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2012年6月

2012年6月26日 (火)

無為の豊かさ

最近、病気のせいでぼーっと過ごす時間が長くなった。

お庭を眺めるのは、無為に過ごすのにちょうどいい。

手水鉢に入れているメダカがそよそよと泳ぐさまや、樹木の葉が太陽の光で輝くさまを見ていると、気持ちが落ちつく。

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裏庭の紫陽花が満開になった。

紫陽花は花が咲いてから、花の色をどんどん変えるので面白い。

去年は、剪定した時期が悪かったのか、花をつけなくて残念に思った。

庭にほととぎすが来ている。

春の始めの頃のほととぎすは、鳴くのが下手で「けちょけちょ」言っていた。

今はちゃんと「ほーほけきょ」とほととぎすらしく鳴いている。

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前庭に百日紅がある。
梨木香歩の「家守綺譚」で、百日紅が主人公に懸想していたが、うちの百日紅は私に懸想する気配はない。

この百日紅にアシナガバチやスズメバチが何匹も来るようになった。
最初、どうして来るのかよくわかっていなかったが、百日紅に大量についている貝殻虫を食べにきているようだ。
昨年は、時間があったので、せっせと貝殻虫を退治していたが、今年は私が病気になってしまったのと時間がないせいで、幹が白くなるほど百日紅に貝殻虫がついている。
貝殻虫は見た目が悪いだけでなく、樹木を弱らせる。
さらに、蜂まで呼ぶとは知らなかった。

オットが蜂対策として、ワインや酢などを混ぜた誘引剤を入れた罠を作った。
スズメバチが数匹捕まっていのだが、ヤモリも捕まっていた。

ヤモリは「家守」で、害虫を食べて家を守ってくれる。見た目もかわいらしくて好きだ。
かわいそうなことをしたと思い、割りばしで罠から出してやったのだがどうも動きがおかしい。
どうやらワインに酔っぱらっているようだ。動きがとてもゆっくり。

下の子を連れてきて、ヤモリがゆっくりと戸の隙間から逃げていくのをぼんやり眺めることができるくらい、ゆっくりだった。
下の子は、生まれて初めて見たヤモリにひらひらと手のひらを振っていた。

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今、病気のせいで、とても生産性が低い。こんなことだと、この先やっていけるのかとても不安になる。でも、「環境教育学」の『無為の豊かさ』という章を読んだら、少し不安が和らいだ。

無為とは、労働して生産するという営みからいったん身を引くこと。
無為において初めて現れてくることがある。それは共に在るという人間の根本的かつ根源的な在りよう。
私が他の誰でもないこの私として存在することそのものが、共にあることと同時に、かつ共に在るなかで初めて立ち現われてくるのである。
主体的にふるまう時、私たちは協約可能性によって他者と絶対的に分離・分割されていることを忘却している。それゆえ、つい他者を自分(の意図)に同一化するべく対象化してコントロールしようとする。

庭は、病気の私の心を和らげてくれる。無為に過ごした時間を肯定しようと思う。

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2012年6月19日 (火)

紹介:環境問題の加害者と被害者

地球環境問題において、「みんなが同じく加害者、みんなが同じく被害者」というなかで、基本的人権が侵害されてもその責任の所在が明らかにされず、社会の構造的欠陥に目が向けられないままとなっては、何も学んでいないことになる。

社会の諸局面と主体的に切り結ぶ、社会的責任を果たすとは、「対立の時代は終わり協調の時代が到来した」ことにして、「パートナーシップ」「コラボレーション」といった耳ざわりのよい言葉を口にしてすませることではない。

まぎれもなく存在する対立や不公正をなかったことにして、あるいは当然に取られるべき責任をなかったことにしてすませることではない。

パートナーシップやコラボレーションは、そのような責任が明確に認められ、何らかのかたちで正当にその責任が取られたその先に初めて意味をもちうる。

「公害は終わっていない」

過去の被害が放置され理不尽な不正義の問題が解決していない、社会の基本構造を私たちが変えるに至っていない。

これまでの公害被害の救済にかかわる経験、取り組みが、今日の社会に重要な学びの機会や行動の契機をもたらしうることも意味している。

公害の発生を許してしまう私たちの社会の構造はなお変わらず存続している。現在の公害、未来の公害の発生を未然に防ぐに足る社会的変革はその端緒にもついていない。

引用元

高田研、林美帆、五十嵐有美子、井上有一:「公害教育 環境教育の原点から未来をつむぐ」、環境教育学 社会的公正と存在の豊かさを求めて、井上有一・ 今村光章編、法律文化社、p35-36、2012.4.5

