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2011年12月

2011年12月15日 (木)

これからの道路の話をしよう

今回の記事は、前回の記事の補足。
私の道路に対する思いをちょっと整理する。

私は道路を愛している。
前回の記事で、「道路には世界を革命する力がある」と半ば本気で書いた。
それくらい道路というのは、暴力的な強い存在だ。

道路には、大きく分けて、二つの機能がある。
LINK & SPACEの2つである。
前回の記事には、こんな感じで書いた。
"連中に道路が人と人を繋ぐ線であることを思い出させてやる(LINK)
連中に道路が人々の集う場であることを思い出させてやる(SPACE)"

今の道路のほとんどは、LINK機能に特化してしまい、SPACE機能が貧弱だ。
私は、もっとSPACE機能に特化した道路があった方がいいと思っている。
街の中心部には、たくさんの人が集う空間がもっと必要だろうと。

LINK機能に特化した道路にとって、交通流が留まることは悪だ。
だから、たとえば、円滑な交通のために、多額の費用をかけて、地下歩道を整備し、地上の横断歩道を撤去するなんてことが起こってしまう。

交通渋滞は、大気を汚染する。円滑な交通流を促進することは、環境にとってよいんですよ。
歩行者や自転車を地下歩道や陸橋に追いやると、自動車との交錯がなくなって安全になるんですよ。
そういう名目で、今も多くの交差点改良や道路整備が行われている。

だが、道路整備はさらなる自動車交通を誘発する。この不況下で交通量は少し減ってきたが、依然として自動車の分担率は高いままだ。
1990年代から、ロードプライシングやパークアンドライドといった交通施策によって、交通需要をマネジメントするべきという考え方が出てきたが、まだまだ十分に進んでいない。
TDMに早くから取り組んでいる金沢市などでも、パークアンドライド駐車場の整備台数はたいした数ではない。

道路を整備する人達は、道路管理者である。
彼らは、国土交通省や地方自治体の道路建設課など土木技術者だ。
彼らには、交通需要をマネジメントするという意識はまだまだ薄い。
なぜなら、信号や通行規制などの交通管理の権限は彼らにはなく、警察が持っているからだ。
道路管理者が施策を考えても、交通管理者が認めないと施策を実施できない。

ここしばらく道路管理者の方々とお話する機会があった。
彼らの道路を愛している様子には、ほっこりと和むものがあった。

彼らは、自分たちが整備した道路が、経済成長に寄与し、地域住民の生活の利便性を向上するものと信じている。
だが、地域を細やかに見ると、道路によって苦しむ人達がいる。
たとえば、気管支炎や喘息などの病気で苦しんでいる人達がいる。
自動車利用者が円滑に移動できる代わりに、歩行者や自転車は自動車に脅威を感じながら移動している。
こういった人達を切り捨てるのは、道路を愛する者たちの本意ではない。
彼らは誠意をもって、道路構造の改善について一緒に検討してくれたが、それによって、状況が改善したかというと、んー、えっと、前は向いているけれど進んでいないという感じかな。

では、どうすればいいのか。

答えは簡単に出るものではないけれど。
きっと解決の糸口は継続したコミュニケーションにある。

できれば、道路の整備前に、道路空間をどのようにするのかをみんなで議論する。大型車、普通自動車、自転車、歩行者がどこを通るのか、道路管理者とか交通管理者とか地域住民とか、ステークホルダーをできるだけ集めて。
そして、たくさんの代替案を作って、それが地域に与える影響を評価する(この計画段階から環境影響評価を行う仕組みを戦略的環境アセスメント(SEA)というそうだ。日本のSEAは、"日本版SEA"と言われており、他国と仕組みが異なっている)。
整備後も、ステークホルダーと共に整備の影響を評価し、改善していく。
こういったプロセスは、手間暇がかかるし、地域住民にとっても負担が大きいけれど、道路の暴力性を緩和して地域との折り合いを付ける有効な方法だと思う。

そんなわけで、私は
「道路!! 道路!! 道路!!」
と叫んで、カタルシスを感じたい気持ちがありつつも、もうちょっと道路のことについて、みんなで考えられるといいな~と、ゆる~く思っています。

