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2009年12月

2009年12月31日 (木)

子どもらしい子ども

 娘(5歳)について書いて今年のblogはおしまい。

 うちの娘は、天真爛漫で、喜怒哀楽がはっきりしていて、すごく子どもらしい子ども。私は内向的であまり子どもらしくない子どもであったので、娘の子どもらしさに接する度に、少しびっくりする。ほんまにいるんだ、こういう子って。以下は、子どもらしい!と感動したエピソードを4つ。

1.雨の日

 娘が、お気に入りの黄色の長靴を履いて、水たまりの水をはねかして遊びながら保育所に向かう。不意に「今日は帰ってからてるてる坊主を作ろう」とつぶやき、大声でてるてる坊主の歌を歌いだした。すっごい牧歌的な、絵本に出てくるような感じだった。

2.トマトケチャップ

 毎朝、卵焼きとか目玉焼きとかポーチドエッグにして、娘に卵を食べさせている。うちの娘はトマトが嫌いなのに、トマトケチャップ味が大好きなので、上にケチャップをかけてあげる。すると、毎回、娘は、指先にケチャップをつけて「おかあさん、血が出たー!」というネタをする。朝のテンションが低い私は、「あ、そう」と受け流したい気持ちになるが、そうすると娘の機嫌を損ねてしまうので、「うわー、どうしたの?大丈夫?」とのっかってあげている。

3.抱っこ

 娘が大きくなって、体重も増えてきて、抱っこして歩くと、腰が痛むようになってきた。ぎっくり腰になると大変なので、「次の誕生日になったら、抱っこはやめにしよう」と娘に伝えた。その時は娘は神妙に肯いていたのだが、ある日不意に「誕生日なんてこなくていい。お母さんにずっと抱っこしてほしい」と訴えてきた。ああ、そうかごめんなさい。こちらの都合で、娘の心に負担をかけるようなことを言ってしまったのか。申し訳ない。ずっと「抱っこしてほしい」と言うわけじゃないから、できる限りしてあげようと思う(でも、ぎっくり腰は怖い)。

4.お人形遊び

 娘はよくお人形遊びをしている。今日は、お誕生日という設定だった。「ぽぽちゃん、お誕生日おめでとう。お母さんは、ぽぽちゃんが生まれてきてくれて、うれしいです。おいしいごはん、たくさん作ってあげるね」とか紙を見ながら言っていた。何で5歳にして、そんな感動的なことをいえるんだろう(誰かが言っていたことをまる覚えしているだけだと思うが、彼女がそのフレーズを気に行ったということが重要だと思っている)。私も、今度、娘の誕生日に、そういう手紙を書きたい。

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 たぶん、娘は根本的なところでオットに似ている。屈託の無さや、物事を面白がる感性とかが。一緒にいる時間が多いので、最近は私にも似てきているけれど。子どもらしい子どもでありがとう、と、いつも思っている。私は、娘の子どもらしさに救われる気持ちになることが多い。

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2009年12月30日 (水)

母親をひいて見る

 母親に直接言ったことはないが、私は秘かに母のことを自慢に思っている。彼女の人生は、本当に山あり谷ありの波乱万丈な人生だった。いろんな不幸な出来事が起きても、持ち前のバイタリティで乗り越えて、何とか元気でやっている。私だったらできへん、あんなこと。今思い返すと母は苦労したと思うのだけど、私はあまり苦労した覚えがない。それだけ、母は苦労したということなんだと思う。

 それに、彼女は40歳を過ぎてから外で働きだしたにも関わらず、かなり難しい資格試験をほとんど一発で合格し、今も現役で、職場の人たちに頼りにされているときく。今、就職で足踏みをしている娘からすると、母は偉いなぁと素直に思うわけである。

 ああ、それなのに、それなのに。最近、母親と話していると、「え?」と驚くようなことを言うことがある。

 先日、ある人はO型なのだが、他の家族は全員A型だったので、子どもの頃、兄弟から「一人だけ違うから川から拾ってきた子だ」と、からかわれたという話をした。子どもって科学知識がないから、わけもわからずにそんなことをいうのよね、と言っていたら、

 「その人は両親ともA型だから、AよりのO型の性格に違いない」なんてのたまう。

 違いますよ、おかあさん、メンデルの法則って言うのがありましてね。A0型とAO型の両親からは4分の1の確率で、O型が産まれるんですよ。メンデルの法則、高校で習いませんでしたか?それに、血液型と性格に相関はほとんどないんですよ。うちの母は、高校の頃、数学が得意だったと自慢するのだが、科学的なものの見方については、かなり危うい感じがする。

 それと、細街路を車で走るのがやたらと好き。それも私には不合理にみえる。彼女は軽自動車を乗り回しているせいというのもあるだろうけれど、「信号がないからこっちの方が早いのよ」なんて言って、すぐ細い道に入ろうとする。

 でもね、おかあさん、法定速度というのがありましてね、細い道は時速20kmぐらいしか出したらダメだったりするので、さほど早くないのですよ。それに速く走れたとしても、それは地域にとっては通過交通といわれて忌み嫌われる行為なのですよ。細い道を走る車は、そこの地域に関係する車だけにしておかないと、細い道の歩行者の安全性が危ぶまれるのですよ。なんていうことを、話しても全然通じないんだよな。

 他にも、話していて、母の話がどうも論理性にかける、とか、少し常識的ではないと感じることが多々ある。子どもの頃は、母親って万能なように感じていたけれど、大人になって少しひいてみると、母って少し変わった人だなぁと思ったりする。母は、細かいことにアレコレ言うのに、大きな決断に関しては「別にいいんじゃない。好きにしたら」という人なので、密に付き合わなければ、かまやしないんだけど。