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紹介:チェルノブイリで起きたことはすべて起こる

チェルノブイリで起きたことはすべて起こる

  • 被害の過小評価・過小予測、それによる防護措置の遅れ
  • 安全宣伝、正常バイアス、および「安全・安心」に同調しない人々への不当なバッシング
  • 一方で、リスクの過大評価、流言、過剰反応など
  • 被害者、犠牲者、受苦圏の分断:地域的な分断の場合もあれば、「認定制度」による切り分けも起こる、自治体による対応の極端な違いも生じる。
  • 家族や地域社会のなかでの軋轢:食生活や疎開移住をめぐる方針と判断の食い違い、学校の対応と親の考え方の齟齬など
  • リプロダクティブヘルスの阻害、とりわけ妊娠・出産をめぐる葛藤
  • サマショーロ、すなわち避難勧告や命令に従わず故郷に残留したり戻ってきたりする人々
  • 希釈政策:汚染濃度の高い食品や物品を市場に還流させるために、汚染濃度の低いものと混ぜ合わせる行為を行政が率先して行うこと。
  • 「放射能に効く」と称するあれこれの薬剤や食品や方法、その噂話と売り込み
  • リスクの転嫁(その1):汚染物の広域処理(つまりは拡散)
  • リスクの転嫁(その2):海外とりわけ途上国への汚染食材輸出
  • 被害認定、賠償・補償を求める交渉や裁判の長期化、そして司法判断の不一致。

(中略)

 放射能は目に見えない、臭いも音もしない脅威であるがゆえに、危機の受け止め方にどうしても個人差が生じ、そこに為政者や共同体からの圧力が加わって、心理的負担が増幅される。

 そこに為政者や共同体からの圧力が加わって、心理的負担が増幅される。

 そこに経済的な負担が重なり、「気持ちの問題」では片付けることはできなくなる。

 いきおい、社会的弱者へのしわ寄せも起こりやすくなる。

 医学や行政が円滑迅速に対応しないことで、軋轢はさらに増幅されてしまう。

 これらは、一見すると「起こる必要のない」「起こってはならない」ことに思えるが、しかしほぼ必ず起こることであり、未然に防ぐことは困難である。

 当事者以外からみれば「必要のない不安」や「根拠のない不安」と決め付けられがちであるが、社会的な格差をともなう属性や行政施策によって課せられた条件によって増幅される以上、実質的な被害であり、ましてやそこに健康被害も重なっていく危険が加わる以上、明確な受苦の構造をみてとるべきだろう。

引用元

細川弘明:「ポスト・フクシマ時代の社会的公正への視座」、環境教育学 社会的公正と存在の豊かさを求めて、井上有一・ 今村光章編、法律文化社、p89-p90、2012.4.5

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2012年6月 6日 (水)

野菜で音を奏でる人

紹介が続きますが。
6/4の日経新聞朝刊の文化面*に掲載されていた野菜楽器を作る小山淳志さんのエッセイが、とても面白かった。

ジャガイモ、キャベツ、大根、ネギ、ゴボウ、パプリカ、リンゴ、スイカなど、50種類以上の野菜や果物を使って野菜楽器を作ってきたとか。ナスは軟らかすぎて音がうまくならない、パインは繊維が多すぎて楽器に成形できなかったらしい。

「野菜楽器」作りを始めてから、スーパーの野菜コーナーが全く違って見えるようになったとか。同じ野菜でも旬や品種によって作りやすさが違うらしい。例えば、リンゴ笛では、「陸奥」が一番削りやすく音の鳴りのバランスがよいらしい。
そうか、陸奥かー(私はこの手の職人的なこだわりを聞くのが大好き)。

楽器としての役割を終えた野菜楽器は、カレーや煮物として活用されるとのこと。昨年、念願の「マイ冷蔵庫」を購入されたそうだ。家族の冷蔵庫に野菜をいれておくと、「楽器にするの? 食材にするの?」と責められていたとか。

