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2010年12月

2010年12月31日 (金)

バイクはブロロロロロ、電車はがたんごとん

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 昨年に引き続いて、今年最後のblog記事も娘のことなど。 

 当たり前のことなのだけど、私は娘のことが好きだ。私に似て内向的なところもあるけれど、顔も言動もオットにそっくりで、調子乗りでおしゃべり。人見知りもするけれど、30分くらいして場の雰囲気をつかめば、自分のペースで動いたり喋ったりする。

 ああ、それなのに。それなのに。運動神経は私に似て鈍いんだ。私はびっくりするぐらい運動神経が悪い。運動が嫌いっていうわけではなくて、体をどう動かせばよいのかよくわからないんだ。走り方が分からない。人が動いているのを真似することができない。娘は、歩くよりも、跳ねたり踊っていることのほうが多いのに、足が遅いなんてね。時折、気持ちに身体が付いて行っていない。かわいそうだけど、仕方がないから、母と一緒に走る練習をしよう。

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 娘は、私のお腹にいる金魚ちゃんに対する態度がまだ揺れている。でも、少しずつ受け入れつつあるようだ。

 少し前まで、娘にとって金魚ちゃんは自分を脅かす存在でしかなかった。「生まれなくてもいい」「おかあさんがとられるから嫌だ」とさんざん言っていたので、家では赤ちゃんの話をしないように気をつけていた。だが、妊娠5カ月目の検診の際、私と一緒に娘は診察室に入れてもらい、看護婦さんに教えてもらいながら胎児のエコーの映像をみたら、急に態度が変わった。エコーを見ながら、「かわいい」「生まれるのが楽しみ」と言い出したのだ。白黒の映像で、黒い影のような胎児は大してかわいいものではない。でも、リアルタイムに動いているのを見ることができたのがよかったようだ。大人でも、具体性がないものは、リスクを大きく捉えがちだから、気持ちはよくわかる。

 その日以来、時折、娘は私のお腹に耳をあてて、じっと耳をすます。まだ妊娠中期なので、胎動はそれほど明確に感じられるわけでもないのだけれど。先日も夕飯後に、娘は私のお腹に耳を当てながら「金魚ちゃんがなんか言ってる」と嬉しそうに言っていた。でも、申し訳ない。それは、ただ単に、私の胃袋が夕飯を消化している音なんだ。娘が真剣な顔をしているので、私は「そうだね」と頷きながら娘の髪を撫でた。もう少しして、胎動の音がもっとはっきりと聞けるようになると、楽しみが増えるね、きっと。

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 日々、娘の語彙は増えつつある。娘の使う言葉は面白いように思う。どこで覚えてくるのかがよくわからない言葉も多い。以下、娘の言葉の例(もっといろいろあったのだけれども忘れてしまった。残念><)。

  •  「私な、自転車めっちゃ早くこげるねん。向こう見ずだから」(自転車で暴走するのは危ないのでやめて欲しい><)
  • 「お腹の金魚ちゃんにいろんなことを教えてあげたい。ブロロロロロといっているのがバイクで、がたんごとんいってるのが電車。生まれて来た時に役立つように」。擬音語の響きが面白くて、私も口の中でブロロロロロ、がたんごとんと言葉を転がした。
  • ブランコの柵で遊んでいて、落ちて顎に怪我をした次の日。「あの雲みたいに目の前が見えにくくなるのってなんだっけ?」と娘が聞いてきた。私が「霧?」と答えると、「私の目の前はいつも霧がかかっているみたいに先が見えないから、失敗ばかりするねん」と言う。その霧という比喩、必要か?娘が悲しそうに言っているのに、私とオットは笑ってしまった。

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 7年前、私に子どもが育てられるのか不安で不安で仕方がなかった。今だって、私は良いお母さんじゃない時がある。でも、今のところ、娘はぼちぼちかわいく育ちつつある。本当にありがたい。

 来年は家族も増えるし、奈良に引っ越しもするし、娘は小学校に上がるしで、大きな変化ばかりで、「そんな装備で大丈夫か?」って思うけれど、「大丈夫だ、問題ない」って感じでがんばる!!!ていうか。大丈夫じゃないとしても。踊るしかないんだよ。踊り続けるしか道はない。悲壮感漂わせずに、少しでも楽しそうに踊ることができればいいんだよ。

