僕と契約して絶望の海を乗り越えてよ
今期はまってみていたアニメ「悪の華」が、あまり話が進まないまま、第一部完となってしまった*。
今期はまってみていたアニメ「悪の華」が、あまり話が進まないまま、第一部完となってしまった*。
2013年6月の読書メーター
読んだ本の数:22冊
読んだページ数:3577ページ
ナイス数:7ナイス
監督不行届 (Feelコミックス)
読了日:6月30日 著者:安野 モヨコかえるのオムライス (創作えほん)
読了日:6月30日 著者:マット かずここねこのぴっち (岩波の子どもの本)
読了日:6月30日 著者:ハンス・フィッシャーうさぎさんてつだってほしいの
読了日:6月30日 著者:シャーロット・ゾロトウ森の絵本 (講談社の創作絵本)
読了日:6月30日 著者:長田 弘チリとチリリうみのおはなし
読了日:6月30日 著者:どい かやチリとチリリ
読了日:6月30日 著者:どい かや空が灰色だから5(完結)(少年チャンピオン・コミックス)
読了日:6月24日 著者:阿部共実空が灰色だから 4 (少年チャンピオン・コミックス)
読了日:6月24日 著者:阿部 共実地域空間の包容力と社会的持続性
読了日:6月22日 著者:阿部 大輔,的場 信敬うさこちゃんのたんじょうび (2才からのうさこちゃんの絵本セット1) (子どもがはじめてであう絵本)
読了日:6月15日 著者:ディック ブルーナ花男 (3) (Big spirits comics special)
読了日:6月15日 著者:松本 大洋花男 (2) (Big spirits comics special)
読了日:6月15日 著者:松本 大洋花男 (1) (Big spirits comics special)
読了日:6月15日 著者:松本 大洋ルポ 貧困大国アメリカ II (岩波新書)
読了日:6月12日 著者:堤 未果ルポ 貧困大国アメリカ (岩波新書)
読了日:6月11日 著者:堤 未果大王 (Cue comics)
読了日:6月8日 著者:黒田 硫黄ボランティア―もうひとつの情報社会 (岩波新書)の感想
ボランティアする側とされる側は相互依存性がある。ボランティアに関わるということは、自らを他者から攻撃を受けやすい状態(バルネラブル)におくことである。”ボランティアはどうして、あえて自分をバルネラブルにするのか。それは、問題を自分から切り離さないことで「窓」が開かれ、頬に風が感じられ、意外な展開や不思議な魅力のある関係性がプレゼントされることを経験的に知っているからである。”
読了日:6月4日 著者:金子 郁容移動の制約の解消が社会を変える―誰もが利用しやすい公共交通がもたらすクロスセクターベネフィットの感想
1994年にイギリスで発表された"Cross-sector benefits of accessible public transport"の和訳。当時のイギリスは、公共交通部門のバリアフリー化に多大な費用がかけられており、その費用の説明根拠としてこの書類がつくられたときいた。この本にまとめられたものは、いずれも概算であるが、クロスセクターベネフィットという考え方として重要だと思う。
読了日:6月3日 著者:アンドリュー フォークス,ブライアン ヘイザー,フィリップ オクスレー市民科学者として生きる (岩波新書)の感想
専門性を持った科学者が、狭いアカデミズムの枠を超え、市民の立場で行動することの可能性と意義。現状の反原発運動にこそ、アカデミズムと市民を繋ぐ高木仁三郎さんのような存在は必要なのだが…。惜しい人を亡くしてしまったと思う。
読了日:6月3日 著者:高木 仁三郎建築に夢をみた (NHKライブラリー)
読了日:6月3日 著者:安藤 忠雄サブカルチャー神話解体―少女・音楽・マンガ・性の30年とコミュニケーションの現在
読了日:6月3日 著者:宮台 真司,大塚 明子,石原 英樹
2013年5月の読書メーター
読んだ本の数:8冊
読んだページ数:2366ページ
ナイス数:12ナイス文庫 銃・病原菌・鉄 (下) 1万3000年にわたる人類史の謎 (草思社文庫)
