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2011年2月

2011年2月25日 (金)

本は自分で選ぶものだと、母が言った

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 私は、現実に対応する力が不足している。気がつくとぼーっとしている。妄想の世界に逃げ込みたくなっている。物語の世界に浸り切って、ずっと傍観者でいられたらいいのにって思う。

 でも、自分の想像力が貧困なのもよく知っている。おそらく、自分の思い通りになった世界って、ものすごく陳腐で生きる価値がないだろう。だから、思い通りにならない日々を、どうにかこうにか当事者として楽しんで過ごそうと思う。

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 母が教えてくれたことの中で一番ありがたかったのは、本を読む習慣。本を読みなさいと言われた覚えはない。ただ、図書館への行き方、本の借り方、図書館では静かにすることだけを教えてもらった。親の本棚を探っていて、怒られたこともない。どの本を読むとよいとか、この本が面白いとか、お母さんはこの本が好き、とかそういうことを言われたこともない。

 ある時、姉が母に「○○(甥)の国語の勉強の成績が悪い。変な本ばかり読む。いろいろと面白いよと薦めているのに」と愚痴を言ったら、母は笑いながらこんなことを言ったらしい。

「本というものは自分で選ぶものであって、人に薦められて読むものじゃないでしょ」

 母がいいそうなことだ。私も、勉強のためにって太宰治とかドフトエフスキーとか渡されてたら、絶対に読まなかった。私にとってその手の本は、親の本棚からそっと借りて、少し背徳感を感じながら読むものだった。

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 最近、娘は一人で本を読むようになった。保育所でも、時折、部屋の隅っこで集中して本を読んでいるらしい。娘が本を読んでいる時に話しかけても、ろくに返事をしない。ひどい時はトイレに行くのも我慢して、キリがいいところまで読むと、走ってトイレに駆け込んでいる。

 協調性の無さ等が少し気にかかるところではあるが、娘のような他人にペースを乱されるのが大嫌いな人間にとって、本を読む習慣があるというのは幸せなことだろうと思う。自分のペースでできるし、空想の余地が多いし、どこでもできるし、何より静か。他人を待つのが苦にならないし。このまま、読書好きに育つといいと思う。本はいつでも望んだ時に友達になってくれるし、裏切らないから。いつでも手軽に逃げ込めるものを持っておくということは、心強いことだ

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 ここ数年、cocologのリスト機能を使っていたのだけれども、あまりに使い勝手が悪いので、少し前から読書メーターとブクログを使い始めた。

 読書メーターは、絵本であろうが漫画であろうが仕事で読んだ本であろうが、とりあえず読んだ本すべてを登録している(見直したら、最近、漫画ばっかり読んでるなぁ。ちゃんと本を読め、私)。ブクログは、引用ができるのと少し長い文章が書ける。ちょっと長めの感想やメモを書きたい時などに活用しようかと思っているけれど、まだあんまり書いていない。

 読書メーター:http://book.akahoshitakuya.com/u/76865

 ブクログ:http://booklog.jp/users/t80935
 感想/メモはこちら→環境の政治経済学(除本 理史,上園 昌武,大島 堅一著)コララインとボタンの魔女(DVD)ジョゼと虎と魚たち(DVD)ショートカット(柴崎 友香著)

 本の感想などを書きだして思ったのは、ただの愛好者でよかったってこと。物語の世界に浸るのはとても楽しいことだけど、自分の感受性の低さとか、受け止めたものを表現する能力の低さとかにうんざりしてきた。子どもの頃は、小説家などの本を執筆する仕事につきたかったんだけどな。(比べるのもおかしいかもしれないが、「未映子の純粋悲性批判: 大島弓子を読めないで今まで生きてきた」を読んで、ちょっとショックを受けた。最近、バナナブレッドのプディングを読んで、川上未映子さんの感想に強く共感したのだけど、こんなに読ませる文章を書くことはできない。すごいなあって、ただただ指を加えて感心するのがちょうどよいと思ったのですよ)

■写真:最近の娘の就寝時の友だち。魔女の宅急便は、私にとっても大事な友だち。親元を離れて暮らすことの心細さ、自分の居場所をどうやって作るのか、自分のやりたいこととできることの折り合いをどうつけるのかといったことに、自分のことをついつい重ねてしまう。

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2011年2月19日 (土)

文字を残す 忘れぬように 忘れてもいいように

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■写真:娘が書いた初めての物語。1枚目「まほうのともちゃん。ぼくまほうつかい」。2枚目「ぼく いま ほうきのってる」連載はいきなり二回で終了。

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 娘は、少し前まで文字のない世界に生きていた。そのせいか、文字を読むこと、書くことが楽しくて仕方がないらしい。

 子どもは形を丸暗記する能力に長けているので、読むのはあっという間にできるようになった。でも、子どもに文字を教えるのは難しい。ひらがなは生活の中にありふれているので、読みを覚えるのは難しくないのだけれど、書くのが難しい。「あ」とか「む」とか。カタカナは読みを覚えるのには時間がかかるのだけれど、直線が多いので書くのは簡単みたい。漢字は象形文字なので、形そのものに意味があるが、ひらがなやかたかなには形自体に特に意味がない。そのため、丸暗記するしかない。