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通勤途中に、iPhoneでせっせと書いたので、事実誤認がありましたら、ご指摘くださいm(_ _)m
ほんまは、もっと教科書とかいろんな文献を見直して書くべきなんだけど(>_<) 今は時間があんまりとれないので、こんな適当な内容でごめんなさい。

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2011年12月13日 (火)

よろしい ならば道路だ

諸君、私は道路が好きだ
諸君、私は道路が好きだ
諸君、私は道路が大好きだ

一般道が好きだ
高規格道路が好きだ
自動車専用道が好きだ
農道が好きだ
バイパスが好きだ

過密な大都市で
寂れた地方都市で
人けのない郊外で
田畑しかない農村で
鬱蒼とした山間部で

この地上に存在するありとあらゆる道路が大好きだ

一本の長い道路が好きだ
地域を変容させる様子など心がおどる

あまたの自動車により工業製品や農産物、商品が運ばれる様子が好きだ
あまたの人々が道路を使って目的地に急ぐ様子など胸がすくような気持ちだった

高架橋柱が整然と立ち並ぶ様子が好きだ
複雑なジャンクションが美しい線形を描く時など感動すらおぼえる

真新しいアスファルトが煌めく時などもうたまらない
地図上に新たな道路が書き加えられるのは最高だ

交差点の改良により
渋滞が解消した時など絶頂すら覚える

可能交通量の限界まで交通流が流れる様子が好きだ
サグや上り坂のために道路の機能を十分に生かすことができていない様子はとてもとても悲しいものだ

一般国民が当たり前のこととして道路を捉えているのが好きだ
道路利権と非難されるのは屈辱の極みだ

諸君 私は道路を 国土の骨格となる道路を望んでいる
諸君 私に付き従う道路好きの諸君 君たちは一体何を望んでいる?
更なる道路を望むか 
糞の様な道路を望むか?
全国民に愛されるような道路を望むか?


道路!! 道路!! 道路!!


よろしい ならば道路だ

だが、不況による交通量の減少に耐え続けて来た我々には
ただの道路ではもはや足りない!!
大道路を!! 一心不乱の大道路を!!

我々はわずかに小数
鉄道好きに比べれば物の数ではない
だが諸君は一騎当千の築土構木の徒だと私は信じている
ならば我らは諸君と私で総兵力100万と1人の土木技術者集団となる
我らを忘却の彼方へと追いやり、公共事業は全てムダだと言い募るマスコミや大衆を叩きのめそう
道路批判の立場から引きずり下ろし 眼(まなこ)をあけて思い出させよう

連中に道路が人と人を繋ぐ線であることを思い出させてやる
連中に道路が人々の集う場であることを思い出させてやる
道路には奴らの哲学では思いもよらない、世界を革命する力がある事を思い出させてやる
1000人の築土構木の徒で 世界を漆黒の道路で埋め尽くしてやる

目標 さらなる円滑な交通流を

道路ネットワークを拡充せよ

征くぞ 諸君


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参考:少佐演説ジェネレーター
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何か電波を受信して書いた。
せめて三年前くらいに思いつきたかった。時期を逸しすぎて意味がわからないけれど。

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2011年12月 7日 (水)

聞くこと、伝えること、変えていくという意思を持つこと

 先日、私の職場の主催の公害教育に関するシンポジウムに出席した。

 シンポジウムで興味深かったことについてのメモ。

 私の職場のひとつである財団では、3年にわたって、公害地域に学生等を連れて行き、フィールドワークをさせ、最後の報告会で何らかの提案させるというスタディツアーを行っている。
 スタディツアーの企画に携わった先生曰く「当初は、現在進行形でへヴィーな現場に何も知らない学生を連れて行くのに、批判もあった」とのこと。公害地域は、何も知らない人間が土足で踏み込んでよい場ではないと。
 だが、スタディツアーの参加者は、かなり真剣にフィールドワークを行い、それは地域にとっても、ツアー参加者にとっても大きな効果があったようだ。公害地域の今を知り、被害者だけでなく加害企業の話を聞き、その緊張感のある信頼関係を目の当たりすることにより、参加者は公害地域の再生について理解する。地域は、参加者の真剣なまなざしを受けることにより、自分たちのしてきたことの意義を問い直すことができる。