 ということで、これが今年最後の記事です。1年間ありがとうございました。blogは、不定期ながらも、ぼちぼちと続けていきますので、来年もよろしくお願いします。

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写真:スイミングスクールの記録会で銅メダルをもらった娘。テレビで見たのを真似して、メダルかじってる。

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2010年12月30日 (木)

縦に縦に伸びる街 -香港旅行記-

 今年の6月に学会で行った香港の旅行記。下書きに入れっぱなしにしていたのだけど、さすがに旅行記を来年に持ち越すのは気がひけるので、年末にあわただしく書きました><(常に20件以上の書きかけの記事があるんです)

○香港は思いのほか近い

 香港には関西国際空港から旅だった。関空、大阪市内からは遠くて不便だけど、好きな場所だ。どこか遠くにいく出口として、ふさわしい場所だと思う。ふわふわと浮き足立つような非日常感がある。今もこの埋め立て地は、不等沈下し続けている。

 飛行機に4時間程乗ったら、あっという間に香港に着いた。旅行前の浮足立つような感じのまま、ついてしまった。香港の入国手続きは驚く程簡単だった。なんと、一言も発しなかったのだよ。口の中で用意していた英語は飲みこんでしまった。

○町を眺めるにはバスとトラムが楽しい

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 バスの研究しているせいもあるけれど、初めてきた町をバスで移動するのが好きだ。窓からゆっくりと流れていく景色が好きだ。行き先はバスに委ねて、受動的な態度で町を眺めることができる。鉄道と違って、あちこち曲がりながら進んでいくのも楽しい。

 香港島を走るトラムはかわいい。2階建てで、おもちゃみたいに見える。ひょろひょろーって、町中をゆっくり進んでいる。

 香港MTRの地下鉄は、近畿車輛 とか日本の技術が入っているらしい(日本の車両ほどきれいに洗車されていないと、学会会場で知り合った人が言っていた)。 ICカードのオクトパスカードは、ソニーの技術。香港と台湾は似たシステムが入っているらしいとか。

 香港は、自動車交通量も多いし、公共交通機関も人がいっぱい。みんなどうしてそんなに移動しているんだろう?

○なぜか出前一丁を食べた

 ご飯はほとんど学会会場で食べたのだけど。1回だけ、町の定食屋さんに入った。観光客が来ないような店なので、メニューには英語表記がない。そこで、頼んだ汁そばの麺は、どうみてもインスタント麺。縮れている見 慣れた麺。お汁も具の牛肉もちゃんと中華っぽくておいしいのに。メニューをよく見ると「出前一丁」って書いてある。社会人Dの方と二人で「何で私達は香港 まできて二人で出前一丁を食べているのか?」と言いながらも、おいしく食べた。

○100万ドルの夜景

 学会終了後に、会場の近くからスターフェリーに乗って九龍まで行ってみた。香港島と九龍とはフェリーで5分ぐらいしか離れていない。フェリーは適度に揺れるのが楽しい。フェリーから見る香港のビル群もまた楽し。 

 香港では毎日夜8時からシンフォニーオブライツという光と音のショーをやっている。スターフェリーの中から見たのだけれど。ええと、私が見たときは、小雨が降っていたせいか、ぼやーっとしか見えなかった。緑色のレーザーは視認性がよかったが。

 神戸とかの夜景とは規模が違う。見渡す限り続くビル群。シンフォニーオブライツでは、44のビルがレーザーやサーチライトを空に向けて放っているそうな。あのライトアップは、それぞれのビルのオーナーが自主的にやっているのかな?すごいな。日本で取り組むのは難しそうって思ってしまった。

○恋する惑星の金城武に会いたかった

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 重慶大厦に行った。恋する惑星で金城武に恋した私*は、香港に来たからには、重慶大厦に行かなきゃいけなかった。でも、1階を1周まわったところで、連れの女性に「怖いから出よう」と言われて、そこでおしまい。重慶大厦では、両替だけした(ホテルや空港よりもレートがかなりよかった)。危ないことは何もなかったけれど、中では何となく写真を撮るのが憚れた。ご飯やさんがあったり、何を売っているかわからない雑貨屋があったりいろいろ。

 女人街と呼ばれる通りで、お土産をいくつか購入。道の真ん中に、テントがずらっと並んでいて、怪しげなものがたくさん売っている。「ニセモノ売っているよ」って声をかけられるんだけど、そんな初めから偽物として売るっていいの? ニセモノって分かっていながら買うと、罪になるんじゃなかったっけ?

