも、同時に、言葉にしてしまうと何か大事なことが抜けて上っ面のきれいごとしか言っていない時も多かったり、自分が書いた言葉に引きずられて思考停止しちゃうときもあったり。

研究者が自分たちを客観的な立場だと認識しているのは、
一応「科学的な手順を踏んで」論理だてて、判断していると思っているから。
結局、客観性という拠り所は「科学的な手順」にしかないような気がするんです。
その「科学的な手順」に疑問を持たないのは、ある意味思考停止なのかもしれません。

科学的な手順を踏んで、正しいやり方でやったとしても、その物事自体が正しいかどうか、良いものかどうかという判断はできないです。

少ない社会経験しかないですが、役にたつものとか、実際に何か物事が動く時って、どこかに論理の飛躍があるような気がしています。
その論理の飛躍は、誰かが(あるいは何か)矛盾を一手に引き受けることで成り立っちゃったりするような気がします。
そういう意味では、研究というのは役に立つものを作るのは、あまり向いていないのかもしれません。

ああ、そうすると研究の意義ってなんでしょうね?
学者さんの趣味活動ではないと思いたいんですけど。

やっぱり頭がワヤになっているので、何が言いたいんだか分からないコメントです。読み返すと、私の言葉って子どもっぽい。
でも、限界です限界です。もう分からなくなっています。

私は今日、論文の締め切りでした。でも、そういうのも一旦はおわり。
明日からは家族ともどものんびりできます。
では、お互いに春を楽しみましょう。

投稿: ぴか | 2009年4月30日 (木) 22時44分

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