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2010年8月

2010年8月27日 (金)

現実から逃げるための助走のようなもの あるいは、現実に戻るための助走のようなもの 夏の終わりにもう一度走り出すために

 逃げちゃダメだ、逃げちゃダメだ、逃げちゃダメだ(c)。
 何かを書き殴りたい気分。ということで、思いついたよしなしごとを、つらつらと。

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 子どもの頃、私から見えている世界と、他の人から見えている世界は一緒なのかなって、気がかりだった。人が見えているものが私には見えていない気がしていた。
 大人になって、どうやら違うらしいということがわかった。人は見たいものしか見ない。見る訓練をしている人と、していない人とでは見えるものが違う。
 それがわかって、ほっとしたと同時に孤独を強く感じだ。というのは、私が考えていること、感じていることは、どんなに言葉を費やしても、どれだけ文章が上手になっても、伝わらないのだということだ。私が見ている世界は私だけのものなんだ。

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 子どもを産んだ時、朝の光がやたらと眩しかった。光の中に、宇宙人のように無垢な娘と出会った。死ぬほど痛い陣痛で、私は一回死んで、子どもと共に、生まれ変わったのだと思った。人生リセットして、やり直そうと思った。
 でも、やり直しなんてどうやってやればよいか、よくわからない。ちょっとずつ前に進む。たまに後ろに下がるけど。とりあえず体だけは前を向いておこうぜ。

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 映画の空気人形を見たせいで、体の空気を抜かれる夢を繰り返し見ている。 自分が空気でできたお人形になって、お腹の栓から空気をしゅるるるる~と抜かれるんだ。体がぺたんこになって、動けない。誰かに空気を入れてもらわないといけないのだけど、誰もいれてくれない。自分で空気入れるしかないのよ。

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 私が祈りを捧げている先って、一体全体なんなんだろう。
 気がついたら、信仰もなしに生きて来た。選択することもなしに、無信仰になっていた。
 それでも、自分の力が及ばない時にはお祈りしてしまう。私が幸せになりますように。家族が幸せになりますように。私の知っている人たちが幸せになりますように。いろんなことがうまくまわりますように。
 最近、信じるものを持ちたいと思うようになってきた。
 信じるものがある人って、強いと思う。私も信じるものを持とう。何かを信じるって、思い込みで、狂信的で、偏狭な部分が出て来そうで怖いって思っていたけど、私みたいに弱くて、考えがぶれまくっていると、周りが迷惑だし、なんか足踏みが多すぎる。シンプルに、信じるものを持ちたい。

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(c)新世紀エヴァンゲリオンの主人公のセリフ(http://www.youtube.com/watch?v=ut-522Wuokk&NR=1)。私はエヴァに挫折しているので、よく知らない。いつか、ちゃんと見ようと思っているのだけど。

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 最初、タイトルに「現実から逃げるための助走のようなもの」と書いて書きだした。なぜなら、現実逃避として、blogに変な文章を書きたくなったから。でも、書きながら、これは、現実に戻るための助走として書いているような気もした。どちらにしても走る準備。夏の終わりで、気持ちがちょっと疲れているんだ。ちょっと走り続けるのに疲れている。私は弱い弱い人間だから。でも、走るのをやめるわけにはいかない。がんばろう、がんばりますってばかり言っているけれど、そういってないと、ほんまに一歩も動けなくなる。

 疲れると、文章を書き散らしたくなるのは、多分、誰かに話を聞いてもらいたいから。でも、もともと私の話はとりとめがないし、今は上に書いたような返答に困るようなことばかりが頭に浮かぶ。私も誰かにこんなこと、言われたら、「あん?だからなんなん?何がいいたいん?」と詰め寄ってしまうよ。ヒトカラでもして、飲むのがいいかもね。

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2010年8月 8日 (日)

形なきものを枠に押し込める 枠に入りきれない部分は多いけれど

 blogに文章を書くのは、私の継続している数少ない趣味の一つ。もし、インターネットがなかったら、私はとめどなく溢れるこの文章群をどうやって処理していたのかなぁって思う。

 文章を書くことで、頭の中を整理し、意味づけをしている。自分の書く文章が拙いものであること、大したものを書いていないことを重々承知しているが、何かを自分の言葉で書き連ねたいという衝動にかられて、書いている。