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 上記のような話を1つ違いの姉にしていたら、「あなたはお母さんの性格にそっくりではないか」とのたまう。えー!私、あんな、変わった人じゃないよ!と思ったのだが、姉がいうには、「自分のことを優秀だと思ってそうなところとか。あと、外面がいいところ。周りに頼りにされると必要以上にはりきっちゃったりするし。自分の意見を変えようとしないで、他人を論理でたたみかけようとするところとかも」 へー。姉から私はそう見えているんですね。私のセルフイメージと少し違うのですが。でも、そういえば、姉妹の中でも、私が母と一番折り合いが悪かった。自分ではよく分からないが、母と私は似ているからこそ、折り合いが悪かったのかもしれない。

 母と娘との確執ってほどのことではないけれど。ここらへん、うちの娘も大きくなったら、私に対していろいろと思うことがあるんだろうなぁ。

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 ええと。今まで、うちのblogはほとんど知り合いしか来ていなかった過疎blogなのですが、昨日、はてなブックマークのhot entryに入ってから一気に百人単位で人が来ていて、少し恐ろしく思っています(年末なので、少数のブクマでhot entry入りするおそろしさ)。多分、一日だけのことだと思うのですが。すみません。ここは、有益な情報がほとんどない、私の個人的な日記を垂れ流している場です。申し訳ない。もし、気に入られたら、他の記事も読んでください。私が一番気に入っている記事は、京都の茶室住宅に住んでいた頃の話です。よろしかったらぜひ。

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2009年12月28日 (月)

何かが欠けている不完全な自分が他者とつながるには 4/4 ―社会と自分をつなぐ窓について―

 失業したら、ハローワークに行きなさいと言われる。私も失業者だった期間に、何回も足を運んだことがある。行った経験からすると、ハローワークって、行くたびにエネルギーが削がれていくような気がする。なぜなら自分ができそうな仕事がない。正確に言うと、自分ができそうな仕事はめちゃめちゃ給料が安いし、単純作業ばかりで、あんまりやりたくない。わがままだとは思うけれど、私は、ハローワークに行くたびに、自分が社会に必要とされていないような気持ちに陥っていったし、もし、ハローワークで紹介してもらった仕事をとりあえずしていたとしたら、今頃もっと自分に自信のない人間になっている気がする(すみません、わがままで。しかも偉そうで。どの仕事も大事な仕事だとは思うんですけど)。

 最近は細やかなマッチングも行われているとも聞くが、ハローワークを人と仕事をつなぐ窓口として機能させるのは、少し難しい感じがした。職種が多様化しすぎてハローワークで業務内容を把握しきれていないし、失業者の経験をきちんと評価することができない、などなど。幸福を「合理的人生計画の成就」におくのであれば、とりあえずできる仕事をする、というのは悪くないし、ハローワークもちゃんと機能を果たせるだろう。でも、「みずからに備わる力量の発揮」を幸福だと定義すると、現在のハローワークは機能を果たせていない。自分の力を発揮するには、失業者のニーズを細やかに汲み取らないといけないし、そのニーズと人を必要としている職場とのギャップを埋めたり、ギャップが大きい場合には再教育を行ったり、そういう、どう考えても労力と時間がかかりすぎることをしないといけない。それに多額の税金をつぎ込むことに、世の中の同意はまだとれていない気がする。

 失業者になると何がいけないって、自分への自信がなくなることだと思う。それに、私みたいな大学出は、プライドだけは高かったりするから訳が悪い。そして、何もしていないから何もできない気がどんどんしてくる。そして、できることさえもやりたくなかったりして、非常によくない。こういう意識でいると、いつまでも社会とつながりを持てない。

 私の場合、すごく幸運だったと思うのが、大学院に同級生が残っていて、相談しやすかったこと、理系で小さい研究室だったので先生が親身になってくれたことである。先生の紹介のおかげで、任期付の非常勤の職を得ることができ、その間に行った研究活動を修士相当と見なしていただいたため(私は学部しか卒業していないので、修士号を持っていない)、非常勤の職の任期が切れた後に博士後期課程に入学することができた。私は、友人や先生に恵まれている。

 今、もうすぐ博士後期課程を修了して、また、社会に出て行かないといけないんだけど、なかなか就職できなさそう。一応、非常勤の職を紹介していただけそうなんだけど、その後はないかも。でも、そんなに焦っていない。さんざん家族に迷惑をかけて博士後期課程に行ったのに、複数の機関から研究費をいただいたりもしたのに、申し訳ない。でも、私の能力が足りなかったのだから仕方がない。

 私が焦っていない理由は、就職できなくても、社会と繋がっていく方法をいくつか知っているからだ。地域のコミュニティに参加する方法も知っているし、NPOの方からも声をかけてもらっている。研究会でお世話になった方にお願いする伝手もある。多分どうにかなる。大学院に入る前には、こういう情報を持っていなかったし、ネットワークが全くなかった。これだけで、私にとって大学院に行った甲斐があると思っているのだけれど(オットには申し訳ないと思っているよ、ほんまに)。

 私のように田舎から出てきた何のコネもない人間にとって、大学は、他の社会に開かれている窓のような存在。大学には、いろんな情報があって、他のところにつなぐ何かがある。それに、大学院の研究活動というのは、強制的に自分に自信を持たせるプロセスでもある。基本的に自分で研究テーマを決めて、計画を作って、それに則って、悩みだから自分でどうにかこうにかやっていくしかない。どんなつまんない研究でも、研究している本人が自分の研究に自信を持っていないと、誰も話を聞いてくれない。学会や研究会などで発表したり、他の人の発表に図々しく質問したりすると、自信も少しは出てくる。