読了日:5月28日 著者:ジャレド・ダイアモンドパタン・ランゲージ―環境設計の手引の感想
この本の核心となる考え方は、人々は自宅や街路やコミュニティを水かあらの手で設計すべきというものである。世界の美しい場所のほとんどが建築家以外によってつくり出されたという事実に基づいている。「パタンは言語であり、パタンランゲージは文法であり、そして建物は文章である。つまりパタンという環境成分に関する人間の記憶の集積をパタン・ランゲージという文法を使って組み合わせていけば、無数の新しい環境を設計できるというわけだ。」
読了日:5月28日 著者:クリストファー・アレグザンダー図説・都市の世界史 4 近代の感想
産業革命の環境、、後期自由都市、近代都市、今日の状況まで。もともと建築学科の学生の教科書として書かれたもの。図や写真が多いため、授業の参考図書としてよさそう。
読了日:5月28日 著者:レオナルド・ベネーヴォロクルマと道路の経済学
読了日:5月22日 著者:神戸在住(9) (アフタヌーンKC)の感想
洋子ちゃんの帰国。雑人工場の演劇のお手伝い。伊達先生の桂ちゃんや鈴木さんへの視線がいいなあ、よくみてはるなあと思った。
読了日:5月22日 著者:木村 紺スローなカフェのつくりかた―暮らしをかえる、世界がかわるの感想
後半のスローカフェリストはなかなかよい。これを参考に、出張した時にあちこち行ってみるといいかも。
読了日:5月22日 著者:驚きの介護民俗学 (シリーズ ケアをひらく)の感想
面白かった。著者は東北大准教授を経て養護老人ホームに介護職員として勤務している。どの高齢者の話も興味深く、私もこういうふうに話を聞きたいと思った。介護現場の聞き書きは、介護する側とされる側との関係を一時的に非対称性から解放し逆転させる。|著者が大学を辞したきっかけが将来に対する不安というのは衝撃だった。結婚したからといって将来が安心なわけでもない。こんなに優秀な方でも、世間様の常識にがんじがらめになっていたというのが、何とも辛い。多様な女性の生き方を知ることで、著者が励まされたというのには安心した。
読了日:5月22日 著者:六車 由実よみがえれ青い空―川崎公害裁判からまちづくりへの感想
川崎の大気汚染公害裁判に携わった弁護士による著書。公害被害者が、自らの被害救済だけにとどまらず、まちづくりに対して提言を行い、行政にはたらきかけを続けている。公害は必要悪なのでは決してなく、住民の住みやすさを向上させながら都市を成長させなければならないという願いが込められている。
読了日:5月22日 著者:篠原 義仁
読書メーター
「大島弓子が選んだ大島弓子選集」を少しずつそろえている。
全巻で7巻だから一気に揃えてもいいのだけど、自分の読むペースに合わせて買いたいから、何かがひと段落したら自分へのご褒美として買っている。安いご褒美だ。
私は大島弓子の物語を偏愛している。私が大島弓子を愛してやまないのは「救われる」気がするから。物語の中に救いを求めるというのは、読み方として稚拙なんだろうけれど。
大島弓子は、怖いことをさらりと描く。ぼやぼやしていると、時々、心を抉りとられる。でも、最後に、なんらかの解決をもって物語は終わる。その解決に私は救われるように思う。
大島弓子は、重いものを軽く、軽いものを重く描く。 その対象の扱い方に救われるようにも思う。どんなヘビーな内容でもやさしい浮遊感がある。
今回買った選集第5巻「ダリアの帯」は、ちょっとすごかった。
青年期に戻る痴呆症の老人、中絶により精神に不調をきたす新妻、宇宙人と寄り添う彼は精神科に入院している……。どの作品も、世の中と折り合いをつけられない人達ばかり。死の匂いのするお話も多かった。
表題作の「ダリアの帯」は、特にすごかった。 読み終わった時、心が遠くに持ってかれた。
他の人に惹かれていく夫、流産を機に発狂する妻 黄菜(きいな)。
黄菜が病んでいく過程が怖かった。黄菜は少しずつ少しずつ病んでいくんだ。冷蔵庫を開けて、ぼーっとしていたら、すごく時間がたっていたとか。 家に来てくれた生母に、自分が感じていた母との確執を訴えるとか。気持ちが離れたオットへの妄執とか。