 最近、娘は漢字を類推して読むようになってきた。例えば、先日は「千葉」の文字を見て、「せんり」と読んでた。借りぐらしのアリエッティは「ひとりぐらしのアリエッティ」と読んでいた。両方とも間違っているんだけど、知っている言葉をあてはめて、自分なりに世界を理解しようとしていることだと思って、母は感動したよ(親バカですみませぬ)。

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 文字を覚えてしまうと、もう文字がない世界には戻れない。子どもが文字を覚えるというのは大きな成長ではあるのだけれども、世界の認識の仕方は大きく変わってしまったように思う。

 おそらく、今以上に、言葉に感情がひきずられてしまうことになるだろう。子どもの保育所のお友達の間で、お手紙ごっこが流行っていた。そのやりとり自体はとても他愛もない可愛らしいものではあるのだけれど、場合によっては文字で書かれているがために傷ついたりすることもあるだろう。例えば、「すき」という言葉は、声だけしか伝達手段がないのであれば、その場に一緒にいることが必須であるし、音はその場で一瞬で消えてしまうので徐々に記憶も薄れて行く。でも、文字はそうじゃない。いつまでもそこに残ってしまう。たぶん、文字を見直すことで安心することもあるだろうけれど、文字に囚われてしまうこともあると思う。

 成長っていうのは不可逆なものなんだなって、たびたび感じる。知ってしまったら、もう知らない世界には戻れない。もちろん、いろんなことを知ることで、世界はどんどん広がって行く。できることが増えるし、将来できるかもしれないことの可能性も高くなる。よく分かっているよ。でも、私は感傷的な人間なので、ついついなかった世界というのを懐かしんでしまう。

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■ 漢字と日本人 (文春新書) 高島 俊男 (著)

 かなり昔に読んだ本なのだけど、日本語と漢字の関係について、わかりやすく書いてあり、大変面白かったので紹介。

日本人は文脈から瞬時に判断する。無意識のうちに該当する漢字を思い浮かべながら…。あたりまえのようでいて、これはじつは奇妙なことなのだ。本来、言語の実体は音声である。しかるに日本語では文字が言語の実体であり、漢字に結びつけないと意味が確定しない。では、なぜこのような顛倒が生じたのか?漢字と日本語の歴史をたどりながら、その謎を解きあかす。(Amazon の内容紹介より)

 娘は、今はほとんど仮名だけの世界に生きているが、さらに漢字を覚えると、文字への依存度は高くなるだろうなあ。昔は、「文字を知っている」ということは、「学がある」と同じような意味を持っていたらしいよ。今の「生きる力」とか「新しい学力」とかに比べると、なんとシンプルな評価基準なんだろうね!

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2011年2月11日 (金)

結婚前は、お母さんになってほしいとオットにお願いしていた

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幸福な家庭はすべてよく似よったものであるが、不幸な家庭はみなそれぞれに不幸である。「アンナ・カレーニナ」トルストイ 

 有名な、あまりにも有名な「アンナ・カレーニナ」の書き出し。「アンナ・カレーニナ」は、とても魅力的な女性がその身を破滅させるまでを書いた物語であるが、それと同時に、家族にまつわる物語である。この書き出しは、そのことを如実に語る印象に残る名文だと思う。

 偉大なるトルストイに異を唱えても仕方がないとは思うのだけど、結婚して9年目の小さき私は、次のようなことを思っている。

幸福な家庭なんてものはない。すべての家庭は、幸せでもあり不幸せでもある。多くの幸せは簡単に不幸せに繋がるし、多くの不幸せは幸せに繋がる可能性を持っている。(t80935) 

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 先日、大島弓子*の「ダイエット」という短編漫画を読んだ。機能不全家庭で育った福ちゃんという女の子が自己承認ができなくて、過食と拒食を繰り返す話。とても痛々しいエピソードばかりなのに、静かに淡々と描かれている。

 福ちゃんは、たくさん食べちゃう理由を次のように言っている。

食べるとそしゃく運動が脳の記憶中枢を刺激して昔のことをどんどんおもいだすのよね(中略)
いろんな昔のことを馬鈴薯ほりみたくゴロゴロ意識上に掘り起こすの
そしてそれらをまるで昨日の出来事のように新鮮な馬鈴薯にみがきあげてしまうわけよ
それで安心してあたしはまた馬鈴薯をひとつひとつていねいに箱につめて意識の奥深く埋めるわけ
くだらないといえばくだらないけど
それらの作業が完了するころには満腹になりあごも疲れて記憶中枢ももうろうとして
あとはニルバーナの世界よね
なにもかもから解放されて宇宙のチリとなってただようの
これが快感のシステム