 というわけで、私にとって、大学院は再教育機関だった。本当に感謝している。生活費や研究費に全く困らずに、過ごすことができたし。地域に入っていって実践的な研究ができたし、若い学生さん達と行った勉強会も楽しかった。授業には思っていたようには出席することができなかったし、やり残したことはたくさんあるけれど。すごく幸せな3年間だったと思う。大学院に多額の税金が投入されている以上、優秀じゃない人間は大学院に行くべきじゃないのかもしれないけれど、私のような能力のない人間を受け入れていただいたことについて、先生方、研究室、そして大学院というシステムに感謝している。

 大学院生活もあと残り3ヶ月。自分の公聴会、共同で研究している4年生の卒論が残っている。あともう少しがんばります。

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 自分の経験を振り返ると、自分でどうしていいか分からないとき、とりあえずどこかに泣きつくというのは大事かもしれないと思う。泣きつかないと、どのネットワークにも、どの情報に行き着かない。30代男性の餓死が少し前にニュースになっていたけれど、何か他人事じゃなかった。私にはオットがいるので、仕事が見つからなかったとしても最低限度の生活はどうにかなるけれど、もしオットがいなかったら似たような状況になり得ると思う。それに、私は女なので、人に助けを求めることにそれほど抵抗を感じないのだが、男の人は強い抵抗があるように思う。

 子どもには「人に迷惑をかけなさんな」と教えるよりも、「困った時には『助けて』と言いなさい。言わないと分かってもらえない」というのを教えた方がいい。助けを求めるのが遅れれば遅れるほど、状況は悪化して、気づいた時には、助けるのが難しくなっている時も多い。依存するのはよくないけれど、適切に援助を求めることは、援助を受ける側だけでなく、援助を与える側の成長も促すから、悪いことじゃないと思う(ここらへん、子どもの育て方に関わる部分だけど、オットと意見が分かれそう。オットならきっと「自助努力が一番大事」と教えるのかも)。

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(蛇足)

 大学/大学院という場所に情報が集まっているなぁと感じたのは、社会ネットワーク理論の古典的な論文「弱い絆の強さ」(Mark Granovetter著)を読んだのがきっかけである。どういう論文かというと、

グラノヴェターは、 就職先を見つける際に役にたった“つて”を調査し、調査対象者のうち16%の人が「しょっちゅう」会っている人の“つて”で仕事を得たのに対し、84%の人が「時たま」あるいは「ごくまれに」しか会わない人の“つて”で就職していたことをつきとめました。この事実から、身近な人の情報は自分の情報と重なっている部分が多く、有益な情報は「あまり身近でない知人」が多くもたらすという結論を導き出しました。(引用元:innovative Studio Japan

 大学というところは、この弱い絆が山ほどある場所のように思う。基本的に大学がやっていることは、研究者が面白いと思ってやっていることなので、人間関係がとても純粋になる。他人に役立ちそうな情報を比較簡単に人に与えてくれるようなところとか。上下関係があるにはあるのだけれど、比較的フラットな感じであったり。それと、地域社会や産業界とも絡む時もあるのだけれど、それは第三者的な関わりであるし。

 純粋な人間関係が培われるところには、比較的有益な情報が集まりやすい。この人は面白いから、この情報を教えてあげよう、という感じで。「儲けたい」という下心があると、情報の質が異なってくる気がする。そんなこんなで、大学という存在は、純粋な存在であってもよいんじゃないかと思っている。

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(蛇足その2)

 上野千鶴子なんかを読んでいる時に、おぉっと納得したのが、「個人的なことは政治的なこと」というフレーズ。ここ4日間、書いていた内容は、そういう意図で書いています、一応。

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2009年12月27日 (日)

何かが欠けている不完全な自分が他者とつながるには 3/4 ―仕事をする意味とか―

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 私の職歴には、1年間穴があいている。

 結婚直後、仕事もせず、大学にも行っていなくて、1年ほど家で過ごしていた。

 それまでコンサルタントで3年間ひたすら働いていたので、最初の1,2か月は、お休みというだけで楽しくて、掃除を丹念にやったり、手の込んだ料理を作ったりして、のんびり過ごしていた。でも、その楽しい期間が過ぎたら、終わらない夏休みが始まってしまって、何をしたらよいのか分からなくなってしまった。その時は、自分が社会のどことも繋がっていない感じがして、ただただ辛かった。このまま私は社会に必要とされないまま、死んでいくんじゃないかって。将来のことを悲観して、新婚だったのに、よく泣いていた。オットがおいしいご飯を作ってくれて、泣いたりしていた。オットは何でもできるのに、私は仕事もしてないし、おいしいご飯も作れない無力な人間なんだって(今だったら、もっと作って!って言えるのに)。本当にやばす。超うっとうしかった。

 ある友人は、私に国Ⅰとか地方公務員の試験を受けたら、と勧めてくれたのだけど、公務員になる気がなかったので、勉強しなかった。時間をもてあまして、「色彩検定」をとりあえずとってみたけれど、何の役にも立っていない。当たり前だ。目的がないままに資格をとっても何の役にも立たせることはできない(せめて、技術士か英語を勉強しておけばよかったのに、と思わないでもない)。

 近所に知り合いもいなかった。大学の友達は同じ関西に住んでいたけれど、みんな忙しそうにしているし、自分は新婚で幸せなはずだから不安を抱えていることについて相談するのは嫌だった。新興宗教に勧誘されかけたのもこの時期で、入会金まで払ったけれど、オットに止められて、そのあとは居留守を使って二度といかなかった。宗教の人達ってすごく親切なんよ。親身に相談にのってくれるし。宗教に入っちゃうのって、信仰心じゃなくて人付き合いの方が大きいんだろうね。

