ケアの空気
少し前に、『体の贈り物』(レベッカ・ブラウン著)を読んだ。
エイズの末期患者とホームケアワーカーの物語。
エイズの末期患者は基本的にケアを受ける側なのだけど、ケアワーカーの主人公に何らかの「贈りもの」をしようとすること、できるだけ自立した生活をおくろうとしている様子が抑制のきいた文章で書かれている。
コニーおばあさんのメープルシロップにまつわる家族のエピソードなど、取り立ててドラマチックなことではないのだけど、一人一人にとってはかけがえのない事柄が丁寧に書かれているのがよかった。
題材はエイズ患者のケアであるが、物語の底に人生の尊厳を諦めないという明るい希望があるから、読んでいて暖かな気持ちになった。
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ちょうど『体の贈り物』を読んだ直後に、おばが亡くなった。私の母の四つ年上の姉にあたる人だ。
おばは気丈な人で、無駄な延命はしないで欲しいと常日頃から言っていたらしい。最初に酸素吸入機を付けられた時、自分の手で払いのけたそうだ。
でも、私がお見舞いに行った頃には、払いのける力もなくなっていて、呼吸器を付けられるがままになっていた。
おばの旦那さんは「本人が苦しまないようにいかせてやりたい。酸素吸入機を付けないと苦しいだろう」と、握り返してこない手を強く握りしめながら言っていた。
おばはとても元気な人だった。阪神大震災の時も、炊き出しボランティアのために走り回っていた。あちこち旅行していたともきく。母と一緒に旅行しても、じっとしている時間がほとんどなかったのだとか。
だから、病気のためにガリガリに痩せて、意識のない表情で横たわっている彼女は、見知らぬ人のようだった。
おばの体にはさまざまな機器が取り付けられ、それぞれがさまざまな数値を示していた。
私が病室に入ってから数十分が経過した頃、ある数値が危険な領域になった。おばの娘さん(私の従姉妹)は急いで、ナースコールを押した。
病室にいる家族や親戚たちは、沈痛な面持ちで病院のスタッフが来るのを待った。
従姉妹と私の母だけは、おばの顔をタオルでふいたり、かいがいしくケアをしていた。
私は、何もすることができず、混乱した気持ちで、ただただ座っていた。
ナースコールが押されてから数分たって、看護師さんと介護スタッフの方がやってきた。
介護スタッフの方は、場違いともいえる大きな明るい声で、「○○さん!聞えますか!○○さん!がんばって!」と繰り返し呼んでいた。
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末期ケアの現場というのは、とても過酷だ。
あんなに過酷な場であるにも関わらず、ケアワーカーは明るく元気に仕事をすることを期待されている。激しい感情労働だと思う。このケアワーカー達のふるまいに、患者や家族は、ほんの少し気を紛らわすことができる。
おそらく、ケアワーカー自身も、あえて空気をよまないようにしているのではないか。現場の空気をよみすぎると、とてもじゃないけれど精神がもたないのではないか。空気をよまないことで、正気を保ったり自分を鼓舞したりしているのではないか。
私の母は、長く介護の現場で働いてきた。母も空気をよまない人で、時々、場違いなことを言って空気を凍らせる。母のことは嫌いではないけれど、少し変わった人だと思っていた。
でも、あの病室で母は確実に役にたっていた。
母はするべきことをきちんとしていた。
最後まで弱音をはかなかったおばでさえも、うちの母には頼みごとをしやすかったようで、夜中に「あれをしてほしい」「ここをさすってほしい」と言っていたらしい。
私は、ちゃんと私の家族を看取ることができるんだろうか。
空気に流されずに、自分を鼓舞して、家族をケアすることができるんだろうか。
死生観、ケアのあり方、介護職の役割についてなど、いろいろと頭の中をめぐる。
私は信念にのっとって行動する。私は行為に重きを置く。実効性のある行動をとりたいと思う。
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安楽死や自殺幇助が合法化された国々で起こっていること 児玉真美 (SYNODOS JOURNAL)