 私は、福ちゃんみたいに極端な過食も拒食もしたことはないが、上記の過去の記憶を引っ張り出して埋めるという感覚はよくわかる。私も、違うやり方で、わけのわからんことをして逃避している。このわけのわからん行動、自分だけのことならばいいのだけれど、大概の場合、周りを巻き込んで迷惑をかけてしまう。

 「ダイエット」では、最後に擬似家族を得ることで、自己承認に向けた解決の可能性を示唆しているともいえるのだけど、すごく難しいと思った。

 私は、結婚前に、オットにお母さんになってほしいとお願いしていた(うぅっ、きもいすなあ)。だけど、現実には私がお母さんにならないといけなかった。結局のところ、自分のことは自分で認めないといけなかったりするわけよ。「大丈夫、大丈夫、私はお母さんだし、お母さんがここにいるから大丈夫だよー」って、自分にも、子どもにも、時にはオットにも言い聞かせないと、家族がまわっていかない。誰かにお母さんをお願いすることはもうできない。

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 私は、ずっと自分の家族が欲しかった。自分の子どもが欲しかった。

 オットと二人でも家族ではあるのだけれど、私達二人を繋ぐ子どもがいないと家族になれない気がしていた。子どもを持たない人生というのがうまく想像できなかった。私と強い繋がりを持つ人間が欲しかった。オットの血を残したいとかオットの家を継ぐ人とかそういうことは、ほとんど考えなかった(結果的に、オットの家族・親戚たちは私達の子どもの誕生をすごく喜んでくれた)。

 人と繋がりを持ち続けるというのは、ある程度の強制力がないと難しい気がしている。緩くて細い繋がりというのも大事なんだけど、ある程度人の自由を制限するような繋がりじゃないと持続できない。お互いに持ちつ持たれつという何か共有のものが必要なんだ。そして、そういう繋がりを求めると、家族というかたちが一番やりやすい気がする。喜びや悲しみ、怒り、楽しみ、恥じらい、損得といったいろんな感情を、血だとか生活だとか年月だとか制度とかに混ぜこぜにすることができるから。

 人の大きなストレス要因は「仕事と家族」というのを、何かで読んだ。でも、それ以上に、人を追い詰めるのも「仕事と家族の欠如」なんだと。将来的に子どもは離れていくものではあるけれど、子どもがいれば私は自分の家族を得られると思った。自分の能力に見合わない過大な望みであったかもしれないけれど。

 子どもを一人じゃなくて複数人欲しかったのも、おなじような理由。子どもには、私達以外にも強い結び付きを持つ人間がいた方がよいと思ったから。大人になるまでの長い時間、いろんな経験や思いを共有できる年の近い人間が身近にいることは、子ども達に大きな安らぎを与えてくれることだろうと思う。大人になった時、その共有した時間を大事に思うだろう。そして、私達夫婦が年老いてこの世からいなくなった時、姉妹(弟)がお互いのことを少しずつ思いやって人生をおくることができるとよいと思う。

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 娘が月齢の頃は充足感に溢れていた。でも、その一方で、時折、私はこの子にとって、「ご飯」かつ「精神安定装置」なんだなあと不思議な気持ちでいっぱいになった。あの頃ほど、自分が他の生命に関わっていると思ったことはない。オットが出張で2週間ほど家をあけていた時期があるのだが、私が突然死したらこの子は死んでしまうのだなあと、ぼんやり思って恐ろしくなったりしていた。娘が初めて離乳食のお粥を食べて、授乳せずに眠りに落ちた時、私はこの子にとってもう必需品じゃないんだと、少しだけ寂しく思った。

 娘はもう6歳になって独自の世界を持ち始め、病気の時以外は私をあまりソクバクしなくなってきた。でも、もうすぐ小さい人が新たに私のお腹の中から産まれて、私はまたソクバクされる生活に戻るだろう。

 ソクバクされるというのは激しく必要とされるということでもある。このソクバクがない人生も私は選べたはずだけど、あえて自分で選んだ。ソクバクは私に安心感を与えてもいる。この自分の選択を受け入れて、私は、私の家族のお母さん業を全うしよう。

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■大島弓子について。
 どうして、私は今まで大島弓子と全く関わらずに暮らしてこれたんだろう?この年になるまで、名前も知らなかったのだよ。「花の24年組」という言葉は知っていて、萩尾望都、竹宮惠子あたりは読んだこともあるのに。ちょっとずつ読み進めている。

■参考
 磯野 理香:大島弓子少女マンガ論「ダイエット」に描かれたアダルト・チルドレン、梅花児童文学 10, 135-149, 2002-07-30 [CiNii]
 Ryota Sakanaka:none; 大島弓子「ダイエット」について(vol.1, vol.2, vol.3, vol.4) ※ネタバレありなので、未読の方にはおすすめしません><

■写真:立春の空。立春らしい暖かい日だと思って、ふと空を見上げたら、きれいなペールブルーだった。こういうきれいな青を見ていると、十五に戻って心が吸い込まれてしまえばいいと思う。

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