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2012年11月

2012年11月22日 (木)

ケアの空気

少し前に、『体の贈り物』(レベッカ・ブラウン著)を読んだ。

エイズの末期患者とホームケアワーカーの物語。
エイズの末期患者は基本的にケアを受ける側なのだけど、ケアワーカーの主人公に何らかの「贈りもの」をしようとすること、できるだけ自立した生活をおくろうとしている様子が抑制のきいた文章で書かれている。

コニーおばあさんのメープルシロップにまつわる家族のエピソードなど、取り立ててドラマチックなことではないのだけど、一人一人にとってはかけがえのない事柄が丁寧に書かれているのがよかった。

題材はエイズ患者のケアであるが、物語の底に人生の尊厳を諦めないという明るい希望があるから、読んでいて暖かな気持ちになった。

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ちょうど『体の贈り物』を読んだ直後に、おばが亡くなった。私の母の四つ年上の姉にあたる人だ。

おばは気丈な人で、無駄な延命はしないで欲しいと常日頃から言っていたらしい。最初に酸素吸入機を付けられた時、自分の手で払いのけたそうだ。
でも、私がお見舞いに行った頃には、払いのける力もなくなっていて、呼吸器を付けられるがままになっていた。

おばの旦那さんは「本人が苦しまないようにいかせてやりたい。酸素吸入機を付けないと苦しいだろう」と、握り返してこない手を強く握りしめながら言っていた。

おばはとても元気な人だった。阪神大震災の時も、炊き出しボランティアのために走り回っていた。あちこち旅行していたともきく。母と一緒に旅行しても、じっとしている時間がほとんどなかったのだとか。
だから、病気のためにガリガリに痩せて、意識のない表情で横たわっている彼女は、見知らぬ人のようだった。
おばの体にはさまざまな機器が取り付けられ、それぞれがさまざまな数値を示していた。

私が病室に入ってから数十分が経過した頃、ある数値が危険な領域になった。おばの娘さん(私の従姉妹)は急いで、ナースコールを押した。

病室にいる家族や親戚たちは、沈痛な面持ちで病院のスタッフが来るのを待った。
従姉妹と私の母だけは、おばの顔をタオルでふいたり、かいがいしくケアをしていた。
私は、何もすることができず、混乱した気持ちで、ただただ座っていた。

ナースコールが押されてから数分たって、看護師さんと介護スタッフの方がやってきた。
介護スタッフの方は、場違いともいえる大きな明るい声で、「○○さん!聞えますか!○○さん!がんばって!」と繰り返し呼んでいた。

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末期ケアの現場というのは、とても過酷だ。

あんなに過酷な場であるにも関わらず、ケアワーカーは明るく元気に仕事をすることを期待されている。激しい感情労働だと思う。このケアワーカー達のふるまいに、患者や家族は、ほんの少し気を紛らわすことができる。

おそらく、ケアワーカー自身も、あえて空気をよまないようにしているのではないか。現場の空気をよみすぎると、とてもじゃないけれど精神がもたないのではないか。空気をよまないことで、正気を保ったり自分を鼓舞したりしているのではないか。

私の母は、長く介護の現場で働いてきた。母も空気をよまない人で、時々、場違いなことを言って空気を凍らせる。母のことは嫌いではないけれど、少し変わった人だと思っていた。

でも、あの病室で母は確実に役にたっていた。
母はするべきことをきちんとしていた。
最後まで弱音をはかなかったおばでさえも、うちの母には頼みごとをしやすかったようで、夜中に「あれをしてほしい」「ここをさすってほしい」と言っていたらしい。

私は、ちゃんと私の家族を看取ることができるんだろうか。
空気に流されずに、自分を鼓舞して、家族をケアすることができるんだろうか。
死生観、ケアのあり方、介護職の役割についてなど、いろいろと頭の中をめぐる。
私は信念にのっとって行動する。私は行為に重きを置く。実効性のある行動をとりたいと思う。

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安楽死や自殺幇助が合法化された国々で起こっていること 児玉真美 (SYNODOS JOURNAL)

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2012年11月 9日 (金)

神戸は特別な街だと思う

少し前に、神戸の中心部の商店街の方にヒアリング調査に行った。その方は、商店街組織の長をされている方なのだけれど、とても話好きな方で、面白いお話をたくさんしてくださった。