 孤独になるのん、結婚前からわかっていたやん、と言われればそれまでなんだけど。結婚前みたいに身を削るように働くのももうやりたくなくて、もっと違う働き方をしたかった。でも、違う働き方といっても、再就職の仕方もわからなかった(憧れのカフェの面接で落ちたりしたしな!)。

 「めぐりあう時間たち」 という映画を見た時、ジュリアン・ムーアが演じるローラの気持ちが痛いほどわかって、本当につらかった。あの真綿でくるまれるような窒息感というか、周りのみんなからは幸せだと思われているのに、自分の意志で動きだせない不安感とか。オットに、「何にもできない大人しい子だから守ってあげなきゃ」と思われている感じとか。ローラは熱心にヴァージニア・ウルフの「ダロウェイ夫人」を読んでいたのだけれど、私もこの時期、上野千鶴子とかを読んでいた。

 結局、大学に残っていた友達と先生に泣きついて、職を紹介してもらって、いくつか職を転々として(私の履歴書の職歴はスペースが足りなくなるぐらいぐちゃぐちゃ)、今に至っているわけだけど、あの時期の疎外感・窒息感を思い出すと本当に本当につらい。って、それに比べると、D論の苦しみなんて大したことないはずなんだけどなぁ。いちいち小さいことで、精神的にやられすぎだ、私は。

 すごくお世話になっている先生の中に、専業主婦をやたらと勧める方がいる。私はその先生のことを尊敬しているのだが、この点に関しては、学部生の頃からずっと言い合いしている(議論になっていない。新歓コンパで泣かされたりとか。それでも、私はその先生のことが好きとかいうのはどうでもいい話)。その先生には、「節約すれば旦那の給料で暮らせるだろ?」とよく言われるのだけど、外で働きたい理由として上記のようなことを言ったって、専業主婦が果たす役割がいかに大事かを語られるだけで、分かってくれるはずがない。かといって、「オットの給料が安いんです」というのはオットを貶めている感じがして嫌だ。最近は、わかりあえないことが分かってきて、面倒臭くなったので「お金が好きなんです!お金!」と下品にいうことにしている。

 ええと。恵まれている者の悩みって言われれば、そうですよ。でも、私みたいなコミュニケーション力が低い人間は、専業主婦では幸せになれないんですよ。私みたいな能力の低い人間が働こうとすることは、世の中にとって迷惑かもしれないけど、働かないと鬱病になってしまって、なおさら社会に迷惑をかける気がしている。

(あともう1回、続きます)

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写真:自分の結婚式の2次会で、振り袖姿でアコーディオンを演奏している私。今と全然違う(主に顔の輪郭が!)。顔も違うし、元気さとか、行動力とか、あの頃の自分は今と違う人みたい。結婚したら幸せになれると思っていた夢見がちな頃。

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2009年12月26日 (土)

何かが欠けている不完全な自分が他者とつながるには 2/4 - 共同生活について-

(昨日の続きです)

 結婚している人間がこういうことを書くのは変だとは思うんだけど、結婚以外に、もっと人と人の助け合いの形がいろいろあってもいいと思うんだ。少し前に勝間和代さんが35歳までに結婚すべきと いうのを書いて話題になっていたけれど、結婚以外に他者とつながりを結ぶ方法の選択肢がないところが閉そく感を増やしている部分もあると思う。だって、結 婚するには、1対1の関係を成就させて維持しないといけない。いい人だなぁと思っても、結婚するには、いろいろな条件がそろわないといけないわけで、それ は、なかなかハードル高くないか? こういうことを思ってしまうのは、私がモテナイさん人生をずっと歩んできて、ネガティヴな考え方をするせいなのか?

 今、問題だといわれていることのいくつかは、人とのつながりが欠けているせいで、なおさら深刻化していると思う。援助が必要な人ほど情報も持って いないし、支援も受けれない。人間って弱いから、孤立しちゃうと精神的に追い詰められるし、社会性がなくなっていく。たぶん、子どもを虐待をする親もモン スターペアレンツも大概何か問題を抱えていて、うまく近隣社会と繋がっていない。精神論であれこれいうのは簡単だけど、孤立させない仕組みを作る方が遠回 りだけど解決につながると思う。

 その孤立させない仕組みの一つとして、何かが欠けていると思っている人同士が、助け合う場をもっと提供して行ってもいいんじゃないかと思っている。日本ではあまり普及していないのだけれど、ルームシェア、コハウジングの ような取り組み。日本のコハウジングは高齢者住宅の流れで取り組まれているんだけど、もっと若い人も他者と繋がりたいという欲求が高いんじゃないかと思っ ている。海外のコハウジングの事例をみると、高齢者、シングルマザー、独身の男性、いろんな世代、いろんな背景を持つ人が一緒に協力し合いながら住んでい た。同じような観点で、ギークハウスとかファミリーサポートと かの取り組みは、すごく面白いと思う。ギークハウスは、ウェブ系のエンジニアとかクリエイターなどがルームシェアする取り組み。ファミリーサポートは昔で いうところのご近所さんの助け合いを制度化して人と人の助け合いをつなげる仕組みで、あちこちの社会福祉協議会で行われている。

