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2012年2月

2012年2月 1日 (水)

無為徒食の人を全力で擁護する

田中慎弥さんの芥川賞の記者会見を見て思ったことなど。

田中慎弥さんの記者会見、めちゃめちゃ面白かったです。

「もらっといて、やる」と緊張した面持ちで いうところとか、人に見られているという意識が低いのか時々口がぽかんとあいちゃうところとか、体力なくて姿勢が悪いところとか、目が悪いせいかたまに睨 むような目つきになってしまうところとか、虚勢をはっている小動物のような雰囲気で、大変かわいらしかったです。
(参考として→『現代日本のウェブにおける(不機嫌)メガネ男子萌え文化に関する考察』

コミュニケーション力が低いという反応もあるようですが、彼でコミュニケーション力が低いんだったらコミュニケーション力って何なんだろう?愛想よく相手の求める言葉を言うことだけがコミュニケーション力なのか?と思ったりします。
ちゃんと記者が言おうとすることを身を乗り出して聞いているし、短いながらも的確な表現で答えているように感じました。

残念ながら、彼の小説はまだ読んでいませ ん。
ちょっと仕事の区切りがついたら、本を購入しようと思います。
最初に芥川賞候補にノミネートされた「図書準備室」はちょっと読みたいと思いながら未読でした>< 働かない言い訳が書かれているらしいのですが、それにも関わらず妙に読ませる小説らしいです。

田中慎弥さん自体も興味深いのですが、彼のお母さんはすごいなと思いました。
20歳から小説を書き続けながらも32歳までデビューしなかった一人息子を支えつづけるというのは、なかなかできることではないと思います。
私の子どもがそういう状況になった時、私は同じことができるかというと難しいように思います。きっと、どこかのタイミングで、子どものやる気を完全に削ぐようなことを言ってしまい、子どもを損なってしまいそうな気がします。

マスメディアで彼はニートと言われていますが、20歳からずっとこつこつ小説を書いていたのだったら、ニートではなく、ずっと小説家だったと言ってもよいのではないかと思います。
所得や契約があるものだけを仕事と捉えるのは、あまりにも視野が狭い考えです。
世の中には、所得が発生しないけれど、重要な仕事がたくさんありますよね。
文学とか芸術って、そういうもののように思います。 (食っていけないのは困りますけれど、ちょっとそれは別の話)

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田中慎弥さんが、秋葉原事件について新聞に寄稿していた文章の一部を見つけました。
芥川賞作家・田中慎弥「取り押さえられた時の加藤被告の横顔が私自身にそっくりだった」
自分が秋葉原事件を起こした加藤に似ていることに触れた上で、生き延びるためにあえて不真面目であることを選ぶと述べています。

(こういうことを書くと どん引きされると思いますが)私にとって秋葉原事件の加藤のことは、全く他人ごとではなかったんですよね。
加藤がインターネット上に書き込んだ言葉を読んで、その想いに共感してしまう自分自身にぞっとしたりしていました。
私は運が良いことに、結婚して家族もいて、仕事も連続してもらえています。
「研究者なんて、楽しそうでいいね」とよく言われますし、それなりにやりがいがあることをしていると思っています。
ですが、契約は常に数年ごとで、数年先に自分がどこにいるのかよくわかりません。
いつ、博士号をもっている高学歴ニートに なっても不思議ではありません。
加藤の居場所を奪われる焦燥感、誰にも認められていないという孤独感はよくわかります。

何となくですが、世の中に真面目であることを「強いられているんだ!」と感じることがよくあります。
不平不満を発すると、自分の居場所を見つけられないのは真面目さが足りなかったんだろうと責められるように思います。

秋葉原事件の加藤は、 中島敦の山月記のように自分の心の中の虎を飼い馴らすことができなかったんだと思います。(加藤のように、全く無関係な外に向かって暴発する人は少ないと思いますが、自分や自分の身の周りに向かってしまう人というのはよくいるように思います)
多分、不真面目に生きるというのは、虎を飼い馴らすために必要なことなんでしょう。

私は工学部出身なのもあって、世の中の役に立たないものは存在価値がない、もっと効率化をはかるべきという考え方が自分の基本のところになってしまっています。
でも、その考え方に基づくと、自分みたいな中途半端な人間はダメな人間なんだという結論にいたってしまって、 自分の首をきゅーっとしめてしまうことになります。
多分、その価値観は、生きづらさを増すばかりなのです。
たとえば、ほら、文学の世界なんかには昔から何で糊口をしのいでいるんだか分からない無為徒食の人がたくさん出てきますよね。
夏目漱石の「こころ」の登場人物も川端康成の「雪国」の主人公もそうですし、内田百閒先生の短編にも無為徒食の人がよく出てきたような気もします。
昔はそういう何をやっているんだか分からない人を容認する空気があったのかもしれません。

最近は、「ダイバーシティが大事」、「多様性に合わて」とかいう言葉が飛び交っています。個人の多様性に合わせたワークライフバランスの構築ってやつです。
ですが、その言葉の裏には、頑張っている人、価値を産み出す人に限って多様性を認めてあげますよ、というニュアンスを含んでいるように感じます。
私自身も、そういう空気に合わせて、頑張っている自分を演出しようとしますし、身を守るために心に鎧をつけたりして、軽い悪意に気づかないふりをしたりしています。
でも、そうではなくて、価値があるかどうかよくわからない人、頑張っているかどうかもよくわからない人、そういう人をも支援できる世の中の方がみんな気楽に生きられるし、より良い社会になるんじゃないのかなあと思ったりします。

小説家の話から始まりながらも、まったく小説に関係のない話になってしまいました。
そんなこんなで、私も、もうちょっとゆるゆると 不真面目に生きていこうかなと思いますし、無為徒食の人が非難を受けている場面があったら全力で擁護しようと思ったりしたのでした。

(※Facebookのノートに書いたものを転載しています。こういうことをFacebookに書くと、リア充の友人・知人をドン引きさせることができるよ!という中二病的ライフハック!)

(追記)

同時に芥川賞を受賞した円城塔さんは、ポスドク経験があるという希有な経歴の作家です。円城塔さんの小説もすごく面白そうなのですが、私は残念ながら未読です><

寄稿 円城塔さん、芥川賞に決まって 「中間の賞」広げるのが良い

ポスドクからポストポスドクへ (日本物理學會誌 63(7), p.564-p. 566, 2008-07-05)(軽い感じで書かれていますが、これを読んで、研究者としても優秀な方だったんだろうなと思いました。優秀な方でもこういう待遇にしかつくことができないという話はよく聞きます(私はあんまり優秀じゃないので、いろいろと残念ですけど……。)。博士号取得者を育てるのに、かかる費用や時間(本人のリソースも含めて)を思うと、その能力を生かす事ができる出口をたくさん用意するべきだと思います。自己責任に帰して解決する問題だとは思いません)

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