 言葉にするということは、形のないものに枠組みを与えるということだと思う。私はこの枠を作るのがそれほど得意ではない。私は、自分にとって大事すぎる経験を文章化することにためらいがある。大事な経験が、私のつたない文章で陳腐になるのを恐れる。枠に入れる前の経験や思いは、尊くて美しかったように思うのに。それに、経験というのは私だけのものではなくて、必ず他者が存在する。経験を文章にするということは、どんなに誠実に書いたとしたとしても、事実を自分の都合のよい物語にすり替える。だから、些細で関与する人々が少ない出来事を文章化して、大げさな物語にすり替える方を好む。

 でも、きっと、そのうち、大事な経験も言葉にする。ここには書かないかもしれないけれど、何らかの形で、枠に押し込めて、陳腐化させる。この年になって分かってきたことは、過去のことはすべて受け入れなければならないらしいということ。思い出したくない過去もすべて。過去は不意に顔を出して、私の肌をえぐる。それが深い傷にならないようにするためには、過去を何らかの形で自分の中に位置づけをしないといけないらしい。私はいつまでも自分の不安定さを大事にしすぎている。過去に肌をえぐられることを望んでいるふしがある(くだらないな、ほんまに!)。他者を許し、自分を容認し、状況を容認していくことで、安定した人間になれないのだと思う。私の場合、文章化することで、そういう受容を行うことができる。過去に対して不誠実なのかもしれないけれど。

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2010年8月 7日 (土)

ひょっとしたら私botかも(その1) -中二病であることは、よく知ってるけど-

(注意)定期的に書きたくなる、自意識こじらしているキモイ日記です。
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 中二病 というネットスラングがある。中二病とは、思春期の少年少女にありがちな自意識過剰やコンプレックスから発する一部の言動傾向を小児病とからめ揶揄した俗語(引用元:Wikipedia)。私は、なんともう34歳になってしまったにも関わらず、この中二病をこじらせたままなんだ。

 私がかかった中二病は、自分はロボットに違いないという妄想*。私は高度なプログラムがなされていない低級のロボットだから、うまく環境に適応できないし、臨機応変の対応が苦手。ロボットなので、嫌な物を見ても不快に感じることもないし、楽しくも思わないし、寂しくも思わないし、心を動かすことはないっていう、大変やばくて、暗くて、気持ちの悪い妄想だ。

 その妄想は、高校に入った頃から囚われなくなったのだけど、今でも、時折、自分はロボット(bot)なんじゃないかっていう妄想が顔を出すことがある。ほんまに キモイ☆ ですね(笑) 

 例えば、私がここに書いている文章は、本当に自分の固有の言葉なのか? どこかで見かけた言葉、文章、そういう既にinputされた情報を適当に組み替えて、反射的にoutputしているだけなんじゃないかと思う時がある。自分の文章を書いているつもりだけど、誰かのコピペとそれほど変わらないのではないのか。

 chatを初めてやった時、「わかぬ」さんという見知らぬ人がそこにいた。とても気さくで、時折無礼で、反応がとても早かった。この人はいったい誰なんなんですか?と、chatの中にいる人に聞いたら、「人工無能だよ」と教えてくれた。わかぬは、書かれた言葉とデータベースをマッチングさせて、応答を返すだけの存在で、しばらく会話をしていたら、人間じゃないことはすぐ分かるのだが、初めて見た時は、人らしく感じた。暇な人が、「わかぬ」と会話しているのを何度も見たことがある。この「わかぬ」と私のコミュニケーション力に、あんまり差はない感じがした。私の方が、ほんのちょっと込み入った話ができるという程度だ。

 ちょっと古い記事だけど、twitterでずっと仲良くしていた人がbotだったというのもある。文字だけでやりとりしていると、そういうことってあるかもなぁと思った。会話って多くの場合、自分が望んでいる答えを返してもらいたいもののように思う。人が期待していない答えを返すと、「空気読め、ばか」みたいな反応を受けたりする。そういう意味では、botの方が、ちゃんとデータベースを作りさえすれば、人が望むような答えを確実に返せる。