 屋台の値段は、あってないようなもの。80HK$だったTシャツが、同行していた方の交渉により、2枚で100HK$になった。ガイドブックを見ると、言い値の半額以下で買うのが普通のよう。私みたいなコミュニケーション力低めの人間は、ついつい言い値で買っちゃう。日本で買うより格段に安いし。

 子どもに鉛筆と消しゴム、オットにブルースリーのTシャツ、職場の人たちにアロマキャンドル、自分に手作 りモビール(以上、女人街にて)。マンゴーゼリーとライチゼリーを大学に。友人達に錦上添花(緑茶を牡丹型に束ねたお茶。お湯を注ぐと菊の花が現れ る)と、たくさん買ってしまった。子どもにチャイナドレスを買うか、かなり迷ったが着せていく場所がないので、やめた。

○イギリスの影響があちこちに

 香港の地名は、多分イギリスの地名をそのまま持ってきたのに漢字を当てはめている。Cameron Rd.金馬倫道とか、Kimberley Rd.金巴利道とか、Justice Rd.正義道とか、Kennedy Rd.堅尼地道とか。音と意味を合わせようとする努力が垣間見える気がして面白い。

 他にもいろんなところでイギリスの影響がある。町中を走る2階建バスもそうだ。建物の階数の数え方もそう。1階はグランドフロアで、日本で2階にあたる部分がファーストフロア。他にも、elevatorじゃなくて liftとか、イギリス英語が使われている(elevatorもliftも上げるという意味しかないけれど、日本語の昇降機には上げ 下げ両方の意味がふくまれていて、なかなか良いと思う)

○縦に縦にのびる

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 香港の建築基準ってどうなっているんだろう。日本の建築基準にも、さして詳しいわけでもないが。建築限界とか、建蔽率とか、容積率とかそういうのと、無関係に見える建物が多い。敷地いっぱいに建っているし、看板が道路にはみ出しまくり(1車線分ぐらい出ている)。新しい建物は、空高くのびている。

○旅の終わり

 こんな感じで、香港を薄く薄く眺めて、3泊4日の旅は終了。ほとんど学会会場にいたしね。 香港は猥雑という言葉がよう似合う。表面だけ取り繕っているので、綻びがあちこちから見えるような気がする。

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*「恋する惑星」を見ると、誰もが金城武に恋をする。別れた恋人のことを思ってパイナップル缶を不毛に食べ続けている金城武に、画面を隔てたこちら側で私たちは不毛な恋に落ちる。Do you like pineapple?

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2010年12月18日 (土)

ささやかな物語を他者と共有する

 以前、「モノより思い出」という車のCMのコピーがあったが、私は大嫌いだ。なぜなら私はモノに執着しまくるし、そのモノにまつわるエピソードが大好きだからだ。これはこうゆう由来があって、こういう使われ方をしていて、こういう思いで買って、こういう思いで使い続けているとか、そういう所有者以外にとってはどうでもいいようなことを、思い入れたっぷりに語りたい。モノは思い出を喚起するために私にとって必要なものだ。

 職場の方からエクスチェンジというお洋服交換会のお話を聞いた。いらない洋服を持ってきて、欲しい人が持って帰る。いらなくなった服に、どういう経緯のものなのかを書いたタグを付けるんだとか。そのタグ付けがあることで、もらった人は、元の持ち主の思い出に、思いを馳せることができる。リサイクルだけではなくて、見知らぬ人同士がささやかな物語を共有する仕組みなんだそうな。

