« 2010年4月 | トップページ | 2010年7月 »

2010年6月

2010年6月18日 (金)

いつだって時は遅れる 残酷な世界はいつも不条理に満ちてる

Alicewonderland_poster_s 家族で「アリス・イン・ワンダーランド」を見て来た。映像がとても美しくて、うっとり。優美で残酷で不気味なティム・バートンの世界。3Dで見れてよかった。3Dで見ないと意味のない映画だった。子どもは何回も手を伸ばして、映像を触ろうとしていた。音楽はティム・バートンといつもタッグを組んでいるダニー・エルフマン!物語を大げさにひきたてる美しい音楽。

 キャスティングも素晴らしかった。アリス役のミアは、不機嫌そうな表情をさせてもかわいい。大人になる前の不安定な美少女の雰囲気がよく似合っている。白の女王役のアン・ハサウェイは、自分の手は汚さない故の残酷さを醸し出していて、浮世離れた感じが。目も眉も唇もしっかり! 私は、この手の過剰な感じの美女が大好きだ。
 そして、ヘレナ・ボナム=カーター!!! 不気味でかわいくて残酷な赤の女王。あんな特殊メイクされているのに、ヘレナ・ボナム=カーターにしか見えない。ファイトクラブでは全ての幸せを吸い取る暗黒惑星のような彼女だったのに。すごく演技の幅が広くて、雰囲気があって素敵だ。

- - - - (一応ネタバレ注意)- - - -

 この映画は、映像と音楽の美しさを味わう映画。えーと、正直言ってストーリーはつまんないですよ。少女がある出来事を通して自分で人生を選択するという、ありがちな成長譚になっていた。あまりにも、ハリウッド映画的すぎる。私は、アリスには現実と夢の境目のあいまいさを求めているから、この筋の通った物語には納得がいかない。ワンダーランドなのにわけのわからなさが薄いなんて意味がない。意地悪じゃない帽子屋にはがっかり。人の行動や物事にはすべて原因が必要なのか?そうじゃないだろう?物語を楽しみたいなら、テリー・ギリアムのローズ・イン・タイドランドを見るべきか。

| | コメント (0)

2010年6月14日 (月)

あなたには 私が見えないかもしれない できることなら ここにいたいのに

 中高生の頃、女子の同調圧力が嫌で嫌で仕方がなかった。中高生の潔癖な価値観は、少しでも異なった人間をすごい勢いではじこうとする。だから、理科系科目は苦手なのに、女子から逃げるように理系を選択した。理系女子は珍獣扱いなので、気が楽。今は、工学部なのに、理系っぽくないことしている。

 今でも女性の同調圧力に苦手意識があって、保育所ママでも、普通に世間話ができる人が限られてしまう。大人なので、全員ににこやかにあいさつするし、天気の話などで一言二言会話できる。でも、その先の会話は、できたら避けたい人もいる。オットにはダメじゃんと言われてしまうが、別にいいやんと思う。

 人に変だといわれたり、はみ子にされるたりするのには慣れている。人からはみ子にされるのが怖いのであれば、始めから自分からはみ出ていった方が気が楽。で、不思議ちゃん扱いしてもらえばいい。少し中心からずれた所にいる方が気楽だし、周りがよく見渡せる。ぼーっと物思いにふけることもできる。大学院に行ってよかったことの一つは「あ、この人はいい年をしているのに大学院にいる変わった人だ」という扱いをされることだ。でも、人が変っていうほど、自分は変わってない。すごい普通で、めだった特徴もない。世の中には、本当に振り切れいるような人がたくさんいるのにね。

 とかいいつつも。こういう面倒な性格でも、いじめられたこともないし、人間関係のトラブルってあんまりない。少数ながらも、周りに信頼できる人もいる。いつもヘラヘラ笑ってるのと、悩み少なそうな顔のつくりのせいだと思う。顔については、親に感謝している。ヘラヘラしているのは、大人になってから身につけた、私の数少ない対面スキル(それもどうかと。しっかりしろよ、自分!)。

