何かが欠けている不完全な自分が他者とつながるには 4/4 ―社会と自分をつなぐ窓について―
失業したら、ハローワークに行きなさいと言われる。私も失業者だった期間に、何回も足を運んだことがある。行った経験からすると、ハローワークって、行くたびにエネルギーが削がれていくような気がする。なぜなら自分ができそうな仕事がない。正確に言うと、自分ができそうな仕事はめちゃめちゃ給料が安いし、単純作業ばかりで、あんまりやりたくない。わがままだとは思うけれど、私は、ハローワークに行くたびに、自分が社会に必要とされていないような気持ちに陥っていったし、もし、ハローワークで紹介してもらった仕事をとりあえずしていたとしたら、今頃もっと自分に自信のない人間になっている気がする(すみません、わがままで。しかも偉そうで。どの仕事も大事な仕事だとは思うんですけど)。
最近は細やかなマッチングも行われているとも聞くが、ハローワークを人と仕事をつなぐ窓口として機能させるのは、少し難しい感じがした。職種が多様化しすぎてハローワークで業務内容を把握しきれていないし、失業者の経験をきちんと評価することができない、などなど。幸福を「合理的人生計画の成就」におくのであれば、とりあえずできる仕事をする、というのは悪くないし、ハローワークもちゃんと機能を果たせるだろう。でも、「みずからに備わる力量の発揮」を幸福だと定義すると、現在のハローワークは機能を果たせていない。自分の力を発揮するには、失業者のニーズを細やかに汲み取らないといけないし、そのニーズと人を必要としている職場とのギャップを埋めたり、ギャップが大きい場合には再教育を行ったり、そういう、どう考えても労力と時間がかかりすぎることをしないといけない。それに多額の税金をつぎ込むことに、世の中の同意はまだとれていない気がする。
失業者になると何がいけないって、自分への自信がなくなることだと思う。それに、私みたいな大学出は、プライドだけは高かったりするから訳が悪い。そして、何もしていないから何もできない気がどんどんしてくる。そして、できることさえもやりたくなかったりして、非常によくない。こういう意識でいると、いつまでも社会とつながりを持てない。
私の場合、すごく幸運だったと思うのが、大学院に同級生が残っていて、相談しやすかったこと、理系で小さい研究室だったので先生が親身になってくれたことである。先生の紹介のおかげで、任期付の非常勤の職を得ることができ、その間に行った研究活動を修士相当と見なしていただいたため(私は学部しか卒業していないので、修士号を持っていない)、非常勤の職の任期が切れた後に博士後期課程に入学することができた。私は、友人や先生に恵まれている。
今、もうすぐ博士後期課程を修了して、また、社会に出て行かないといけないんだけど、なかなか就職できなさそう。一応、非常勤の職を紹介していただけそうなんだけど、その後はないかも。でも、そんなに焦っていない。さんざん家族に迷惑をかけて博士後期課程に行ったのに、複数の機関から研究費をいただいたりもしたのに、申し訳ない。でも、私の能力が足りなかったのだから仕方がない。
私が焦っていない理由は、就職できなくても、社会と繋がっていく方法をいくつか知っているからだ。地域のコミュニティに参加する方法も知っているし、NPOの方からも声をかけてもらっている。研究会でお世話になった方にお願いする伝手もある。多分どうにかなる。大学院に入る前には、こういう情報を持っていなかったし、ネットワークが全くなかった。これだけで、私にとって大学院に行った甲斐があると思っているのだけれど(オットには申し訳ないと思っているよ、ほんまに)。
私のように田舎から出てきた何のコネもない人間にとって、大学は、他の社会に開かれている窓のような存在。大学には、いろんな情報があって、他のところにつなぐ何かがある。それに、大学院の研究活動というのは、強制的に自分に自信を持たせるプロセスでもある。基本的に自分で研究テーマを決めて、計画を作って、それに則って、悩みだから自分でどうにかこうにかやっていくしかない。どんなつまんない研究でも、研究している本人が自分の研究に自信を持っていないと、誰も話を聞いてくれない。学会や研究会などで発表したり、他の人の発表に図々しく質問したりすると、自信も少しは出てくる。
というわけで、私にとって、大学院は再教育機関だった。本当に感謝している。生活費や研究費に全く困らずに、過ごすことができたし。地域に入っていって実践的な研究ができたし、若い学生さん達と行った勉強会も楽しかった。授業には思っていたようには出席することができなかったし、やり残したことはたくさんあるけれど。すごく幸せな3年間だったと思う。大学院に多額の税金が投入されている以上、優秀じゃない人間は大学院に行くべきじゃないのかもしれないけれど、私のような能力のない人間を受け入れていただいたことについて、先生方、研究室、そして大学院というシステムに感謝している。
大学院生活もあと残り3ヶ月。自分の公聴会、共同で研究している4年生の卒論が残っている。あともう少しがんばります。