 似たような話をかなり前に探偵ナイトスクープでみた。お古でもらったベビーバスに、それを使った子どもの名前がたくさん書いてあった。名前を辿って、ベビーバスを共有した子ども達に会いに行くいう内容。一代前は知り合いでも、二代前は見知らぬ人だったりして、細い細い繋がりがわかって面白かった。

 昔であれば、同じ地域に住んでいる、あるいは親戚というだけで、否が応でも同じ物語を共有させられた。今はコミュニティの強制力が減ったせいで、誰とも物語を共有できていない。今、人を集めようとする時、いろんな人の間で共有できるささやかな物語を提示できるかどうかが鍵なんだと思う。

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 地域活性化もコミュニティ再生もお題目としてはとても大事だと思う。でも、それは、あまりにも大きすぎる。地域に住んでいる一人ひとりの生活とのつながりがわかりにくい。そういうことを考えなくても、関わらなくても、普通に生活できるではないかというふうに思う人が多いと思う。

 私が佐用町江川で関わった住民主体型の地域バスの取り組みは、"地域の維持をめざして「身の丈にあった移動手段」を住民で確保するという物語"を地域みんなで共有できるかどうかが、継続するための鍵だと思っている。この物語を共有するためには、「車以外の生活手段を確保することが地域にとって大事なんですよ」、「住民が交通に関わることは公共性を高めるために大事なんですよ」といったお題目だけ唱えていても共有できない。

 まず、運行に至るまで、丁寧なプロセスを踏むこと。地域全体の外出状況や地域バスへの賛否に関するアンケート調査、移動に困っている人たちへのヒアリング調査、20回以上にわたる検討会議、2回の試験運行、ボランティアさんの募集、ボランティアさん同士による意見交換の場。そういうプロセスを有志の方々とともに、一つ一つ丁寧に踏んだ。

 そして、運行後の地域内の便益。隣近所のおじいさん、おばあさんが地域バスがない時には月に1回しかお肉を買いにいけなかったのに今は週に1回はお買い物にいけて便利だと言っている(使用価値の確認)、将来的に車が使えなくなったら地域バス使うかもしれない(オプション価値の確認)といったこと。地域バスの運行に関わる人たちが「利用者に感謝してもらえた」と喜ぶこと(内部の承認)。運行に関わっていない人達にきちんと地域バスに関する情報を知らせること(地域内部の承認)。住民主体型のバスの運行に関する新聞が書かれること、他の地域が視察にくること(地域外部からの承認)。

 こういうささやかな物語がたくさんあって、それぞれが網目のように複雑にからみあうことが、地域の住民同士が大きな物語を共有するためには必要なんだと思う。これらのささやかな物語を、地域内の人達が少しだけ意識しやすいようにするのが、私達みたいな外部の人間ができることだ。

 佐用町江川の地域バスの取り組みは、運行開始までに4年間の歳月がかかっている。その歳月は、傍からみると時間がかかりすぎているし、仕事として取り組めるものではない。研究活動を兼ねたボランティアだからずっと関われた。今となって振り返れば、たくさんのささやかな物語を積み重ねるために必要な時間であったと思う。途中、水害のせいで活動が止まったり、内部で小さな行き違いがいくつかあったり、一筋縄ではいかなかったこともたくさんある。きっとこのバスの運行にまつわるたくさんのささやかな物語は、他のまた新たな大きな物語を共有することに繋がっていくと思う*。

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 今、他者と共有できる物語を上手に提示しているなあと思うのが、一部の新興宗教やエコ活動。熊森の活動なんか、都市のドングリで山のかわいい熊さんを助けるというわかりやすい物語。言葉悪いかもしれないが、あまり物事を深く考えなくて、簡単に善人になりたい人の心に触れる物語だと思う。(※熊森の活動については、私は「ならなしとり」「野生のクマをなんとか助けたいと考える皆さんへ-紺色の人」といった方々の意見に賛同しています。誤読なきよう)

 ”善人”になる物語を誰かと共有しようとするのは、危険だ。というか考えが浅はかだ。どんな物事にも良い面と悪い面があって、一方的に善いことなんかできるわけない。悪い面を引き受ける覚悟と、善悪の判断で揺れる葛藤が必要だろう。そういう覚悟と葛藤を受け入れる覚悟がないと、自分の意図しない偽善や悪意に、自分の好意が勝手に使われることになる。偽善は、場合によっては悪よりたちが悪い。

