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2011年11月

2011年11月23日 (水)

見知らぬ人に本を渡す

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 先日、大門玉手箱の箱主になった。箱主になるのは9月に続いて2回目。大門玉手箱は、初宮神社という小さいお宮さんで2ヶ月に1回行われる一箱古本市。

 2回出店してわかったことは、一箱古本市は、本を介してお話をする場で、私の好きな本を読んでくれそうな人に手渡す場だということだ。本棚の整理にもほとんどならない。そういうことをしたいのだったら、ブックオフに行くとかアマゾンのマーケットプレイスに出す方が効率的だ。

 竹宮恵子の表紙の新井素子のコバルト文庫を持っていったら、私と同世代の女性が何人か「懐かしい~」と、話しかけてくれた。最近、新井素子が日経新聞でエッセイを書いていること、もう初老といえる年で内容もそれに見合うような老眼などの話題をしているのに昔と同じような女子高生の口語体の文体で書き続けているということ、そういう他愛ないことで盛り上がった(残念ながらその本を持っている方ばかりなので、売れはしなかったけど、それでも持って行ってよかった)。

 赤ちゃんを触りたいと近寄って来た小学生の男の子に、高橋留美子の「人魚の森」をおすすめしてみたら気に入ってくれたのもうれしかった。「人魚の森」は私が子どもの頃に読んでいた20年前の漫画。当時の高橋留美子は、うる星やつら等でループし続ける世界を桃源郷として描いている一方で、不老不死の残酷さをこんな形で描いていた。

 梨木香歩や多和田葉子を買ってもらえたのもうれしい。梨木香歩は「西の魔女が死んだ」が映画化されているのでまだ知名度があるが、多和田葉子はあまり知られていないようだ。犬婿入りが芥川賞をとったの、もう20年くらい前だしなあ。いずれも此方側と彼方側の境目を曖昧にした世界を書く作家で、読みながらうっとりとするし、ぞわわとする。もっとたくさんの人に読んでもらえると嬉しい。

 ほかの箱を覗くのも楽しい。箱の中は、箱主の本棚の一部なので、その人の趣味や人柄がわかって興味深い。今回は安野光雅の赤ちゃん向けの絵本、西瓜糖の日々、諸星大二郎の漫画、猫町の絵本などを手に入れることができて、ほくほくしながら帰った(つまり、うちの本はまったく減っていないんだ……)。

 大門玉手箱では本以外のものもたくさん売っていて楽しい。手づくりのお菓子やパン(プロの方も混じっている)、花瓶敷にちょうどよい板、難民支援活動の手づくり雑貨、マッサージなど。9月には、ハンマーダルシマーの演奏をする方(クポリンさん!)が来られて、ぽろんぽろんと素敵な音色を奏でてはったのも、すごくよかった。

 一箱古本市は2005年に不忍ブックストリートで始められたイベントで、今は全国各地で開催されているらしい。『一箱古本市の歩きかた』(南陀楼綾繁著)には、全国の一箱古本市やブックイベントの情報がまとめられているらしい(ごめんなさい。まだ購入していない><)。また、誰が始めてもよい。開催する時に、一箱古本市をはじめた南陀楼綾繁さんに一言連絡すると、すごく喜んでもらえるそうだ。自分の本棚から本を選んで持っていくだけなので、箱主はあまり準備もテクニックもいらない(でも、手間かけたらかけた分だけ楽しくなると思う)。これは地味だけどなかなか楽しい遊びだなあと思いましたことですよ。多分、これからも定期的に箱主になると思います。

写真:9月の大門玉手箱の様子

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2011年11月18日 (金)

きれいは汚い、汚いはきれい

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" きれいはきたない、きたないはきれい。
闇と汚れの中を飛ぼう。"


妊娠、出産、育児のさまざまな場面で、一つの物事に相矛盾するものが含まれているとよく思う。
多分、親というのは、子どもが感じる矛盾を一手に引き受ける存在なんだと思う。
私は未成熟な親なので、時々、矛盾をうまく引き受けることができなくて、子どもにかわいそうなことをしてしまう時もあるのだが。
成長するというのことは、様々な矛盾を自分の中で消化できるようになることのように思う。