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自分の経験を振り返ると、自分でどうしていいか分からないとき、とりあえずどこかに泣きつくというのは大事かもしれないと思う。泣きつかないと、どのネットワークにも、どの情報に行き着かない。30代男性の餓死が少し前にニュースになっていたけれど、何か他人事じゃなかった。私にはオットがいるので、仕事が見つからなかったとしても最低限度の生活はどうにかなるけれど、もしオットがいなかったら似たような状況になり得ると思う。それに、私は女なので、人に助けを求めることにそれほど抵抗を感じないのだが、男の人は強い抵抗があるように思う。
子どもには「人に迷惑をかけなさんな」と教えるよりも、「困った時には『助けて』と言いなさい。言わないと分かってもらえない」というのを教えた方がいい。助けを求めるのが遅れれば遅れるほど、状況は悪化して、気づいた時には、助けるのが難しくなっている時も多い。依存するのはよくないけれど、適切に援助を求めることは、援助を受ける側だけでなく、援助を与える側の成長も促すから、悪いことじゃないと思う(ここらへん、子どもの育て方に関わる部分だけど、オットと意見が分かれそう。オットならきっと「自助努力が一番大事」と教えるのかも)。
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(蛇足)
大学/大学院という場所に情報が集まっているなぁと感じたのは、社会ネットワーク理論の古典的な論文「弱い絆の強さ」(Mark Granovetter著)を読んだのがきっかけである。どういう論文かというと、
グラノヴェターは、 就職先を見つける際に役にたった“つて”を調査し、調査対象者のうち16%の人が「しょっちゅう」会っている人の“つて”で仕事を得たのに対し、84%の人が「時たま」あるいは「ごくまれに」しか会わない人の“つて”で就職していたことをつきとめました。この事実から、身近な人の情報は自分の情報と重なっている部分が多く、有益な情報は「あまり身近でない知人」が多くもたらすという結論を導き出しました。(引用元:innovative Studio Japan)
大学というところは、この弱い絆が山ほどある場所のように思う。基本的に大学がやっていることは、研究者が面白いと思ってやっていることなので、人間関係がとても純粋になる。他人に役立ちそうな情報を比較簡単に人に与えてくれるようなところとか。上下関係があるにはあるのだけれど、比較的フラットな感じであったり。それと、地域社会や産業界とも絡む時もあるのだけれど、それは第三者的な関わりであるし。
純粋な人間関係が培われるところには、比較的有益な情報が集まりやすい。この人は面白いから、この情報を教えてあげよう、という感じで。「儲けたい」という下心があると、情報の質が異なってくる気がする。そんなこんなで、大学という存在は、純粋な存在であってもよいんじゃないかと思っている。
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(蛇足その2)
上野千鶴子なんかを読んでいる時に、おぉっと納得したのが、「個人的なことは政治的なこと」というフレーズ。ここ4日間、書いていた内容は、そういう意図で書いています、一応。
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コメント
ハローワークを通して3D-CAD入力、経験不問、パソコン経験程度で指導つき、時給1500円で募集をかけてみたら、Officeの経験も無いという方数名に混じって、某国立大修士、大手情報機器メーカー情報プログラミング専門職暦9年でその後退職し、遠く神奈川から転居して失業中という方がいらっしゃった。
いわく「技術職のうちでも情報プログラミング分野はブランクを埋めることは難しく、だから事務職で探してみても、事務職未経験では職がない」とのこと。おっしゃっていることは理解できるものの、このような方がこのような状況におかれているということに、私は社会のほうが大きな損失をしているような気がしました。
こうしたとき、ご本人が社会に関わりたいという願いに対して、仕事の窓口としての「ハローワーク」の良し悪しはともかく、きっと多様なチャンネルが必要なのだろう、ということに同感です。
また別の言い方をすれば「不完全な自分」と「不完全な誰か」や「不完全な自分」と「不完全な社会」がつながり補完しあう、ということが充実した生活や幸せな社会ということなんだな、、などと考えたりした記述でありました。
投稿: ryu! | 2009年12月30日 (水) 16時39分
>ryu!さま
記事を読んでくださり、ありがとうございます。
> このような方がこのような状況におかれているということに、私は社会のほうが大きな損失をしているような気がしました。
私もそう思います。本人にとっても、社会にとっても損失だと思います。
一方で、うちのオットのように、日が変わるまで残業しないといけない人たちもいて、働き方のバランスがすごく崩れている気がしています。
ryu!さまのおっしゃる通り、人と人、人と仕事をつなぐ多様なチャンネルが必要なんだと思います。
聖書に「心の貧しい人は幸いである」と書いている通り、持たない者だからこそ、見えるものもあるかな、と最近は思っています。
(私はクリスチャンではないので、意味を取り違えているかもしれないですが。)
完璧な人間が存在しないように、完璧な社会というのも存在しないわけで、お互いに補完しあう形を考えていきたいと思っています。
投稿: ぴか | 2009年12月31日 (木) 00時15分