幸せと孤独と
起きた瞬間から寝る直前まで続く上の娘の甲高い話し声、言葉にならない何かを発し続ける下の娘の不思議な声、少し熱っぽくさえもある子どもたちの手のぬくもり、ぎゅっと握れば握り返してくれる小さな掌、目を合わすと返してくれる笑顔、短い手足をばたばたと動かす下の娘。
私は、今、そういう幸せの塊みたいなものばかりに囲まれている。
きっと、私は、人生の中で、一、二を争うぐらい幸せな日々を送っている。
幸せなんだと思う。
でも、毎日、なぜかひどく疲れていて、ゆっくり考える間もなく常に小走りで、いろんなことがうまくこなせなくて、いろんなことを先送りにして、大事なこともせねばならぬことも置き去りにしている。
私は関わりたい物事にきちんと関わることができていなくて、役立たずのまま、無為に日々を過ごしている。
そして、ふっと気が抜けた時、私って一人なんだなって思う。この一人という感覚に堪らなくなる。
恋人ができれば、結婚すれば、子どもがいれば、子どもがもう一人いれば、傍らに誰かがいてくれれば孤独から逃れられると思っていたが、もちろんそんなわけは全然ないのだ。 幸せなものに囲まれているということと、孤独であることは両立してしまうんだ。
孤独に蝕まれることを避けるためには、孤独とちゃんと付き合うしかないのだろう。
結局のところ、一人で生まれて、一人で生きて、一人で死んでいくのだよ。
一人でいることにちゃんと向き合わないと、家族をはじめとした他者とうまくつながる事ができない。
自分と他者との境目が曖昧になると、世の中を中立な立場から見ることができなくて、見える世界がどんどん狭くなって歪んで見えてくる。
歪んだ目でしか世界を見れない人間は、世の中に怯えることしかできなくて、自分の世界に閉じこもることになる。
他者から見えていると思われる自分と、自分が認識している自分との間には、いつでも深い溝があって、その溝を埋めようともがけばもがくほど傷つく。
相互理解というのは、必ず傷を伴うものだから。
傷つかないようにしようと思ったら、誰とも接しないようにするのが手っ取り早い。
だけど、私は、だれかと接しないと生きていけない。だから、そのために、ちゃんと孤独と付き合えて、些細なことでは傷つかない強い人間にならないといけないと思う。
孤独とちゃんと付き合うって、何をしたらいいんだろう。
健康的な生活を送ること、自分の矜恃を大事にすること、自己憐憫に浸らないこと、よく勉強したり本を読んだりすること、一人で過ごす時間を無駄にせずに大事にすること、とかいろいろ。よくわからない。
人生は突然終わるかもしれないが、思いのほか長く続いてしまうものかもしれない。
人生が長く続いた時に、孤独に苛まれているとしたら、それは年の重ね方を失敗しているのだろう。
とかなんとか。
なんしか寂しいし、先のことがすごく不安。
私の今の状況で寂しいとか不安だとか思うのは贅沢で、それを口にするのは間違ったことのように思うし、実際にそれを口にしたら人に笑われた。「いったい何をいっているんだ」って。
そのとおりだと思う。私が弱すぎるんだ、ただ単に。
(追記) 読み返したら、自分自分自分って自分のことばっかり考えているな、そんなんだから、すぐ詰むんだよ、バカバカしい。 もうちょっとひいて自分を見なあかんな、とりあえず。時はいつのまにか過ぎて、時が解決してくれることもあるし。 えっと。少女革命ウテナみたいに、「世界を革命する力」が欲しいなあと。
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コメント
わかります。
今まさにそういう風に感じるとかかつて感じていたとかではないけど、とかではないのになんでわかるのか自分でもわからないけど、すんなりわかります。
幸せ(とか幸せなものに囲まれてるの)と孤独は全然関係のない概念ですよね。
投稿: えみ | 2011年11月11日 (金) 22時18分
>えみさん
初めまして。わかっていただけて、うれしいです。
明るく、前向きにというの、大事だと思うのですが、
たまに陥る淋しい気持ちというのも、同じ自分の気持ちなので、
あんまり無下にしてはいけない気がしています。
なかったことにすると、あとでとばっちりを受けたりしますから。
投稿: t80935 | 2011年11月14日 (月) 00時33分