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2011年7月

2011年7月 2日 (土)

子どもから見える世界

 上の娘はもうすぐ7歳になる。気持ちの上がり下がりが大きくて、調子のりで、とても子どもらしい子どもだと思う。私はその言動に、少しびっくりする。歌ったり、跳んだり、踊ったり、ポエムなことを言ったり。とてもかわいいと思う。元々の性質もあると思うが、私たち親がそれを喜ぶのであえてしている面もあるかもしれない。

 娘に「これ、やってみる?」と聞くと、だいたいのことに取りかかりたいと返事をする(取り組んでみて、すぐ飽きて嫌になるということも多いけれど)。娘はこの世の様々なことを知りたがるし、新しい物事の多くは取り組むと楽しいと考えているようだ。

娘は近所でお気に入りの場所が二つあるという。一つは、佐保川の流れを坐ってみることができる場所。もう一つは、生駒山に夕陽が沈むのを見ることができる路地。それを聞いて、娘には、この世界は美しく楽しいものに見えているのだなと感じた。

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 子どもから見える世界を美しくするのも楽しくするのも、大人の役割だと思う。この世の中には、汚いもの、うんざりするもの、おぞましいものがたくさん蠢いているが、それをあえて子どもに見せつける必要はないと思う。

 人というのは無数の情報の中からいくばくかの情報を選択する。意識的にする場合もあるだろうし、無意識でする場合もある。特に、子どもが触れることのできる情報は限られていて、その限られた情報から、子どもなりの世界観を作り出す。私は、できれば、子どもはこの世界は生きるに値するものだというポジティブな世界観を持ってほしいと思う。そのため、子どもの前では話さないこと、誤魔化すことが多々ある。

 私が子どもの頃も、多分、大人はたくさんの物事を隠していた。それでも、少し大きくなると、大人が匂わせる秘密の断片にいろいろな類推をした。それに傷ついたり、背筋が凍る思いをしたり、気づいていないふりをしたりした。大人がどれだけ情報を統制しようとしても、どこか子どもが感じ取ってしまうものもある。

 大人が隠していた秘密の多くは、私が大人になったら明らかになった。大したものではなかったもの、やれやれと思うこと、様々だった。大人になった私は、そういうことなのかと納得して、ある程度理解できた。そして、身近な大人たちがそれらから私を遠ざけようとしてくれたことに、一応感謝した。子どもの私には抱え込むことができなかっただろうから。

 どこまで子どもに説明するべきかはいつも迷う。知識や情報は世界を広げることになるかもしれないが、その重さや他人との相違にうまく対応できないかもしれない。娘の能力や発達段階をきちんと見据えた上でできればよいと思うのだが、なかなか難しいといつも思う。

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2011年7月 1日 (金)

平穏な日々のことなど

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 下の娘が産まれて1ヶ月半が経った。生まれた時は華奢に感じた赤ちゃんも、気がつくと全体的に丸くなってきた。時折、猫のような不思議な生物を育てているという気持ちにとらわれることもあったけれど、最近は話しかけたら反応する、眼を合わす、気になるものを目で追うなど人間らしくなってきた。徐々にこちらの世界の人になりつつある。

 少し前からぼちぼちと娘をあちこちに連れまわしている。こんなに小さな赤ちゃんを連れまわすなんてひどいと思いつつも。

 1ヶ月児を抱いて歩いていると、通りすがりの人が微笑みながらこちらの腕の中をのぞきこんでいく。1ヶ月児本人は、まだ幸せも不幸もない。あるのは、快/不快だけ。でも、一ヶ月児を見る人は、滅多に見ることができない物を見たかのように、吉兆に出会ったかのように、嬉しそう。月齢児は、周りを幸せにする何かを持っているらしい。

 私も、下の娘を見ているだけで、抱いているだけで幸せな気持ちになる。新しく来た子の顔を見てると、上の子の赤ちゃんの時のことも思い出して、幸福感が二倍になる。

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 6月23日にもんじゅ炉内落下の装置の引き抜きがあった。そのことを知ってから、万が一もんじゅが爆発したら、どうしたらよいのかと悶々と考えていた。私自身はもう充分生きたと思う。でも、子どもは、まだ産まれたばかりなんだ。もし親の行動が間違っていたせいで重篤な病気になったとしたら、悔やんでも悔やみきれない。親の勝手でこの世に生をうけたのに。

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