 他人と共有する物語は、まず、「山場もない」「おちもない」「意味も無い」**というのが安全だと思う。そういう、だからなんなん?って感じのささやかな物語の膨大な蓄積があった上で、初めて、大きな物語を共有するのが良い。そういう物語の重層性がないままに、大きな枠の物語だけを欲するのは虫がよすぎる。

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*自画自賛が過ぎるかもしれないけれど。多分、私が関わった物事の中でもかなりうまくいっていることの一つです。反省点もあるけれど、それは、また別途。

**頭文字をつなげると「やおい」ですけど、一般的にいわれる「やおい」のことじゃないですw。私、森茉莉も栗本薫も読んでいましたが、腐女子じゃないし、その手のことは特別な興味は持っていません、残念ながら。

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2010年12月13日 (月)

土木技術者として卵の側にたちたい

「高くて、固い壁があり、それにぶつかって壊れる卵があるとしたら、私は常に卵側に立つ」ということです。
 そうなんです。その壁がいくら正しく、卵が正しくないとしても、私は卵サイドに立ちます。他の誰かが、何が正しく、正しくないかを決めることになるでしょう。おそらく時や歴史というものが。しかし、もしどのような理由であれ、壁側に立って作品を書く小説家がいたら、その作品にいかなる価値を見い出せるのでしょうか?
エルサレム賞での村上春樹氏のスピーチより)

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(ちょっと書きなぐってるような文章なので、細かいところで事実と反するところ、不正確なところがあると思います)

 私の肩書きは相変わらず曖昧なままだけども。それでも、私は、自分のことを土木技術者だと思っている。私のものの考え方は、土木工学として教えられたものに大きく影響を受けている。

 私の今の職場の一つは、大気汚染訴訟の賠償金の一部をもとに作られた。大気汚染訴訟の原告は、喘息患者達。そして、訴訟相手は、いくつかの企業、道路管理者。原告は、道路管理者との和解の際に、道路の沿道環境の改善とひきかえに多額の賠償金を放棄した。

 沿道環境改善に原告の意見を反映するために、会議が開かれている。この会議は定期的に開かれている。100人近くの原告が傍聴し、道路管理者側も20人以上出席する大きな会議。先日、初めて出席したのだけれども、形骸化している会議に本当にがっかりした。道路管理者側の担当者のやる気のなさ、なおざりな態度に、同じ土木技術者として本当にうんざりしてしまった。

 どうしてこんなことになってしまったのだろう?

 一つは、しくみがないということ。訴訟の和解条項に基づいて開かれている会議とはいえ、道路施策の中で位置づけられているものではない。この会議で出た意見を、道路管理者が施策に反映する義務は何もない。パブリックコメント等と違い、意見に対する返答を公開する義務も無い。

 そして、最大の理由は、土木技術者の姿勢かと。不況の今であっても、最大多数の幸福を目指そうとすると、自動車ユーザの移動円滑を目指した方が効果が高い。非力な少数の人たちの立場にたった施策は全体の幸福にそれほど寄与しないから*。

 たとえば、沿道の環境対策のために、横断歩道を撤去して、自動車交通をスムーズに流すとかいうのが普通に行われてしまう。どうして横断歩道の撤去が、道路沿道環境の改善になるんだろう? どうして歩行者が道路のこちらからあちらにいくだけなのに、いちいち階段を上り下りさせるのを、ベストな選択とすることができるんだろう?