調査の内容はここでは詳しく書けないのだが、ヒアリング調査の内容は、主に道と賑わいに関するもの。神戸市では、商店街とさまざまな協定を結んでいる。それらの協定は、商店街の方の意識が高いからうまくいっているということがよくわかった。儲けたいではなく賑わいを作りたい、神戸らしい素敵な商店街にしたいという姿勢がすごくよかった。

ルミナリエについても話をうかがった。ルミナリエは、阪神大震災の鎮魂のために始まったもので、毎年たくさんの方が訪れている。だが、交通警備が強すぎて誘導経路から外れることができないため、ルミナリエだけ見て神戸の街をまったく見ないで帰っていってしまう人も多いらしい。神戸は散策するのが楽しい街なのに、ルミナリエを見るためだけに観光バスで乗り付けてきて、街をみないで帰ってしまうのは神戸の楽しさを分かっていない。そういうイベントの開催の仕方や観光客の姿勢は、街を廃らせてしまう。

お話してくれた方は家具屋さんを経営されていて、本業のお話も興味深かった。元々、居留地に住んでいた外国人の家具の修理から始まったお店らしく、創業から140年がたっている。輸入家具ではなく、すべて国内の木材を使った国産の家具で、洋風の家具なのに日本人の生活に調和している。神戸にはここの家具のファンが多いらしく、嫁入り道具をここで揃えるのは自慢になるのだとか。

どの家具も素敵だったのだけど、オーダーメイドの椅子が特に魅力的だった。日本では、椅子というと、応接間の椅子のように誰でも座ることができる椅子ばかりが作られてきていて、ある個人しか使わない椅子は ほとんど作られてこなかった。ここ10年くらい、個人のための椅子にニーズが出てきたらしい。特に、身体の小さな女の人が楽な姿勢で読書をするような椅子に対するニーズが大きいらしい。サンプルとして置いてあるものに座らせていただいたのだが、座面が程よい固さで、背もたれもふんわりしているし、肘掛けには窪みがあって、座りやすかった。これが自分のサイズにあったものだったらさらに座りやすくなるんだろう。

今回の調査で、神戸は、他の街と違って、西洋文化がこなれた形で根付いている街だというのを改めて感じた。

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神戸は素敵な街だ。異人館をはじめ洋風建築が似合う街。パン、洋菓子をはじめ洋風料理が美味しい街。六甲山がすぐそこに迫っているため坂が多く、魅力的な景観を作っている。神戸はファッションの街でもある。私は大学生の頃神戸の古着屋に何度か行った。アメ村とかに比べるときれい目の上品な古着が多くて大好きだった。女子高生の持ち歩くファミリアの手提げ鞄、フリルなどをふんだんに使ったフェミニンなファッションの女子大生たちなど神戸独特のファッションを見るのも好きだ。神戸の人たちの「神戸大好き!」という地元愛も羨ましい。

神戸の魅力を感じることができる漫画として、「神戸在住」という漫画がある。昨年、友人に紹介されて読んだ。

この漫画は、神戸の美大に通う女子大生の桂が主人公で、彼女の日常生活を通して神戸の都市としての魅力が描かれている。

桂はもともとは東京の育ちで、大学入学と同時に神戸にきた。桂の神戸に対する視線はとても繊細だ。その繊細さは、次のような台詞の中によく表れていると思う。"ふるさとは東京。我が家は神戸" "街の空気に馴染むという事は そこに幸せな人間関係を作る事なのかもしれない"

桂は毒がない"良い子"なので、基本的に話はまったりとすすんでいく。それでも、何でもない日常に、阪神大震災は影を落としている。神戸は阪神大震災をふまえないと語れない土地だというのに、たびたび気づかされる。

3巻は、林君の避難所ボランティアの話。災害ボランティアというのが、当時は一般的ではなかった。個人の裁量に多くのことが任され、役所の対応は後手後手にまわっていた。漫画でこの手のことを描かれるのは稀だと思う。たんたんとした筆致で、しろっぽいあっさりとした絵で描かれている。