今月で、下の娘が産まれてから六ヶ月が過ぎた。半年前にこの人はこの世に存在しなかったというのが不思議だ。

六ヶ月児にどこまで感情があるのかわからないが、観察していると表情がくるくると変わって興味深い。
いつまでも見惚れてしまう。
ベビーカーで移動中に身を乗り出して外を熱心に眺めたり、自分が座っているベビーカーを検査するかのように真面目な表情でパチンパチンと手で触ったり、こちらと目を合わすとにこっと微笑んだ後に恥ずかしそうに布で顔を隠したり。


六ヶ月児の発する言葉にならない声も面白い。
下の娘は、声がちいさくて、喉の奥の方で小さな声を出す。
機嫌がよい時に「キュッ」と笑い声をあげたり、「うー」「くー」といった喃語(書き写すのがとても困難な不思議な音)を発する。
赤ちゃんの声をきくと、つい真似をして同じような音を発したくなるが、大人が言うととてもキモいので、真似するのは推奨できない(>_<)


彼女はこちらの世界に慣れていないので、私たちは一緒にいるだけで貴重な時間を過ごしていると思える。
次女は、上の娘に比べると、あっという間に育っているように感じる。いつのまにかいろんなことができるようになっている(もう離乳食を食べてるんだぜ! 電気のコードを抜こうとしたり。この前、産まれたばかりなのに(>_<) )。
日々の喧噪の中では、大事なこと、貴重なことを見極めるのは難しかったりもするが、毎日をやり過ごすのではなく、月齢児との時間を丁寧に過ごしていけたら、と思う。


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最近、よく更新しているのは、通勤時間にiPhoneのココログアプリを使うようになったから。
iPhoneから、こんなに長文を入力する私って、ちょっとキモイわ(>_<)

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2011年11月16日 (水)

ゆるふわ素敵女子ブログだと思った? 残念!t80935さんのブログでした!

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 少し前に、親しい友人に「t80935さんは生き生きとネガティブにしてるのが似合ってる」と言われて、あー!まじで!私!そんな感じよな!と、もうめっちゃ「!」を無駄に付けたくなるぐらい納得した。

 私は、基本的に超ネガティブで、人見知りで、そのくせかまってちゃんで寂しがりで、すぐ人のことを羨むし、私なんか誰にも必要とされてないねんって卑屈になるし、自虐もひどいし、自己憐憫が大好きだし、大ざっぱで無神経で他人の心の機微がよくわからないし、空気よむのめっちゃ苦手、でも、めっちゃ神経質で、自分にむちゃくちゃ甘い。私には「リア充爆発しろ!」という権利があるだろって思ってる。あははははは。書いているだけで超鬱陶しいですね☆ミ おまえ、友だちいないだろ♡ 自分、死ねばいいのに♪ 自己嫌悪の無限ループ∞(自意識過剰すぎて、いい年の大人が書く文章じゃない(>_<) 本当にごめんなさい)

 私はもう若いとは言えない年齢になったし、家族もいるし、仕事もあるし、幸いなことに周りは良い方ばかりで、みなさんに仲良くしてもらっているし、そこそこ信頼してもらっていたりする。環境に恵まれている。とても運がよい。外向きの私はポジティブに擬態していて、ダメな自分は出さないように気をつけている(おお、こう書くと、私、リア充じゃん*!自分、爆発しろ)

 それでも、体調崩したり余裕なかったり人間関係がごちゃごちゃすると、素のダメな自分が綻びから出てきて外向きの自分を蝕もうとする。ダメな自分を抹殺できるんだったらよいのだが、長い年月を積み重ねて作ったものなので、簡単にはいなくならない。子どもの頃の自家中毒に比べれば、点滴のお世話にならないだけましだ。

 たぶん、ダメな自分をいないものとして扱うよりも、どうにかして飼いならさないといけないんでしょうね。ネットなんだから自分を偽って、ゆるふわ素敵ブログを書こうと思っていたのに、自意識過剰な変な文章(微塵子に生まれ変わりたいとか「私って孤独やん」という自己憐憫とか)を書きたくなるのって、箱庭療法みたいなものだと思う。私は、適当にネガティブにしていないと死んじゃう>< 