 私は、こういう卵をたたきわるような仕事はしたくない。そんなこと言っているから、いつまでたっても一人前になれていないのかもしれないけど。なんか前に進んでいないのかもしれないけれど、私はいつでも卵の側にたつ仕事がしたい。

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 えっと。公害訴訟について。多くの被害者は、何の罪もないのに、健康被害を受け、普通の生活を粉々にされる。その生活を少しでも取り戻したいという必死の思いのもと、大企業や行政を相手取って訴訟を起こす。一般市民にとって訴訟を起こすというのは困難なことだ。訴訟相手に非があるという証拠を原告側がそろえなければならないが、公害訴訟の場合、原告側は何の力もない一般市民だったりする。そして、訴訟は、時間やお金、労力がかかるだけではなくて、大きな差別を生む。「あの人たちはお金がほしいから、病気のふりをして(あるいは、健康被害を大げさに捉えて)訴訟を起こすのだろう」といった誹謗・中傷だ。

 ひどく嫌な感情だと思うが、誰もが正しい情報や知識を持っているわけではないし、常に正しい判断をできるというわけでもない。私も差別する側に立ちうるだろうし、気がつかないうちに、壁の一部となって、卵を割っているかもしれない。

だから、私は何度でも自分の立ち位置を確認する。壁になってないか、卵を抑圧してないか、何度でも確認する。私は、私ができるやり方で、卵の側にたつ土木技術者でありたい。

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 なんか書いてみたら、浅い。浅すぎる。私の思いってこんな上っ面なものなの? いろんなことをわかってないし、決意が足りていない。でも、こういうことをちゃんと考えていこうと決意表明として、書き留めておく。
* 特に、ここらへんの"何を正義とするのか"ということに関しては、もっとちゃんと勉強したい。

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2010年12月11日 (土)

朝のプラネタリウムの背徳感

 深夜の温泉に忍び込む。私がしていることは、彼に対する裏切りなんだろうか。裏切りというには大げさなような気もする。何も事は起きていない。息をひそめて湯に浸かっていると、様々な思いが去来する。このすべての思いが、雪と共に、春になったら消え去れば楽なのになと思う。

 何を急に馬鹿な事を書き出したのかという感じですね。
 えっと、これは、ここしばらく私がはまっている遊びで、ランダムに提示される「場所/行動/単語」を含んだ140字の恋のお話を考えるというもの(恋愛お題ったー)。
 上の文章は、「深夜の温泉」で登場人物が「裏切る」、「雪」という単語を使ったお話というお題。「深夜の温泉」も「裏切る」も、不倫のような不穏当な妄想しか浮かばない><

 欄干にもたれて水面を眺める。昼の橋の上は人通りが少なく、物思いにふけるのにちょうどいい。先日、彼女が結婚するという噂を聞いた。最後に会った時、彼女は自分から別れ話を切り出したにも関わらず、泣き出した。彼女は泣き顔でさえも美しかった。

 こちらは、「昼の橋」で登場人物が「泣き出す」、「噂」という単語を使ったお話というお題。「泣きだす」も「噂」も悲恋や破局を匂わす単語(;_;)。女の子って自分からひどいことしているのに、泣き出したりしてずるいよね。

 朝のプラネタリウムに、僕達は抱き合って喜んだ。朝のプラネタリウムには背徳感がある。夜が明けて世界は朝の光に満ちているというのに、わざわざ人工的な夜の帳の中に入っていくのだ。彼女は偽物の星を見つめながら、ラーメンを食べたいとつぶやいた。どうして色気のないことをわざわざいうのだろう。

 「朝のプラネタリウム」で登場人物が「抱き合う」、「ラーメン」という単語を使ったお話というお題。
 ラーメンてどう使えばよいのかわからなかった。どんな美女でも、ラーメン食べている姿って鼻白む感じがする。まあ、女の子っていうのは、たまに、ロマンティストの男の子をがっかりさせるようなことをするものだよ。

 朝の遊園地が好きだったのは、昔の恋人だった。朝の光に包まれると遊園地はなおさら幸せな場所になるんだと、隣にいる彼女に話す。昔の恋人に「私以外の人とは来ないで」と言われていたにも関わらず、その約束を破ってしまった。いたるところをアルコール消毒しているような清潔なこの場所で、僕は自分の不純さを思った。

 「朝の遊園地」で登場人物が「約束を破る」、「アルコール」という単語を使ったお話というお題。
 「私以外の人とは来ないで」と約束させるとか、うざい女すなあ(私もそういう心が狭いうざい女だよ!)。「アルコール」の使い方にちょっと悩んだ。朝の遊園地でアルコールを飲むなんて風情がなさすぎる。昨晩のアルコールが残っているというのもなんかうんざりする。ということで、アルコール消毒というちょっとひねった使い方をしてみた。