- - - - -

 人や社会からはじかれる疎外感、分からない人には分からないみたい。そういう人たちは、それなりに幸せなんだろう。でも、はじかれる側の人間からすると、なぜ彼らには私達が見えないんだろうって不思議に思う。今、はじかれてなかったとしても、いつ、はじかれる側に回るのかも分からないのに。

 人のことをはじこうとする人たちって、全然悪人じゃない。仲間意識が強くって、仲間には親切で、仲間内の秩序・規範を大事にする、すごいいい人たち。明るくて、空気よめて、友達多い感じの。で、悪気なく、ちょっとずれている人間をはじく。

 同調圧力が強い人は、自分や自分がしてきたこと、してこなかったことを肯定するために発言することが多い。人を傷つけようとするわけではない。でも、だからといって、自分を肯定するために、他人を否定する必要はないはず。それを意識していない人と話をするのは、少し辛い。「あなたはそう思うかもしれないが、私はそう思わない」 それが言えない。

 価値観の多様性を認めない人たちの中に入っていくというのは、私にとってすごく難しいこと。そこから何かを得ようとすると、自分を傷つける必要がある。入っていこうとして、はじかれる可能性を面倒に思う。多分、福井のような田舎町ではそうはいかない。多くの情報が、ご近所さんをはじめいろんな人々に漏れて、いろんな人間関係が複層的にからみあっている。リンクがふたつぐらいで見知らぬ人に繋がる。その上で、ゴリゴリとした人づきあいをしないといけない場面が多かろう。でも、都会ではこのコミュニティがダメでも、ほかのコミュニティというふうに、自分でコミュニティを選択できる。都会に住んでいるということはそういう部分がある。よくも悪くも。

- - - - -

 私は自分から人の輪からはじかれて行こうとすることがあるわけだが、やはりそれは不健全な考え方だ。自分を傷つけてでも、入っていかないといけないコミュニティもある。自分の傷を過大に捉えているだけのような気もする。

 多分、人をはじくようなコミュニティは、持続性がない。どんなコミュニティでも面倒くさい事柄が発生するが、それを担う人がいなくなる。都会では、複数のコミュニティがあるから、自分で選べばよいと書いたが、そのせいで生きにくくなっている部分もある。持続しているコミュニティの方が多くの何かを生み出すし、何よりそこにいる人々が楽しく過ごせる。育児でも、研究でも、地域で何かに取り組むにしても。人をはじかないコミュニティを持続させる必要をあちこちで感じる。コミュニティをどう作っていくのかというのは、もっと客観的に深く考える必要がある。

 社会はどんどん多様化している。ライフスタイルも、人間関係も、物の考え方も。多様化していく社会は歓迎したい。多様な人がいるのを受け入れたいし、受け入れてほしい。受け入れてほしいけど、同調しない自由も残してほしい。仲良しじゃない人たち、ずれている人たちを社会のシステムやコミュニティの中から、はじきとばしたくない。

| | コメント (2)

2010年6月 6日 (日)

姫君が ずっと待ってる 救いの手がいつかくるはず 泡沫の夢

 子どもにせがまれて童話を読むことが多い。シンデレラとか、眠り姫とか、人魚姫とか、お姫様が出てくるのを子どもは好む。

 でも、子どもに童話を読んでいると、いろいろともやもやする。

 まず、童話のお姫様が王子様を好きになる理由が解せない。だって奴ら顔しかみてないんだぜ。人魚姫の王子様とか命の恩人を勘違いするしさ。人を見る眼がないよねー。私が恋の相談を受けたら、あんな苦労知らずのボンボンはやめといた方がいいっていうよ。

 それに、お姫様というのは、基本的に待ちの姿勢。たいがいのお姫様はなんやら窮地に陥っていて、王子様が助けにきてくれるのを待っている。白雪姫もねむり姫も仮死状態で王子様を待っている。シンデレラは、不幸な家で、王子様が見つけてくれるのを待っている。ラプンツェルも、塔の上から髪を垂らして、待っている。積極的に王子様を求めて出ていった人魚姫は、不幸になった。こういうの、子どもに読ませるのをすごい躊躇する。

