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2012年6月 4日 (月)

記事の紹介:「除染」とボランティア

大阪ボランティア協会の市民活動総合情報誌『ウォロ(Volo)2012.5』の特集は、「除染」とボランティアだった。
福島市社会福祉協議会が募集した除染ボランティアについての報告があった。

ボランティア募集のホームページでは「マスク、手袋、ゴーグル、スコップ、レーキ等」を市が用意するとあったが、ゴーグルの配布はなかったとのことだった。事前の問い合わせでは防塵マスクを用意するとのことだったが、当日渡されたのは不織布マスクだったとのことだった。当日の活動前のミーティングでは、資料は配布されずにパワーポイントを用いての説明だけだったとのことだった。
予算や人材が十分になく、備品や説明が不足している部分があるようだった。

ボランティアは、身体に放射能測定器を付けながら、活動するようだ。男性は胸あたり、女性はお腹あたりに付けると書いてあったが、この部位の違いはどういう理由なのかよくわからなかった。

除染ボランティアに参加された方は、福島を思う気持ちと安全管理への不安の両方で揺れ動いている。
「汚染地域からの転居、除染や原発を巡る様々な問題について”絶対賛成(推進)”または絶対反対”のどちらかだけの立場になれたらどれだけ楽だろう。」と。
そして、「福島で日常生活を送る人々に突きつけられる「自己決定」がいかに厳しいことであるのか。」と思いを馳せている。

自分自身もいつその立場に陥るかもしれないという”被害者性”。
そして、このような理不尽な状況を招いてしまったことに間接的に自分も関与していた(不作為だった)という”加害者性”。
この両側面から、他地域から参加したボランティアも苦しい思いをしている。

報告を書いている著者から「活動後にボランティア同士または地元の方々が感じたことを話し合えるような場を設けたほうがよいのではないか」と提案があった。

ボランティア活動とは、現場に身を置くことで相手との共感を紡ぎだし、目の前の問題と自分自身との関係性に気づいていくプロセスを含むもの。
ボランティアが達成感を得るように配慮することも大切だが、あえて「揺らぎ」や「宿題」を感じてもらうようなアプローチもボランティアコーディネーションには必要なのではないかと。

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ここからは、安全な所で、何の行動も取ることができていない私の感想。

除染は、判断がとても難しいことだ。
そもそも除染すべきなのかという問題がある。危険であるならば、住民を安全な場所に避難させるべきではないかという考え方がある。その一方で、生きていく上でのリスクは、放射能汚染だけではないのだから、放射能汚染のリスクを何とか抑えながら福島で生活した方がよいのではないかという考え方もある。
さらに、除染は誰が担うべきかなのかという問題もある。低濃度であっても、福島第一原発事故の前は、放射性物質をボランティアが扱うということはなかったと思う。除染活動を数日したからといって、疾患リスクが急激にあがるわけではないようだが、ボランティアが担う仕事として適切なのかわからない。

私は子どもたちがいることを理由にして、何もしないでいるがいなかったら除染ボランティアに行けただろうか? こんな私でも、あんな風に誰かの役に立てるとしたら、それはとっても嬉しいなって、それぐらいの気持ちではできないことのように思う。
そして、福島に住んでいたら、住み続けていたのだろうか? それとも、避難していたのだろうか?
わからない。
わからないだらけで結局のところ、私って何にも言ってない(>_<)

関心を持ち、考え続けなくてはいけないことだと思う。
でも、逃げているようで申し訳ないが、私自身の考えは、まだ整理することができない。

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