恋をしたことのある人なら誰でも知っていると思うのだが、妄執は本当に辛い。双方向の愛は美しいものであったのに、一方通行の愛は醜いものになる。愛されないことも辛いが、愛を受け取ってもらえないことはもっと辛い。自分に愛を向けていない人に執着する自分は醜い存在だと思うから、すべてを無しにしたい、忘れたいと願う。その忘れたいという願いがまた心に負担をかけて、心を狂わせる。
「わすれます わすれます. なにもかも わすれます. なにもかも わすれて. 生きなければなりません」
黄菜が狂うきっかけは、中絶と夫の浮気かもしれないけれど、2人のおうちという閉ざされた空間、若くして結婚して世の中と繋がっていないことなんかが、狂いの下地になっていったように思う。閉じた世界は、逃げ場がない。
最終的に、夫は狂った黄菜の愛を受け入れて、2人で山奥で農業をして暮らす。夫は60歳まで生きて、死体は黄菜に埋められる。
黄菜はその後も年を取らないまま、生まれなかった子ども、死んだ夫、森羅万象と会話をして暮らす。閉じた空間によって培われた狂気が、自然の中と調和して、物語は終わる。
こんな怖い話なのに、ふわふわしたハッピーエンドというのがすごい。
現実世界だったら、旦那さんはじめとする周囲の人の初期対応がまずかったと思うし、二人で山奥で暮らすなんて、妄想や幻聴がひどくなるの当然じゃないかと思う。
現実世界ではありえないし、暴力的だとすら思うのだが、二人の閉じた世界が自然と調和するという終わり方はとても美しいし、羨ましい。私も、愛する人と二人で、閉ざされた世界でままごとみたいな日々を過ごしたいもの。愛する人が亡くなったら、お葬式なんていう社会的な儀式をしないで、土に戻したいと思うもの。
■参考
紹介が続きますが。
6/4の日経新聞朝刊の文化面*に掲載されていた野菜楽器を作る小山淳志さんのエッセイが、とても面白かった。
ジャガイモ、キャベツ、大根、ネギ、ゴボウ、パプリカ、リンゴ、スイカなど、50種類以上の野菜や果物を使って野菜楽器を作ってきたとか。ナスは軟らかすぎて音がうまくならない、パインは繊維が多すぎて楽器に成形できなかったらしい。
「野菜楽器」作りを始めてから、スーパーの野菜コーナーが全く違って見えるようになったとか。同じ野菜でも旬や品種によって作りやすさが違うらしい。例えば、リンゴ笛では、「陸奥」が一番削りやすく音の鳴りのバランスがよいらしい。
そうか、陸奥かー(私はこの手の職人的なこだわりを聞くのが大好き)。
楽器としての役割を終えた野菜楽器は、カレーや煮物として活用されるとのこと。昨年、念願の「マイ冷蔵庫」を購入されたそうだ。家族の冷蔵庫に野菜をいれておくと、「楽器にするの? 食材にするの?」と責められていたとか。
野菜楽器、作ってみたいなあ。作るのも演奏するのも難しそうだけど。
Introduction of handmade vegetable musical instruments
野菜楽器の紹介動画。小山淳志さんの本職は小学校の先生であるらしい。表情や動きが小学校の先生らしい、サービス精神あふれるパフォーマンスで、見ていてほのぼのとする。
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* 日経新聞朝刊の文化面は、素晴らしい。世の中にはこんなに面白いことをしている素敵な人がたくさんいるんだというのに気付かせてくれる。
今まで、ノコギリ奏者のサキタハヂメさん、薬袋のコレクションをしている方、東京スリバチ学会の会長など、多種多様の魅力的な人々をたくさん紹介している。毎日のささやかな楽しみのひとつ。
少し前に、テレビで「耳をすませば(耳すま)」が放映された。ジブリの映画は夏になると、新作が封切られるので、この時期になると必ず放映される。この映画、鬱映画として有名で、この映画で描かれている中学生の恋愛があまりにもキラキラと輝きすぎていて、自分の中学生時代と比較して、鬱入っちゃうらしい(もちろん、私も鬱入るよ!)。最後のシーンとか、なんだよ、あれ。見るたびに、赤面して身もだえするよ!