 公害教育にずっと携わっている先生のお話も、興味深かった。
 「水俣に学生を連れていくと、その地域にはまって何回も行く学生がいる」とか。はまる理由は、まず、人がやさしいこと。たくさんの苦悩を乗り越えてきた地域であるため、学生はそこで自分の悩みを相対化することができる。もう一つの理由は、白黒の水俣がカラーの水俣に鮮やかに変わったこと。白黒の水俣は、教科書などに掲載されている暗い公害の過去の歴史。だが、水俣は自然が美しい、魅力的な地域であるとか。

 水俣では、最も公害が酷かった時期に、公的な機関によって「水俣病に負けない身体づくり」という教育がされていた。胎児や子どもなど弱い人達は汚染の影響を受けやすいが、地域に水銀そのものを排出しないのが筋であるのに、体づくりや教育だけで公害を克服するなんて間違っている。。
 福島を始め原発がある地域でも、「正しく理解すれば放射線は怖くない」という教育がされていた(私の地元の福井でも、その手のパンフレットを見たことがあるし、原発見学ツアーが頻繁に行われていた。敦賀などの原発のお膝元には原子力を学ぶための立派な施設がいくつもある)。行政や汚染物質を排出する企業は、安全側に傾きがちで、責任を住民に押し付けようとするというのは、今までの公害の歴史で繰り返しされてきたことだ。私達は歴史からちゃんと学べていない。

 土壌汚染の研究者の先生によると、イタイイタイ病の後、田んぼ1.5haごとにカドミウムの検査をしていたそうだ。カドミウムの汚染から田んぼを復元するのに、膨大な金額と年月がかかっている。
 今の福島でされている検査はもっとザルだとか。放射能汚染はムラがあるので、本当は田んぼ1枚ごとに検査してもよいくらいだそうだ。福島の土壌汚染は、今までの公害の中でも最大規模で、除染は間に合わない。

 四日市喘息の被害者支援をしている方が、「工場萌え」をあまりよく思っていないと発言されたのは少しショックだった。工場のばい煙のために被害を受けている人がたくさんいるのに、工場を美しいモノとして観光するのは浅はかではないかという意見だった。大学の先生からは、工場の景観に魅力を感じた人に、公害地域再生を伝えていく余地はあるのではないかとの提案があったが、なかなか難しいのではないかと思った。
(私は、工場萌えの写真集を出した大山顕さんのファンなので(大山さん主催の写真撮影ワークショップに参加したことがあるくらい)、この意見をちょっと複雑な気持ちで聞いていた。「工場萌え」というのは、テーマパークのような無味無臭で安全で小ぎれいな景観でもなく、写真家が撮影してきた絵葉書のように美しい景観でもない、自分たちにとってかっこいい景観を新たに発見する試みだと思っている。そうした場に、公害地域再生の話を持っていくと、教条主義的なものに思われて、反発を招いてしまう恐れもあるように思った。)

 私は、今の職場で勤めるまで、公害や公害被害を受けた地域の現状についてほとんど何も知らずに来た。
 公害についていろいろと知ったりすると、私はいろんなものにきちんと目を向けないで過ごしてきたんだと改めて感じる。自分がいかに感性が低かったのか、想像力がいかに欠けていたのかを感じる。
 聞くこと、伝えること、過去のことをふまえて未来を変えていくという意思を持つこと。地域で多様な人々と暮らしていくために必要なこれらの態度を培う場が、公害教育なのだと思う。

* この記事は、友人や知人たちに向けてFacebookに書いたものを転載しています。シンポジウムで得た知識を踏まえて書いているため、細かな部分の裏付けをとっておりません。ですが、私は、個人的に、今、この時期に、公害教育について知る意義、取組む意義はかなり大きいのではないかと思い、取り急ぎ公開しました。間違い等がありましたらご指摘ください。

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