 そんなわけで、ここによくわからない変な文章を書いている時、私はとっても元気です。ゆるふわ素敵ブログは、私には書けない。残念女子だから仕方がない。

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参考:残念さやかちゃん

*子どもや赤ちゃんは細胞単位で毎日をしっかり味わっているリア充なので、子どもや赤ちゃんと一緒に暮らしている私もリア充に決まっているのだけどね。こんなに無条件で私のことを必要としてくれる人って、他にいなかった。子どもたちが大きくなると、また関係性は変わっていくと思うので、その時までにちゃんと子離れしないといけないと思う。でも、しばらくはこのまま。

本文と無関係な写真:奈良女子大記念館の講堂の天井。天井が高くて、めちゃかっこいい。素敵なシャンデリアがかけられている。中央部の花形飾りは換気口なんだそうだ。奈良女子大記念館は、国の重要文化財に指定されている。国立の女子大らしい質素なたたずまい。奈良はこういう古い建物がちょこちょこ残っている。こういう奈良のいろんな楽しいところを紹介する記事も書きたいのだが、なかなか書かれへん。そういう楽しそうな記事書くより、今回みたいな厨二病な日記を書いているほうが心安らぐって、どうかしてる……。

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タイムカプセルとしてのWeb

ウェブアーカイブスというサービスで、削除されたホームページを見ることができるというのを知ってしまい、ここしばらく、とある人の10年前の文章を読んでいる。

削除されたページをわざわざ発掘するなんて、趣味の悪いことだと思うので、一応、本人に読むことを連絡した。
本人からは、読むのはいいけれど、終わったことなので蒸し返さないでほしいと言われた。
それはそうだ。私も10年前の自分は別人だと思うもの。

ウェブアーカイブスを読みながら、すごく不思議な気持ちになる。
私、当時のこの人のこと、まったく知らなかったのに、時を超えてこうやって、この人が過去に考えていたことを読むことができるんだから。
普通の日記だったら、どんなに私がその人に興味を持っていても、その人が廃棄してしまったら読むことはできない。有名な作家であったら、誰かが日記を保管していることもあるかもしれないけれど。

ウェブに文章を書くというのは、タイムカプセルみたいなものなんだな。
こうやって書き続けている私の無意味な文章も、アーカイブされていくのかと思うと、ぞっとしたりもするが、面白いことでもある。
私が興味なくなってこのページを閉鎖しても、何かの時に誰かに発掘される危険性があるということだ。

だから、私は、ここに書く時に、少なくとも以下の二つのことを心しようと思ったりした。
・ばかなこと、くだらないこと、面白くないことでもよいが、自分の言葉で書くこと(自分の言葉なんて曖昧なもので、借り物の言葉や決まり文句と自分の言葉との区別を付けるのは難しいよね。先生、オリジナリティってどこにあるんですか?)。
・できるだけ人を傷つけるようなことは書かないでおくこと(私がここで生きて存在している以上、誰のことも傷つけないということはできない。存在をなくせば、誰も傷つけないかというとそうでもなくて、存在を消すことは強く誰かを傷つけることになる。仕方がない。仕方がないが、意図的に誰かの傷をえぐるようなことを書くのは、あまりにも見苦しいと思うし、基本的に私の言葉しか載らないここでそういうことを書くのは不正義だと思うんだ)。

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2011年11月 5日 (土)

幸せと孤独と

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 起きた瞬間から寝る直前まで続く上の娘の甲高い話し声、言葉にならない何かを発し続ける下の娘の不思議な声、少し熱っぽくさえもある子どもたちの手のぬくもり、ぎゅっと握れば握り返してくれる小さな掌、目を合わすと返してくれる笑顔、短い手足をばたばたと動かす下の娘。
 私は、今、そういう幸せの塊みたいなものばかりに囲まれている。
 きっと、私は、人生の中で、一、二を争うぐらい幸せな日々を送っている。
 幸せなんだと思う。

 でも、毎日、なぜかひどく疲れていて、ゆっくり考える間もなく常に小走りで、いろんなことがうまくこなせなくて、いろんなことを先送りにして、大事なこともせねばならぬことも置き去りにしている。 私は関わりたい物事にきちんと関わることができていなくて、役立たずのまま、無為に日々を過ごしている。
 そして、ふっと気が抜けた時、私って一人なんだなって思う。この一人という感覚に堪らなくなる。