 こういう仕組みが従来型のご近所さんとかと何が違うのかっていうと、基本的にはそれほど違わないと思う。きっと良いことも多いだろうけれど、プラ イベートな部分が知られたり、面倒くさいことがあったり、嫌なこともあるだろう。ただ、従来型のご近所づきあいって、入口の敷居が高いような気がするんよ ね。不文律の部分が多すぎて。不文律でやっていけるのは、メンバーの入れ替えがないコミュニティだけ。私のようにKYな人間には、その不文律がよく見えな くて、入っていくのがすごく怖い。そして、不文律が見えなくて、追い出されるんじゃないかという不安を抱えてしまう。今の都市部のようにメンバーがどんど ん入れ替わる中では、ある程度ルールを見える形にしていかないとコミュニティを維持するのは難しいと感じている。って、書きながらも、これは過疎部も同じ かもしれないと思った。過疎部は、どんどんメンバーが減っていくので、ルールが明確じゃないと、誰かのところに負担が過度にたまりがちになる。それに、し がらみが強いから、困った状況になっていても、言い出しづらい面があるように感じる。

 「家族が大事」と言っている保守的な人たちと、私が考えていることって似ている部分がある。彼らも、人間は支えあわないといけないって言ってい る。でも、旧来のやり方で、人と人をつなげるのは難しくなっているのよ。保守的な人にはそれが見えていない気がする。旧来のやり方は、空気がよめて、自己 の抑制ができる、よくできた人間じゃないと、うまく立ち回れないルールになっている。空気よめ!気い使え!って強要されたって、できへんものはできへんね ん*。今の時代では、できが悪い不完全な人間でも、何とか楽しく生活していくような仕組みを作っていくことが大事だと思う。子どもを虐待する親が悪 いとか、モンスターペアレンツの考え方がおかしいとか、働きに出る母親の自己顕示欲が悪いとか、離婚する人は協調性が足りないとか、最近の若者の自制心が ないとか、そういうのを責めても何の解決にもならない。

 ええと。私は、他人との距離感がわからないとか、世間話が苦手、空気よめへん、自信がなくてキョドっているとかで、コミュニケーション力がとても 低いのだけど、他の人とのつながりをすごく求めていて、他人と他人をつなぐ事柄にとても興味がある。博士論文のテーマも、そういう他人と他人をつなぐ事柄 に関するもの(って、今、これを書きながら気づいたよ。一応、交通計画が専門なので、バスに関する論文ですが)。博士論文が終わったら、少し時間ができる はずなので、そういうことにきちんと取り組んでいくことにしよう。ファミサポもずっと躊躇していたけれど、入会しよう。名前だけ登録しているNPOとかに ももっとちゃんと参加しよう。

(「何かが欠けている不完全な自分が他者とつながるには」というお題で、あと2回ぐらい書きたいことがあります)

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*もちろん、他人への気遣いをしなくてよいとか言っているわけではなくて。気を使おうとする努力自体は大事だと思うんだけど、気付けないこと を責められても、治すのは難しいと思ってしまうんだ。(オットを含め、周りの人、ごめんなさい。それに、よくわからないから、とりあえず謝ってしまう自分 がいやだ。)

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2009年12月25日 (金)

何かが欠けている不完全な自分が他者とつながるには 1/4 -誰かと一緒に住むことについて-

 独身の頃、 「猫が行方不明*」という映画の主人公が羨ましかった。猫が行方不明になったことを契機に、主人公の女の子とご近所さんづきあいが始まっていくという話で、話自体も面白かったのだけど、主人公のルームメイトがゲイの男の子という設定にすごく心惹かれた。その頃、私は一人暮らしがさびしくて仕方がなくて、家族が欲しかった。でも、実家は、いろいろと束縛されるし職場からも遠かったので帰る気には到底なれなかった。恋愛というのはなかなか難しいものだと思っていた時期で、恋人と住むといろいろドロドロしてしまってややこしい、女の子のお友達だと気をつかいすぎて嫌だなぁ、ゲイの男の子ならはじめから恋愛関係にならないし、サラッと付き合えそうだなと思ったのだ。防犯面からも男の子と一緒に住んでいると何かと安心だし。(でも、ゲイの男の子が彼氏を連れ込むのはちょっと嫌だ。そういうのは「外で」というルールにしたい。)

 その後、いろいろあって、今のオットと結婚して一緒に住み始めた。オットはゲイではないけれど、当時の願いがある意味かなったように思っている。

 子ども**まで作っておいて、何を言っているのかと周りの人にいつも怒られるのだけど、オットは私のすごく大事な友人だ。私と彼との関係は、わりとさらっとしている。彼はあまり私に気持ちのモヤモヤをぶつけてこない(たまにはあるよ、人間だもの、みつを)。それに、私のことにあまり干渉してこない。彼を含め彼の家族は、行為の主体的自由は本人に帰するものだと考えている考えているふしがある***。私にはわりとこれは難しいことをやっているように感じる。私なんか、ついつい人の行為にあれこれ言いたくなったり、束縛したくなったり、よくわからない気持ちをぶつけたりしてしまう。それに、何かあると心身が弱る。彼から見ると、私は何だか面倒くさい人間なんだろうなぁ。

 旧友は、私とオットを「性格とか嗜好でクラスタ分析したら、同じクラスタに入るぐらいそっくり」というが、私はそうは思わない****。オットも「ぼくとあなたは似てない」と言っていた。せいぜいお隣のクラスタで、クラスタをかなり統合していかないと同じクラスタに入らないと思う。私はオットがどのように物事を見ているのか、どのように考えるのかを知ってはいるけれど、分かりあえているかというと、そうでもないと思う。

 オットは他人の問題と自分の問題を切り離すことができるし、何か失敗したとしても気持ちを切り替えることが上手だ。それはすごく健全で、生きていく上で大事な処世術で、その方が周囲の人々と良好な関係を結ぶことができる。それに、オットは私がほしかったものをすべて持っている。運動神経の良さ、要領のよさ、器用さ、屈託のなさ、人当たりのよさ、趣味のよさ、たくさんの友人、やりがいがあってそこそこ給料の高い仕事などなど(先天的な能力もあるが、もちろん、彼の後天的な努力によるところが大きい)。彼が持っていないのは素敵な奥様だけかもしれない。でも、ソクラテスは「悪妻を得れば哲学者になれる」と言っているんだから、やっぱり彼は何でも持っているといえるかもね。私は他人の気持ちに引きずられることも多いし、気持ちの切り替えがすごく下手で、自分のことをグズグズしている不出来な人間のように感じる事が多い。意思が弱くて、いろんなことをまともにこなすことができないし。