野菜楽器、作ってみたいなあ。作るのも演奏するのも難しそうだけど。

Introduction of handmade vegetable musical instruments
野菜楽器の紹介動画。小山淳志さんの本職は小学校の先生であるらしい。表情や動きが小学校の先生らしい、サービス精神あふれるパフォーマンスで、見ていてほのぼのとする。

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* 日経新聞朝刊の文化面は、素晴らしい。世の中にはこんなに面白いことをしている素敵な人がたくさんいるんだというのに気付かせてくれる。
今まで、ノコギリ奏者のサキタハヂメさん、薬袋のコレクションをしている方、東京スリバチ学会の会長など、多種多様の魅力的な人々をたくさん紹介している。毎日のささやかな楽しみのひとつ。

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2012年6月 5日 (火)

ボランタリー組織だからこそ高位の均衡状態への移行が可能であるということ

下記の記事は、3年前に書いて下書きに入れて忘れていたもの。改めて読み直したら、今の時期にこそ、こういう論文が求められているんだろうなあと思いました。

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 2009年度の土木計画学研究・論文集がやっと届いた。巻頭に京大の小林潔司先生の「起業的都市・交通政策と地域学習ガバナンス」というタイトルの論文が招待論文として掲載されていて、すごく面白かったのでメモを残そうと思う。私はこの論文がすごく好きだ。論文の内容は、都市・交通政策において、ボランタリー組織に期待される役割と課題について。
 小林先生は、数理モデルをガシガシ使うような研究を多くされているので、今回の論文の内容は少し意外だった(でも、講演で、今回の内容も将来的にはモデルで表したいとおっしゃっていた)。

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 以下は、ボランタリー組織が必要な理由について。ボランタリー組織が泡のような存在であるからこそ、必要であるということ、そして、伝統的な方法では既存の均衡状態を改善することができず、ボランタリー組織だからこそ高位の均衡状態への移行が可能であるということ。ここの部分だけで、私はかなりグッと来ている。今まで自分のやってきたことややりたいこと、私の大事な知人たちがやってきたことって、こういう意義があると納得したし、すごく勇気がわいた。

公共サービスの提供を、「責任遂行能力に限界があるボランタリー組織にゆだねていいのか」という懐疑的な見方もある。
しかし、公共サービスの提供にボランタリー組織を活用しようとする背景には、もとより「多くのボランタリー組織が泡のような存在である可能性がある」ことが暗黙の了解となっている。
むしろ、社会が大量の泡を必要としているといった方がいい。
「ブクブク泡立ってくれる」ことが、社会にとって必要なのである。

公的サービス市場では、需要と供給の関係により、予定調和論的に市場均衡が実現されるとは思えない。
個人行動が他者の意思決定や多くの制度的補完性の下で実現される場合、そこには極めて多くの均衡状態が存在する。
複数均衡の中で低位均衡に陥った場合、より高位の均衡に移動するための政策が必要となる。
このような均衡選択の問題を、外部経済を内部化するような伝統的価格政策では解決できない。
つねに、既存の均衡状態を改善しようとして「ブクブク泡立ってくれる」ことが必要である。
重要なことは、このような泡の発生メカニズムを何らかの方法で規律づけ、より望ましい均衡状態に移行することが可能であるかという点である。

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 ボランタリー組織が有している優位性について。

筆者らは、ボランティア組織が公共サービスの提供に参加する意義は、「個別事例の重視」、「潜在的なクライアントの検出」において、ボランティア組織が比較的優位性を有している可能性が高い点を指摘したい。
行政が公共サービスを提供する場合、普遍主義(impartiality)原理を考慮しなければならない。
すなわち、行政がある特定の個人やコミュニティに、特別のサービスを提供する理由を正当化することは難しい。
しかし、市民が必要とする公共サービスの内容や質がコミュニティによって多様に異なる場合、効用サービスの内容も住民のニーズによって多様に差別化される必要がある。
このような公共サービスの差別化を普遍主義原理の下で実行することは極めて困難である。

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 以前、ある後輩とNPOやボランティア組織が公共性を持ちえるかについて、議論になった。その後輩は、NPO等は公共性を持ちえない、なぜなら目の前の個別のことしか対応できないからだと言った。私はそれに強く反論したのだけれど、お互いの間で「公共性」について、共通認識がうまく作れていなかったので、 結局言い合いになってしまった。その後輩はそのまま行政に就職してしまったが、認識は変わらないままなんだろうか。だとしたら、すごくもったいない。あの時に、この論文のように、きちんとNPO等が持つ限界を整理しながら、どうやって活かしていくのか議論することができればよかったのにと思う。

