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2010年12月10日 (金)

普通の私、普通の生活、普通の幸せ、普通普通普通の基準

 ある日、子どもが「今度引っ越す家は嫌だ。普通のタワーマンションに引っ越して、みんなにいいな、いいなと言われたい」と不満そうに言った。「人によっていいと思うものは違うから、○○ちゃんが奈良の古家をいいと思えばそれでいいのよ」と言ったけど、あまり納得してもらえなかった。

 そういえば、名作椅子のコレクターでもあった建築家の宮脇檀氏の娘さんが、エッセイで「子供の頃、うちの家は、他の家と違って椅子が揃っていなくて嫌だった」と書いていた。子どもというのは、かなり保守的で、よその家と違うというのを嫌がるものなんだ。実際は、見た目以上に、それぞれの家はかなり多様なはずなんだけど、子どもには見えない。

 子どもって、普通が好き。みーんな持ってるから私も欲しいの世界。世界が狭いから、簡単に普通のものを欲しがることができる。「あの子、普通じゃない」は、子どもの世界では、蔑みの言葉だったりする。

 娘の言った「普通のタワーマンション」という言葉はちょっと衝撃。私にとって、タワーマンションはすごく不自然で、ちっとも普通じゃないんだけどな。今、私達が住んでいるところでは、それが普通なんだ。

 だいたい普通普通普通ってなんやねんな。全部、普通のものをそろえてみてよ。そんなん、普通ちゃうやろ。

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 とかいう私も、子どもの頃から「普通」に見られたいと強く思いながら生きてきた気がする。自分のおかしいところを隠したい、見られたくないと思ってきた。私が本当に普通かどうかなんて、どうでもいい。普通じゃないのは重々承知だ。普通らしく演じることさえできれば、それでいい。そう思っていた。

 オットは私の事を「バランス悪そうでギリギリのところで保っている」と評している。でもね。多分、私みたいにバランス悪くて、どうにかこうにか保っている人も多そうよ。

 誰にも嫌われたくない、誰のことも傷つけたくないって思った瞬間に、誰かに嫌われるのも、傷つけてしまうのも仕方ないと思うのも普通。自分が正しいと強気で批判した瞬間に、偉そうで何もわかっていない自分を消し去りたくなるのも普通。私は、自分の中の基準をいったりきたりしながら、バランスとってる。

 逆に、私がみたいに判断基準がぶれまくる人間からすると、判断基準がぶれない人はちょっとした脅威だったりする。どうしてそんなに一貫性を保てるのか不思議。どうしてそんなに、自分の中の正義を信じることができるのかも不思議。

 判断基準が定まっている人も判断基準がぶれまくる私みたいな人間も普通なんだと思う。ただ、自分の基準が定まっている人の方が、判断基準がぶれている人間を「あなたは普通じゃない」と攻撃しやすいだけ。基準が定まっていない人間は、普通じゃないと指摘されると自分の基準をさらに揺らしちゃうから。でも、見方によっては、基準を揺らさない人間の方が不誠実な時もあるでしょ。

 普通普通普通の私。今日も、普通の私は、自分の中の基準を揺らしながらも、どうにかこうにかぐらぐらと渡っていくのです。それが私の中の普通の生き方なんです。

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