 多分、私たちはお互いにわかりあえない部分があって、だからこそ、お互いのことを大事な人間だと思って、一緒に暮らせるのかな、という気がしている。オットがどういうつもりで私と結婚しているのか知らないが、私は彼が私の欠けている部分を補完してくれているように思う。もし私達があまりにも似ていたら、きっとうまく生活できない。

 結婚できて、よかったと思う。でも、オットがいなかったら、私は結婚していないと思う。

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 恋愛ってややこしいものだと、今でも思う。他者を好きになるということは、自分の中の何かをその相手に投影していることで、水仙の精とみんな一緒よ、きっと。この人のことを自分だけは理解してあげれる気がするとか、そういうの。自分を投影しているのに他者は自分の思いどおりにならいし、他者を自分の思いどおりにするって一体何なんだろうって思ったりとか、自己との対話を繰り返して、もやもやする。そういうもやもやが恋愛というものだと思う。

 付き合い始めたとしても、このもやもやは続く。この人にどこまで頼っていいんだろう、とか、本当に私達はお互いにとって必要な存在なんだろうか、とか。お互い適切に助け合って、自分のこともちゃんとして、というのが、よりよい人間関係を築くとは思うけれど、なかなか難しい。どちらかがどちらかに、もたれかかっちゃって、共依存になるとかありがちだし。途中でふっとどちらかが「あー、これ違う。勘違いだったわ。自分はこの人がいなくても、全然生きていける」と思ったら、それでおしまいだし。私みたいなモテないさん人生を送ってきたら、自分に自信がないから、相手が自分のことをいつか嫌いになるんじゃないかといつも不安で仕方がない。モテル人の持っているメンタリティ(自分への自信とか他者との距離感とか)は、大人になってから獲得するのが難しい。自分の心をもてあます感じとか、よそさまに迷惑をかけているところとか、それに対して申し訳なく思ったりとか、そういうのを考えると、体の中で何か有害な物質が生成される感じがしてくる。そういうの全部、面倒でややこしい。

 こういう面倒くさいものを制度化したのが結婚という形態だと思う。いろいろ考えるのが面倒なので、既存の制度にのっかって、みんながやっているのと同じ形におさまりましょう、ということ。制度であれば、役割分担が比較的明確だし、いろいろと義務や権利が発生するから別れるのが難しくなるし。それに、親や親戚、子どものことを考えると、この既存の制度にのっかっると、すごく楽になる。

 私が結婚した時は、頭の中がお花畑だったので、何にも考えずに、仕事もやめて、大好きだった土地を離れて、名字も変えた。でも、もう少し冷静になっていたら違う判断したかもしれない(といって、自分がしてきたことを後悔しているわけではなくて、ただ可能性としてそういうこともあるということ)。事実婚の人とか、かなり共感する部分ある。だから、結婚という制度にのっからなかった人/のっかることができなかった人が大きな不利益を被っているのは、おかしいと思う。情報の面でもそうだし、手続きもめんどうになるし、目にみえない真綿のような差別もあるし。この不利益は、まるで何か罪をおかした人への制裁のよう。おかしい、絶対おかしい。

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*「猫が行方不明」で、朝食に謎の薄っぺらいパンを食べていた。これは何だろう?と気になって探したら、「クラコット」という名前で、近所のスーパーで売っていた。賞味期間が長いので、うちに常備している。パンを買い忘れた時とかに便利。

**「だって、これは、だらだらとしたそういう生活そのものから生まれてくる物なのだから、あなたたち全員の子供なんですよ。」(多和田葉子:「枕木」、ヒナギクのお茶の場合)。子どもというのは、だららとしたそういう生活から生まれる、偶発的にできるものなんだと。でも、偶発的なものだとしても、自分が関与しているものである以上は、責任をとらないといけないし、責任をとるということは、愛情をかけるということと同義だよ、きっと。だらだらとした生活の産物なのに、子どもが産まれた途端、だらだらとできなくなるんだよな。

***アマルティア・センもケイパビリティ・アプローチの中で、同じようなことを言っている。センによれば自由とは、「本人が価値をおく生を生きられる」こと、より正確には、「本人が価値をおく理由のある生を生きられる」ことである。と、こうやって、偉い人の文章を引用すると、まるですごく勉強しているかのように見えるというライフ・ハック。ごめんなさい。本は読んだけれど、よく分かっていないです。

****クラスタ分析とは、与えられたデータを外的基準なしに自動的に分類する手法。データをもとに、似通っているもの同士をグルーピングする方法。物事を単純化するのに役立つので、結構使う。日常的にも、えいえいってデータを統計ソフトに突っ込んで、自動的にクラスタリングできたら便利なのにって思うことがある。

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 ここしばらく考えていたことをつらつらと書いていたら、ありえないくらい、すごい長い文章になった。ということで、4回に分けて投稿する。こういう無駄な文章が書きたい気分なんだ。論文と違って、個人的な思いを書けばいいし、論理性も厳密性もなくてよいし、文字制限もないから、楽しい(途中で、論理矛盾や飛躍に気づいたけれど、面倒なので、直さない)。まさに"書くことは慰安"。でも、blogでこんなに長文だと誰も読まない。