■引用論文
小林潔司, 大西正光: 起業的都市・交通政策と地域学習ガバナンス, 土木計画学研究・論文集, Vol.26, no.1, pp.1-13, 2009)(J-GLOBAL

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3年前に書いた文章を読み直したら、講演を聞いた時の高揚感を思い出した。昔の自分って、今よりも素直でいいやつだったんだなって思った。年を重ねると、どんどんひねくれていくんだろうか? 論文や講演で高揚できるという、この素直さを取り戻したいものだ。

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2012年6月 4日 (月)

記事の紹介:「除染」とボランティア

大阪ボランティア協会の市民活動総合情報誌『ウォロ(Volo)2012.5』の特集は、「除染」とボランティアだった。
福島市社会福祉協議会が募集した除染ボランティアについての報告があった。

ボランティア募集のホームページでは「マスク、手袋、ゴーグル、スコップ、レーキ等」を市が用意するとあったが、ゴーグルの配布はなかったとのことだった。事前の問い合わせでは防塵マスクを用意するとのことだったが、当日渡されたのは不織布マスクだったとのことだった。当日の活動前のミーティングでは、資料は配布されずにパワーポイントを用いての説明だけだったとのことだった。
予算や人材が十分になく、備品や説明が不足している部分があるようだった。

ボランティアは、身体に放射能測定器を付けながら、活動するようだ。男性は胸あたり、女性はお腹あたりに付けると書いてあったが、この部位の違いはどういう理由なのかよくわからなかった。

除染ボランティアに参加された方は、福島を思う気持ちと安全管理への不安の両方で揺れ動いている。
「汚染地域からの転居、除染や原発を巡る様々な問題について”絶対賛成(推進)”または絶対反対”のどちらかだけの立場になれたらどれだけ楽だろう。」と。
そして、「福島で日常生活を送る人々に突きつけられる「自己決定」がいかに厳しいことであるのか。」と思いを馳せている。

自分自身もいつその立場に陥るかもしれないという”被害者性”。
そして、このような理不尽な状況を招いてしまったことに間接的に自分も関与していた(不作為だった)という”加害者性”。
この両側面から、他地域から参加したボランティアも苦しい思いをしている。

報告を書いている著者から「活動後にボランティア同士または地元の方々が感じたことを話し合えるような場を設けたほうがよいのではないか」と提案があった。

ボランティア活動とは、現場に身を置くことで相手との共感を紡ぎだし、目の前の問題と自分自身との関係性に気づいていくプロセスを含むもの。
ボランティアが達成感を得るように配慮することも大切だが、あえて「揺らぎ」や「宿題」を感じてもらうようなアプローチもボランティアコーディネーションには必要なのではないかと。

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ここからは、安全な所で、何の行動も取ることができていない私の感想。

除染は、判断がとても難しいことだ。
そもそも除染すべきなのかという問題がある。危険であるならば、住民を安全な場所に避難させるべきではないかという考え方がある。その一方で、生きていく上でのリスクは、放射能汚染だけではないのだから、放射能汚染のリスクを何とか抑えながら福島で生活した方がよいのではないかという考え方もある。
さらに、除染は誰が担うべきかなのかという問題もある。低濃度であっても、福島第一原発事故の前は、放射性物質をボランティアが扱うということはなかったと思う。除染活動を数日したからといって、疾患リスクが急激にあがるわけではないようだが、ボランティアが担う仕事として適切なのかわからない。

私は子どもたちがいることを理由にして、何もしないでいるがいなかったら除染ボランティアに行けただろうか? こんな私でも、あんな風に誰かの役に立てるとしたら、それはとっても嬉しいなって、それぐらいの気持ちではできないことのように思う。
そして、福島に住んでいたら、住み続けていたのだろうか? それとも、避難していたのだろうか?
わからない。
わからないだらけで結局のところ、私って何にも言ってない(>_<)

関心を持ち、考え続けなくてはいけないことだと思う。
でも、逃げているようで申し訳ないが、私自身の考えは、まだ整理することができない。

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