- - - - -

 子どもの頃読んだ「ここはグリーンウッド」の六条倫子さんのエピソードは、ラプンツェルになぞらえている(手元にないのでうろ覚えだけど)。いいとこのお嬢さんであるところの倫子さんは、いいとこのボンボンの旭君と婚約して、恋に落ちる。この旭君、気が弱くて、出来すぎた弟に押されて、失踪しちゃう。

 倫子さんは、旭君をラプンツェルのように待ち続ける。でも、旭君は迎えにきてくれない。旭君は自分のことでいっぱいいっぱいで、自分の力で自分の足を地につける方法を模索し続けてる。倫子さんはずっと待っていたんだけど、そのうち待ちきれなくなって、自分の足で塔の下に降りて、歩き出す。

- - - - -

  救いの手を待ち続けることは解決に繋がらない。知識としては知っている。それに、人を助けるということは、生半可にできることなんかじゃない。でも、私の恋愛観(夫婦の間でも)の基本は、童話のお姫様と王子様の関係で、すぐ「助けて」って思ってしまう。この状況から救い出してほしいと思う。私のすべてを受け入れてほしいと思う。そして、相手のすべてを受け入れてあげたいという、図々しい気持ちを抱く。

 オットは私が「助けて」と言っても、助けてくれない。同情もしてしない。依存させてもくれない。「君より僕の方がしんどいねん。自分一人でがんばりや」と言う。きっとそれが正しい。そうじゃないと、私みたいな依存体質の人間と生活できへん。

 オットは私のことをよく知っているし、私もオットのことをよく知っている。お互いに相手の気持ちを慮ることはできる。でも、なんというか、お互いの気持ちにひきずられるようなことってほとんどない。これは、一緒にいて、すごい楽だ。私が凹んでいても、オットは元気。そして、オットは、一緒にいる時は、楽しくすごさなあかんと強要する(というと言い過ぎだけど)。つまらない気持ちに流されるのではなくて、意識して楽しく過ごそうとすることが日々を過ごすために大事だと、オットは考えている。

- - - - -

 アルコール依存者を立ち直らせる方法として、一番有効なのが「タフラブ」なんだって。お説教も、甘やかしも、依存症を立ち直らせることはできない。タフラブは、突き放して、自分の力で立ち直るのを見守るやり方。長い目で見て、それしか窮地に陥っている人間を助ける術はない。

 アルコール依存症だけじゃなくて、子育ても、男女関係も、地域支援も、すべての人間関係でタフラブが有効かも。でも、むずい。子どもの頃からそうやって育てられればできるかもしれないが、私みたいなダメ人間には難しいよ。支援をするのも、求めるのも。一つひとつ、経験を積み重ねるしかないような気がする。

 子どもときちんと向き合おう。オットともきちんと向き合おう。研究でお世話になっている地域ともきちんと向き合おう。相手にとって何が必要なのか、遠い目をもって考えたい。そして、何をするのがよいのかは、一方的に考えるんじゃなくて、コミュニケーションをとりながら考えていこう。

(書きながら思ったのは、恋愛も家族も子育ても研究も仕事も、全部私の中ではごった煮になっている。家族について書いていると、同時並行で地域との関わり方が思い浮かんだりする。ちゃんと分けて考えないといけない部分もあるとは思うんだけど。)

| | コメント (0)

2010年6月 5日 (土)

失敗する可能性のあるものはいつか失敗する だからなんなん?

101080913  もう先月の話になってしまったが、今年も家族でツアーオブジャパンの堺ステージを見に行った。自転車レース、間近でみると、めっちゃ早い。みんな、男前や!