(私信)論文を仮提出しました。あとは、正式な論文提出、公聴会の審査が残っています、って、まだまだやん(笑)

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2009年12月19日 (土)

world's end girlfriend "Xmas song"

 最近、twitter経由でworld's end girlfriendを知った*。めちゃめちゃかっこよくて、かっこよすぎて、聞きながら何度も感動している。すごく繊細なメロディにノイジーな音が被ってくるところとか、ものすごく心が揺り動かされる。繰り返される美しい旋律、何重にも重なる様々な音色。聞くたびにいろんな気づきがあって、曲の中にある世界が奥深く感じる。

 人の心を強く惹きつけるものって、二面性を持っていることが多いように思う。world's end girlfriendは、繊細さと歪み(ノイズや不協和音)という二面性を持っている。二面性を持つことで、崩れゆくものが持つ凄みをもった美しさになる。予定調和じゃない、バランスのとれていないものが持つ美しさというか。

■world's end girlfriend  "Garden in the Ceiling"

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20091203 world's end girlfriend の"Xmas song"が12月だけ下記のページから無料でダウンロードできる。かわいいけれど、かわいいだけじゃない、大人なクリスマスソング。おもちゃ箱をひっくり返したようなかわいい曲だと思って安心して聞いていたら、途中で不協和音に変わっていたりして、あなどれない。

 [ototoy] Xmas song / world's end girlfriend

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* twitterアカウントは復帰していないのだけど、何人かの発言はチェックしている。音楽の趣味がすごく合う人がいて、その人がつぶやいているのを追っかけていくと、私の好きな音楽に新たに出会えて、すごく楽しい。ここ数年、80~90年代の音楽とか、トリビュートアルバムとかそういう自分のプレイリストを穴埋めするようなものばかり聞いていた。情報を得る手段がないと、どんどん小さい世界に入っていっちゃうから、少しのことにも先達はあらまほしき事なり、と思う。

** 5曲入っているのに、何で"songs"と複数形じゃないんだろう? 今、うちでは、子どものリクエストにより、「赤鼻のトナカイ」等の子ども用のクリスマスソングもかけているので、音楽的に混沌としている。

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2009年12月12日 (土)

踏み込めない

 今、くるりの「ばらの花」をなんかしついこいほど聞いている。なーんとなく今の気分に合っているというか。通学中も、家でも、お風呂の中でも。

 一緒に聞いている子どもが、「僕らお互い弱虫すぎて踏み込めないまま朝を迎える」という歌詞を聞いて、

 「何で飛び込めないの?怖いの?私は弱虫じゃないから、プールでも、ちゃんと飛び込めるよ」

と、私のアンニュイな気分を一気に破壊しにくる。

 いやいや、飛び込めないじゃなくて、踏み込めないだし。

 でも、何に踏み込めないかは、5歳児に説明するには不適切すぎる話題だ。ていうか、お母さんにはうまく説明できる自信がないぞ。踏み込めない方がいい時もあるよね、とか。20歳ぐらいになれば、自然に分かるよね、きっと。

 というわけで、娘には、

 「高すぎて飛び込めないんだね。怖がりさんなのかな。えび組さんになれば飛び込めるのにね。きっとめだか組さんのままなんだね。」

と、適当に相づちを打っている。聞いたことに真摯に答えるということも大事だろうけれど、誤摩化した方が良い時も多いと思う今日この頃。

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 歌に限らず、百人一首とかも、子どもに教えるには不適切な内容だったりするような。「なげきつつ ひとりぬる夜の 明くる間は いかに久しき ものとかは知る」とか。文章の意味は追えても、内容を理解できないような。キスシーンなんかよりもよっぽど困る。

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 ここしばらく、頻繁に更新しているのは、少し前に書いた調子悪そげな記事を流してしまうため。それと、大人と話している量が少ないので、何かを吐き出したくなっているのもあるかも。

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2009年12月11日 (金)

特別講義に出た

 今日は特別講義に出席した。講義を受けに行くの、1年ぶりぐらいだ。講義の内容は、ランドスケープとヴァーチャルリアリティを使ったコミュニケーション技術について。こういう微妙に分野外のことに関する講演って、めっちゃ面白く感じる。初めて知ることばかりだし。

 借景の話とか、ランドスケープと土木施設の関係とか、ヴァーチャルリアリティの活用可能性とかいろいろ。また、そのうち、時間がある時に、考えたことなどをメモするかも。

 

 ヴァーチャルリアリティについての講師は、twitterで知り合った方。ネットでできた知り合いに会うって初めてなので、少し緊張した。ネットでお見かけした感じと一緒で、前向きで明るい感じの方だった。文字しか見えなくても、印象ってそんなに変わらないものなのかな。手みやげに何か渡したいと思い、佐用でもらったゆずを使って作ったゆず茶を持って行った。こういうとき、手づくりの何かを持って行きたくなるのって、うちの母親と一緒だ。年々、私って母親に似てきている。(私信)もし、変な味がしたら捨ててください。

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2009年12月 9日 (水)

備忘録(ルーマン システム理論)

 ルーマンのシステム理論について、個人的メモ。また、そのうち追記するかも。

オートポイエーシス 
 あるシステムがそれ自身の作動をそれ自身の諸作動のネットワークを通じてのみ生み出しうるということを意味する。

  • システムはオートポイエティックであるか非オートポイエティックであるかの いずれである。少しだけオートポイエティックということはありえない。
  • 程度が高い複雑なシステムは独立性と同時に特定の依存性も増大させる。

 観察者は一方で作動を観察し、他方で観察者自身が作動である。

 私たちが何らかの時間理論を定式化しようとする場合、したがって他の人々が時間をどのように観察しているのかを観察しようとする場合には、そもそもわたしたちが誰を観察しているのかについて区分しなければなりません。
 第一に全体社会の視角を、第二に組織の視角を、そして第三に個々人の生の視角を区別することです。