 恋人ができれば、結婚すれば、子どもがいれば、子どもがもう一人いれば、傍らに誰かがいてくれれば孤独から逃れられると思っていたが、もちろんそんなわけは全然ないのだ。 幸せなものに囲まれているということと、孤独であることは両立してしまうんだ。

 孤独に蝕まれることを避けるためには、孤独とちゃんと付き合うしかないのだろう。 結局のところ、一人で生まれて、一人で生きて、一人で死んでいくのだよ。
 一人でいることにちゃんと向き合わないと、家族をはじめとした他者とうまくつながる事ができない。 自分と他者との境目が曖昧になると、世の中を中立な立場から見ることができなくて、見える世界がどんどん狭くなって歪んで見えてくる。 歪んだ目でしか世界を見れない人間は、世の中に怯えることしかできなくて、自分の世界に閉じこもることになる。

 他者から見えていると思われる自分と、自分が認識している自分との間には、いつでも深い溝があって、その溝を埋めようともがけばもがくほど傷つく。 相互理解というのは、必ず傷を伴うものだから。 傷つかないようにしようと思ったら、誰とも接しないようにするのが手っ取り早い。
 だけど、私は、だれかと接しないと生きていけない。だから、そのために、ちゃんと孤独と付き合えて、些細なことでは傷つかない強い人間にならないといけないと思う。

 孤独とちゃんと付き合うって、何をしたらいいんだろう。 健康的な生活を送ること、自分の矜恃を大事にすること、自己憐憫に浸らないこと、よく勉強したり本を読んだりすること、一人で過ごす時間を無駄にせずに大事にすること、とかいろいろ。よくわからない。
 人生は突然終わるかもしれないが、思いのほか長く続いてしまうものかもしれない。 人生が長く続いた時に、孤独に苛まれているとしたら、それは年の重ね方を失敗しているのだろう。 とかなんとか。 なんしか寂しいし、先のことがすごく不安。
 私の今の状況で寂しいとか不安だとか思うのは贅沢で、それを口にするのは間違ったことのように思うし、実際にそれを口にしたら人に笑われた。「いったい何をいっているんだ」って。 そのとおりだと思う。私が弱すぎるんだ、ただ単に。

(追記) 読み返したら、自分自分自分って自分のことばっかり考えているな、そんなんだから、すぐ詰むんだよ、バカバカしい。 もうちょっとひいて自分を見なあかんな、とりあえず。時はいつのまにか過ぎて、時が解決してくれることもあるし。 えっと。少女革命ウテナみたいに、「世界を革命する力」が欲しいなあと。

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2011年11月 3日 (木)

他人の夢の話ほどつまらないものはない

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 微塵子になる夢をたまに見る。身体が透き通っていて「初代iMacのようにトランスルーセントだ」ってちょっと感動する。脚はなく、手の代わりに透き通った触手が頭から生えている。

ふと気がつくと、傍には単為生殖で増やした私のクローンの子どもたちが無数にいる。みんなで、両腕をバタフライのように同時に動かしながら、光の中をすすんでいく。私達がいる世界は小さな水たまりのような場所かもしれないが、それでも十分に広大で、どこまでいっても世界の果てが見えない。

 少し前まで生まれ変わったら飼い猫になりたいと思っていた**。だけど、微塵子の方がいいかもしれない。甲殻類だから身体が殻で囲まれているのもいい。単為生殖できるというのも魅力的だ。私にそっくりな無数の私の子どもたちに囲まれると、私は私のことを好きになれるのだろうか。

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 あああ。なんか不思議ちゃんぶった文章でキモイなあ。

**上の娘は生まれ変わったら、魔女になりたいそうな。魔女修行をして偉大な魔女になりたいとか。私は飼い猫になりたいって言ったら、そんなんあかんって怒られてしまった。寿命が短いし、頭使わへんからダメって。飼い猫には飼い猫の苦労があるように思うんだけど。人間を飼いならすのとか難しそうやん。

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