 ただ、残念なことに、去年までは周回コースだったのに、今年からはタイムトライアルになってしまったので、レースの駆け引きなどをあまり見ることができなくて、とても残念。コースや規制時間はどんどん縮小していく。自転車が人気と言われているが、まだまだ自転車レースは根付いていない。興味がない人間にとっては、自転車レースのために、道路の通行止めなんか面倒なだけだ。

 自転車博物館にも行ったのだが、なかなか面白かった。自転車関係のイベントもたくさんやっている。もう少し近くにあれば、子どもを自転車乗り方教室とかに連れて行ってやりたい。webページも充実している。自転車のまちづくりとか読んでいていて面白い。シマノの本気が伝わってくる。 

- - - -

 ツアーオブジャパンの会場となっている大仙公園では、様々なイベントをしていた。子どもが中に入って遊べるバルーンがあって、その中で子どもが遊んでいる隙に、子どもを喜ばせようと、父が風船をもらいにいった。風船を見て子どもは喜ぶだろうと確信していたのに、子どもは「欲しくなかった」「おうちに帰りたい」と急に悲しそうな顔になった。

 よくよく話を聞くと、先日、風船をもらった際に、誤って手を離して風船を飛ばしてしまったのを思い出したらしい。風船が自分の手から離れて空に飛んで行くのぐらいであれば、初めからもらいたくなかった。もらってしまったのだから、一刻も早く家に帰って安心したい。娘はそういうのだった。

 でも、風船をもらう直前までは、機嫌良く遊んでいたし、お昼ご飯もまだ食べていなかったし、肝心のタイムトライアルもまだ見ていなかった。何とか子どもをなだめすかせて、お昼ご飯を食べて(子どもの好きなお寿司!)、タイムトライアルも一通り見て、帰路についたのだった。

 夫は娘の様子を見て、「子どもの考えることって面白いなぁ」と笑っていたけれど。うーん。私は少し不安に思いましたよ。風船を飛ばしてしまう確率なんて、10回に1回ぐらいやんか。不幸が起こる確率を娘は多く見積り過ぎている。娘は、そのまだ起こっていない不幸に気を取られすぎて、目の前にある、美味しいお昼ご飯、自転車レース、自転車博物館といった楽しいことを投げ捨てようとした。私もそういう考え方をよくしてしまうんだ。

 起こる可能性のある不幸にばかり気をとられていたら、何もできなくなっちゃうんじゃないかと思う。失敗する可能性なんかどこにでもあるんだから。そんなものに目を奪われる、しかも5歳の幼児がそれに気をとられるというのになんか残念な気持ちになってしまった。

 努力も思いつきも行動も、自分のことが好きじゃないとできない気がする。脅されるからする、逃げるためにする、そういうのは長続きしない。

 なーんか、子どもには、「自分のこと大好き」って感じの、オットみたいに屈託のない人間になってほしいんだけどな。オットは自分のこと、かっこいいと思っているし、頭いいと思っているし、かくありたい自分と実際の自分にギャップがあると努力するような人間なんだ(こういうことをネットに書く度に、毎回オットに怒られている。誉めているよ)。

 私は、今まで子どもに「こういう可能性があるから、やめた方がいいんじゃない?」とか脅すようなことばかり言っていたかもしれない。ネガティブな物言いの積み重ねが、子どもに悪影響を与えている気がする。

 もうちょっと大きくなれば、「悲観主義は気分のものであり、楽観主義は意志のものである」なんていう警句とか、マーフィーの法則を知ったりすれば、態度を意識的に変えていくことができるかもしれないけれど。彼女の最も身近な人であるところの私が、もっと楽観的に、「いけいけどんどん」な感じの態度でいないとあかんやろうなぁ。
 
 子どもというのは可塑性が高くて、どんどん気持ちや態度、性格が変わっていくものなので、親の意図とは関係ない部分も多いけれど。子どもを産んでから「おかん」にならなあかんと思っているのだけれど、なかなかできてへんなぁ。

| | コメント (0)

« 2010年4月 | トップページ | 2010年7月 »