そして、星野しずるの短歌。

手ざわりの眠りを捨てて君だけのかなしい傷を見た朝に日々
草原の女王になった臨月のつめたい傷を待っている街
過ちが広がる恋のともしびは給水塔の大地に託す
ゆりかごを飛び越えてゆけ 臨月の世界の風になったたましい
恋人を愛し続けるさかさまの話の午後でさえも嘘つき
星野しずる

 私は短歌のことはよくわからないが、星野しずる**の作る短歌には、時折心を動かされる。一首目の「手触りの眠りを捨てて」で、触感のある妙にリアリティのある夢を思い出したりとか。星野しずるは、第七回枡野浩一短歌賞を受賞した短歌自動生成スクリプト。これを見た時、私なんかが綴る言葉になんかまるで価値がないんじゃないかとがっかりした。私の方が、語彙が表現力が貧弱で、低レベルのbotじゃないかと。

 とかいう思いを日々抱きながら、とめどなく溢れる文章を綴り続けている。botよりも拙い文章しか書きませんが、読んでくれている方々、ありがとうございます。

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* 中二の頃に、私が妄想に囚われた理由など。

 私が通っていた中学校は、私達が入学する前まで校内暴力がひどくて、ヤンキーの巣窟だった。私が入学したころは、校内暴力はおさまったが、代わりに学級崩壊といじめがひどかった(唯一学級崩壊していない時間は体育だけだった。体育は、体罰を平気でふるう先生が授業時間を支配していた)。学級崩壊にもいじめにも加わりたくなかった私は、クラスメイトと話をするのを断った。自分から断ったつもりだったけれど、1週間もすると、クラスメイトの輪にうまく加われなくなってしまった。

 クラスメイトと口をきかないのは、なかなかキツかった。目にみえるもの、耳から入る情報に対して反応を示さずに、自分を空気みたいな存在にするということだから。といっても、空気になりきれなくて、自分は今ココに存在して、実在している。ということで、自分はロボットに違いないという妄想を作り出したわけだ。当時は、星新一とか新井素子とかSFっぽいものを熱心に読んでいたので、もろ影響を受けている。ほんまの妄想と違って、これは自分が作った設定で、ほんまは自分はロボットなわけはないって分かってもいたんだけど。

 環境にうまく適応できていなかった。でも、あの環境にうまく適応できちゃっていた同級生も心に傷を残していることだろうと思う。みんな、学級崩壊もいじめも辛かったよね? している方もされている方も。ほんまはあんなことしたくなかったよね? 思い出すとキリキリ胃が痛むよね? 夢に見て、嫌な汗をかいて起きたりしない? 何であんなことしてたんだろう? そして、私を含め、どうして誰も、あの状況を壊すことできなかったんだろう? 娘が同じ状況に陥った時に、彼女はどうするんだろう? 母として何かできることはあるんだろうか?

 自分がロボットだったという妄想は、私の最大の黒歴史(他にもいろいろあるけれども!)。自分でもキモすぎるのは分かっているので、あんまり人に話したことがない、っていうかオットにも話したことがない。それなのに、world wideに書いちゃう自分がまたキモすぎですね☆ミ でも、キモイところも含めて自分を愛しているし、周りの人に受け入れて欲しいのよ、とか、ほんまにキモイことばっかり書きたくなる。ほんまキモイお母さんでごめんなさい(オカンに大事なのは開き直りや!)。

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**星野しずるの作者が、以下のようなことを書いていて興味深い。

人間ではつくれないような新鮮な暗喩をつかったり、時には逆に、まるで人間がつくったかのような深淵な意味が読み取れてしまう短歌も出てきます。まずはそのおもしろさを楽しんでほしいですね。その上で、人間の持つ「理解しようとしてしまう力」の潜在的な高さについて驚いたり、読み手依存型の創作の怖さに気づいたり、創造性がほんとうに発揮されねばならない場所とはどこなのか再考したりしていただければ幸いです。

何かを解釈する、意味付けする、そういうことは自動生成scriptにはできない。ということは、解釈や意義付けに人間らしさが含んでいるということか。短歌だけではなくて、過ぎさる日々に何らかの意義付けをしないと、人間らしく生きていることにならないのか? 

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※ 「ひょっとしたら私botかも」というキモイお題で、今回を含めて4回ほど書きます。あぁ、どんどん、ゆるふわ愛されキャラから遠ざかっていくわ。って、わざとですけどね。

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