 私は、小説のように長い物語を書く才能も根気もないが、こういう短いものであればいくらでも考えられる(小説の構成は考えられない。論文を書く時も構成がうまくいかない(;_;))。特に、私は基本的に恋愛の類のお話が大好きなので(飲み会でも他人の恋バナを聞くのが好きだ)、恋バナの捏造は楽しくて仕方がない。恋愛で楽しいのって、全体の物語じゃなくて、こういう一瞬一瞬のささやかなシチュエーションだと思う。恋愛の物語のパターンって、それほど多くないよね。

 限られた単語をもとに恋愛にふさわしいシチュエーションを考えることができると、やった!って思う。何やってんの?暇なの?馬鹿なの?って感じだと思いますけれども、語彙力と妄想力を試す遊びとしてとても楽しいので、よろしかったらやってみてください。

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2010年12月10日 (金)

普通の私、普通の生活、普通の幸せ、普通普通普通の基準

 ある日、子どもが「今度引っ越す家は嫌だ。普通のタワーマンションに引っ越して、みんなにいいな、いいなと言われたい」と不満そうに言った。「人によっていいと思うものは違うから、○○ちゃんが奈良の古家をいいと思えばそれでいいのよ」と言ったけど、あまり納得してもらえなかった。

 そういえば、名作椅子のコレクターでもあった建築家の宮脇檀氏の娘さんが、エッセイで「子供の頃、うちの家は、他の家と違って椅子が揃っていなくて嫌だった」と書いていた。子どもというのは、かなり保守的で、よその家と違うというのを嫌がるものなんだ。実際は、見た目以上に、それぞれの家はかなり多様なはずなんだけど、子どもには見えない。

 子どもって、普通が好き。みーんな持ってるから私も欲しいの世界。世界が狭いから、簡単に普通のものを欲しがることができる。「あの子、普通じゃない」は、子どもの世界では、蔑みの言葉だったりする。

 娘の言った「普通のタワーマンション」という言葉はちょっと衝撃。私にとって、タワーマンションはすごく不自然で、ちっとも普通じゃないんだけどな。今、私達が住んでいるところでは、それが普通なんだ。

 だいたい普通普通普通ってなんやねんな。全部、普通のものをそろえてみてよ。そんなん、普通ちゃうやろ。

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 とかいう私も、子どもの頃から「普通」に見られたいと強く思いながら生きてきた気がする。自分のおかしいところを隠したい、見られたくないと思ってきた。私が本当に普通かどうかなんて、どうでもいい。普通じゃないのは重々承知だ。普通らしく演じることさえできれば、それでいい。そう思っていた。

 オットは私の事を「バランス悪そうでギリギリのところで保っている」と評している。でもね。多分、私みたいにバランス悪くて、どうにかこうにか保っている人も多そうよ。

 誰にも嫌われたくない、誰のことも傷つけたくないって思った瞬間に、誰かに嫌われるのも、傷つけてしまうのも仕方ないと思うのも普通。自分が正しいと強気で批判した瞬間に、偉そうで何もわかっていない自分を消し去りたくなるのも普通。私は、自分の中の基準をいったりきたりしながら、バランスとってる。

 逆に、私がみたいに判断基準がぶれまくる人間からすると、判断基準がぶれない人はちょっとした脅威だったりする。どうしてそんなに一貫性を保てるのか不思議。どうしてそんなに、自分の中の正義を信じることができるのかも不思議。

 判断基準が定まっている人も判断基準がぶれまくる私みたいな人間も普通なんだと思う。ただ、自分の基準が定まっている人の方が、判断基準がぶれている人間を「あなたは普通じゃない」と攻撃しやすいだけ。基準が定まっていない人間は、普通じゃないと指摘されると自分の基準をさらに揺らしちゃうから。でも、見方によっては、基準を揺らさない人間の方が不誠実な時もあるでしょ。

 普通普通普通の私。今日も、普通の私は、自分の中の基準を揺らしながらも、どうにかこうにかぐらぐらと渡っていくのです。それが私の中の普通の生き方なんです。

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