 意味あるものと意味のないものとを区別するということは、意味があるのでしょうか。

 意味のカテゴリーを二つの類型にふりわけるべきだということを明らかにできる。
 ・意味的に体験される心的システム
 ・意味がコミュニケーションのなかで用いられることによって意味を再生産するシステム

 目的と手段の区別をしなければならない。
 どのような目的に対して、行為者が手段としてみずからの行為やそのほかを用いるのかを問うてはじめて、人は行為そのものを理解し、そして理解することができる。

 作動上の閉鎖と因果の開放性との概念的な区別に出合うことになる
 作動上の閉鎖はひとつの対象、ひとつのシステム、あるいは因果的に反応することができるものを構成する。
 閉鎖ということなしにそれは自己言及的システムとして存在することはできない。
 システムと環境、心的システムと社会システムが再び融合してしまうことを避けなければならない。
 オートポイエーシスのコンセプトによって理論の両立性を創りださねばならない。
(二クラス・ルーマン:システム理論入門、新泉社、2007)

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2009年12月 8日 (火)

修理完了

 心身の調子、かなり戻ってきました。D論はまだ修正中ですが、少し目途がたってきました。来週、教授会があるので、それまでに終わらせたいです。

 単純に、先月、学会に3つ連続で出かけたので、調子を崩しちゃったんだと思います。旅行自体がもともとそれほど得意ではないし。学会というのは、楽しいことも多いけれど、多くの人に自分の研究をさらして批判を受ける場でもあるし。緊張し続けていたせいだと思います。

 ええと、あまり認めたくないですが、私はかなり神経質なんだと思います。でも、繊細というわけではなく。ガサツなのに神経質というか。原因と結果が単純につながりすぎているというか*。

 単純な構造なので、よく壊れかけるけれど、金属板を上から貼って溶接するぐらいで簡単に直ります。頻繁に壊れかけるけれど、ぽっきり折れたりはしないです。

 茶碗の金継みたいに、修復すると、また違った感じできれいになるというのが一番いいでしょうけど、それはなかなか難しいですよね。

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*単純といえば。以前、飲み会で占いの話をしていて、「私も占いに行ってみたい」と言ったらところ、ある人に「おまえは単純にできているから、占ってもらうまでもないだろ」と笑われたのを思い出した。その時は、たいそう憤慨して、失礼な人だと思ったけれど、単純なんは単純よな。

 

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2009年12月 7日 (月)

備忘録(ロールズ 正義の原理)

 論文修正だけしていると、気が滅入って仕方がないので、少しだけ現実逃避するために、本を読んでいる。完全に関係のない本だと、逃げすぎなので、少しは関係しそうな本を。

 で、本の中で、面白いと思った部分を引用しておくと、あとで面白いかと思い、備忘録代わりにメモ。感想などは、また後日追加するかも。

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 善ないし幸福を「合理的人生計画の成就」ではなく、「みずからに備わる力量の発揮」というアリストテレス風の観点に立って考察することもできる。その場合、人間は自分の力量の活用を享受する。この喜びは、力量が実現されればされるほど、それが複雑になればなるほど大きくなる。また善い人間は、秩序ある社会の構成員にとって、その仲間に加えたいと望むのが合理的であるような、道徳的人柄に関する諸特徴をもっている。

 そこで大切になってくる幸福の要素が「自尊心」である。これは二つの側面をもつ―自分自身に価値があるという感覚、および自己のもくろみを果たす能力に対する自信。反対に秩序とは、ある人が自尊心を傷つけられたときに抱く感情以外のものではない。

 正義や<正しさ>の諸原理が原初状態において選択されるべき原理であるのに対して、合理的選択の諸原理は原書状態での選択の対象ではない。善・幸福についての各人の構想が異なることは、それ自体望ましいことだが、<正しさ>の構想に関してはそれはあてはまらない。また正義の諸原理は無知のヴェールに制約されるのと違い、ある人の善の評価は諸事実に関する完全な知識に拠りどころを持っている。

(川本隆史:ロールズ 正義の原理、pp150-151、講談社、2005)

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 「正義論」の中にある、「愛の冒険」という章に書いてあることに、少し驚いたので、引用。
社会倫理学の本にこんなこと書いてあるなんて。恋をしたことがない人には、この文章を実感を持って理解することができない?

互いに愛し合う人々は同時に破滅に陥りやすくなる。
愛する者たちは、自分たちを他者の不幸や不正義の人質として差し出す。
友人や恋人同士は大きな危険をおかしても互いに助け合う。
いったん恋をすれば、私たちは傷つきやすくなる。
恋をしているとき、私たちは傷つくことや損害をこうむることの危険性を受け入れる。
けれどもそんな「愛の冒険」に賭けている場合だと、私たちは自分たちの愛を後悔しないし、愛への決断をのぞましいとも考える。
こうしたことは、秩序ある社会における愛に、またしたがって正義感覚にもあてはまるだろう。
だから正義感覚を保持することは、合理的で望ましいことなのだ、と。
(同上、pp157)

(追記)他者とつながろうとしたら、自分を傷つきやすい(vulnerable)な状態におかないといけないって、金子郁容先生も「ボランティア」で書いていた。自分は傷つくことがない完全な人間だと思っていると、他者とつながることができないって(本を探すのが面倒なので、うろ覚え)。一人一人が傷つきやすさを保持して、傷つきやすさへの理解がないと、社会がうまくいかないのかなぁ(って、浅すぎる感想ですが、ちゃんと書こうとすると難しすぎるので)。

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