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2010年7月31日 (土)

郊外について思うこと(その2)-大規模ニュータウンについて-

 ニュータウンは、自然発生的にできた下町や歴史のある市街地とは違う。計画者の意図が透けて見えるような地域だ。自然発生的に作られたものが少ない。日本の初期の大規模ニュータウンは、ハワードの田園都市ペリーの近隣住区論をもとにして作られた。ただ、ハワードの見た夢と違って、ニュータウンはベッドタウンであり、職住近接は実現できていない。

 私は、今、日本で最初に開発された大規模ニュータウンに住んでいる。

 ここは最初に開発されただけあって、教科書どおりのものをあちこちで見ることができる。例えば、クルドサック。歩車分離。近隣センター。地域センター。メゾネットなどなど。

133397231 歩車分離に関しては、我が家がある地域では、住宅から、保育所、幼稚園、小学校、中学校、近隣センター、地区センターに行くのに、車道を横断することなく完全に歩いていける。急に走り出したり、しゃがんだりするスイッチが入っている子ども(親にはそのスイッチが誤作動しているようにみえるが、代わりに羽化したてのセミや菫などの野の花といった大人が忘れていたものを見つける能力がある)がいる親にとって、これほど安心できることはない。

 地域センターと住宅をつなぐ遊歩道には、いつもいろんな人が行き交っている。近所の方、保育所のお友達ともよくここですれ違って、挨拶を交わす。他の地域の遊歩道を詳しく調べたわけではないが、遊歩道というのは人通りが少ないことが多いように思う。必ずしも人の動線と一致していないこと、鬱蒼とした街路樹のため、痴漢やひったくりなど犯罪の危険性が高いことから、人の行き交いが少なくなるのではないかと思う。うちの家からこの遊歩道は、少しだけ遠回りになるのだが、娘が「お友達に会えるかもしれないから」というので、よく通る。

 近隣センターは空き店舗が増えて機能が弱まっているが、スーパーや郵便局があり、そこそこ機能している。うちの最寄りの近隣センターには、街角広場という地域の有志の方が運営している空き店舗を活用したカフェがあって、憩いの場としても機能している(ほんまにこれはうちの地域の誇りだと思うのよ。すごいよ!)。

 それに、計画どおり作られていても、30年ほどたてば変な癖みたいなものが出てくる。竹林、坂の多い道、遊歩道、渡り鳥たち。街路樹、昼間でも暗い竹林のある公園は、これほど鬱蒼とすることを予想していただろうか? 車止めとして作られたコンクリートの動物も、色がくすんで変な味わいを出している。そういう癖のようなものが愛着に繋がる。 

 ニュータウンに住むまで、ニュータウンというのは面白みがなくて、魅力的じゃないと思っていた。町には、得体のしれない部分、わけの分からない部分があってほしいと思っていた。でも、私は、今、住んでいるニュータウンの良さを書きだしたら、いくらでも書ける。ただ、この良さは、仕事と生活が密着していなくてよいということ、欲しいものは自分で作るのではなく、お店で売っている画一的なものを購入することで用が足りちゃうということ、そういう今の消費社会の特性によくあっているというだけだと思う。今の働き方、消費の仕方を肯定するかどうかは、別の話。

 写真:娘が見つけた羽化したてのセミ。娘が急に立ち止まって、動かなくなったので何事かと思ったら、そこに翡翠のような美しいセミがいたのだ。(翡翠のようなセミという表現はsisterbronteさんが使われていて、すごく美しい表現だと思い、真似してます。私も美しいものを、美しい言葉でさらりと表現できるようになりたいです。)

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