私もこの主人公と同じように、阪神大震災の後に関西にきた。当事者じゃない私は震災について語るべきじゃなかったし、神戸の人達に震災について話題をふることは怖くてできなかった。

私は、神戸に対してずっと距離をとってきた。それは阪神大震災や災害復興とも距離をとってきたということでもある。東日本大震災にとはさらに距離がある。災害にどう対峙するのかというのは、私の仕事や研究においても、私的な領域においても、重要な課題になってきている。今後、よくよく考えていきたい。

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2012年11月 3日 (土)

わすれます わすれます. なにもかも わすれます

 「大島弓子が選んだ大島弓子選集」を少しずつそろえている。

全巻で7巻だから一気に揃えてもいいのだけど、自分の読むペースに合わせて買いたいから、何かがひと段落したら自分へのご褒美として買っている。安いご褒美だ。

私は大島弓子の物語を偏愛している。私が大島弓子を愛してやまないのは「救われる」気がするから。物語の中に救いを求めるというのは、読み方として稚拙なんだろうけれど。

大島弓子は、怖いことをさらりと描く。ぼやぼやしていると、時々、心を抉りとられる。でも、最後に、なんらかの解決をもって物語は終わる。その解決に私は救われるように思う。

大島弓子は、重いものを軽く、軽いものを重く描く。 その対象の扱い方に救われるようにも思う。どんなヘビーな内容でもやさしい浮遊感がある。

今回買った選集第5巻「ダリアの帯」は、ちょっとすごかった。

青年期に戻る痴呆症の老人、中絶により精神に不調をきたす新妻、宇宙人と寄り添う彼は精神科に入院している……。どの作品も、世の中と折り合いをつけられない人達ばかり。死の匂いのするお話も多かった。

表題作の「ダリアの帯」は、特にすごかった。 読み終わった時、心が遠くに持ってかれた。

他の人に惹かれていく夫、流産を機に発狂する妻 黄菜(きいな)。

黄菜が病んでいく過程が怖かった。黄菜は少しずつ少しずつ病んでいくんだ。冷蔵庫を開けて、ぼーっとしていたら、すごく時間がたっていたとか。 家に来てくれた生母に、自分が感じていた母との確執を訴えるとか。気持ちが離れたオットへの妄執とか。

恋をしたことのある人なら誰でも知っていると思うのだが、妄執は本当に辛い。双方向の愛は美しいものであったのに、一方通行の愛は醜いものになる。愛されないことも辛いが、愛を受け取ってもらえないことはもっと辛い。自分に愛を向けていない人に執着する自分は醜い存在だと思うから、すべてを無しにしたい、忘れたいと願う。その忘れたいという願いがまた心に負担をかけて、心を狂わせる。

「わすれます わすれます. なにもかも わすれます. なにもかも わすれて. 生きなければなりません」

黄菜が狂うきっかけは、中絶と夫の浮気かもしれないけれど、2人のおうちという閉ざされた空間、若くして結婚して世の中と繋がっていないことなんかが、狂いの下地になっていったように思う。閉じた世界は、逃げ場がない。

最終的に、夫は狂った黄菜の愛を受け入れて、2人で山奥で農業をして暮らす。夫は60歳まで生きて、死体は黄菜に埋められる。

黄菜はその後も年を取らないまま、生まれなかった子ども、死んだ夫、森羅万象と会話をして暮らす。閉じた空間によって培われた狂気が、自然の中と調和して、物語は終わる。

こんな怖い話なのに、ふわふわしたハッピーエンドというのがすごい。

現実世界だったら、旦那さんはじめとする周囲の人の初期対応がまずかったと思うし、二人で山奥で暮らすなんて、妄想や幻聴がひどくなるの当然じゃないかと思う。

現実世界ではありえないし、暴力的だとすら思うのだが、二人の閉じた世界が自然と調和するという終わり方はとても美しいし、羨ましい。私も、愛する人と二人で、閉ざされた世界でままごとみたいな日々を過ごしたいもの。愛する人が亡くなったら、お葬式なんていう社会的な儀式をしないで、土に戻したいと思うもの。

■参考

忘れます忘れます 大島弓子「ダリアの帯」

くるしいほど好き

大島弓子さんの「ダリアの帯」を読む - 賽ノ目手帖 -

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