というのは、さておき。この映画は多分多摩ニュータウンを舞台にしている(友人に指摘されたのだが、平成狸合戦ぽんぽこも同じ多摩ニュータウンを舞台にしている)。ジブリの映画は、ロケハンを綿密に行っている。宮崎駿という監督は、郊外やニュータウンを肯定的に捉えていないという印象があったので、この映画でのニュータウンの書かれ方は少し意外だった。
耳すまの主人公が住んでいる家は、旧都市公団のものだと思われる真ん中に階段室のある団地だ。3DKで物があふれている狭い家。大学生の姉と中学生の妹が同じ部屋を共同で使っている。家の周りには坂道がやたらと多い(最後の主人公たちが自転車で駆け上がる道は、路面に急勾配のための滑り止め加工がされている)。そういう普通の郊外の生活が丁寧に描かれている。(モデルとなった土地については、こちら等をどうぞ)
宮崎駿監督の他の作品のヒロインは、何か大きな運命の渦中にいて、何やら大変なものに立ち向かっている。でも、耳すまでは、何の変哲もない中学生の少女の恋愛を描いている。その舞台として、ニュータウンを選ぶというのは、なかなか心憎いと思う。ニュータウンは、まったくもってストーリーを邪魔しない。なおかつ、今、多くの人が郷愁を抱くことができる風景なんじゃないかなぁと。ニュータウンに住んでいる私たちにとっては、田舎の風景はテーマパークのようでリアリティは全くないのだ(例えば、サマーウォーズで描かれている田舎の風景は、憧れの場所ではあるが、私には郷愁の念は起きない)
家族で「アリス・イン・ワンダーランド」を見て来た。映像がとても美しくて、うっとり。優美で残酷で不気味なティム・バートンの世界。3Dで見れてよかった。3Dで見ないと意味のない映画だった。子どもは何回も手を伸ばして、映像を触ろうとしていた。音楽はティム・バートンといつもタッグを組んでいるダニー・エルフマン!物語を大げさにひきたてる美しい音楽。
キャスティングも素晴らしかった。アリス役のミアは、不機嫌そうな表情をさせてもかわいい。大人になる前の不安定な美少女の雰囲気がよく似合っている。白の女王役のアン・ハサウェイは、自分の手は汚さない故の残酷さを醸し出していて、浮世離れた感じが。目も眉も唇もしっかり! 私は、この手の過剰な感じの美女が大好きだ。
そして、ヘレナ・ボナム=カーター!!! 不気味でかわいくて残酷な赤の女王。あんな特殊メイクされているのに、ヘレナ・ボナム=カーターにしか見えない。ファイトクラブでは全ての幸せを吸い取る暗黒惑星のような彼女だったのに。すごく演技の幅が広くて、雰囲気があって素敵だ。
- - - - (一応ネタバレ注意)- - - -
この映画は、映像と音楽の美しさを味わう映画。えーと、正直言ってストーリーはつまんないですよ。少女がある出来事を通して自分で人生を選択するという、ありがちな成長譚になっていた。あまりにも、ハリウッド映画的すぎる。私は、アリスには現実と夢の境目のあいまいさを求めているから、この筋の通った物語には納得がいかない。ワンダーランドなのにわけのわからなさが薄いなんて意味がない。意地悪じゃない帽子屋にはがっかり。人の行動や物事にはすべて原因が必要なのか?そうじゃないだろう?物語を楽しみたいなら、テリー・ギリアムのローズ・イン・タイドランドを見るべきか。
(お断り)今回の記事は、ちょっとキモイかも?と思っている。30をゆうに超えているのに、乙女とか恋愛について書いちゃっている自分がキモイよ。それでも、インターネットの世界は広いので、ひょっとしたら気持ちを共有できる人もいるかもしれないし、せっかく書いてしまったのでupするよ。内容は、私が"乙女のカリスマ"嶽本野ばらさんの小説を愛してやまなかった理由について。
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一時期、嶽本野ばらさんのファンだった。「ミシン」が出てから「下妻物語」が映画化された頃まで。
サイン会には2回行ったのだが、すごく面白かった。サインを書いてもらった本を見返したら、1回目は「カフェー小品集」の発売の際で、サインには「lolita de cafe」と書いてある。2回目は「エミリー」の際で、「Born in the lolita」って書いてある。左←はサインの一部。自分の名前を切り抜いてスキャニングしたのだけど、1回目と2回目で、私、名字変わってるぞ。結婚してからも行ってたらしい。
野ばらさんのファンは、ロリータさんばかりなのだけど、ロリータさんにもいろいろいて、彼女たちを見ているだけで楽しかった。白やらピンクのパステルカラーの姫ロリさんやら黒一色で固めたゴスロリさんやら。年齢もバラバラ。10代から30代まで幅広かった。私は、ギンガムチェックでパフスリーブのブラウスとコムデギャルソンの黒のフレアスカートという私なりの精一杯フリフリな格好で行ったのに、すごい普通すぎて、逆に浮いていた。フリル度合いが足りなかった。やっぱり、emily temple cuteとかbaby, the stars shine brightで、全身キメていくべきだった。ウソ。だいいち似合わないし、そんな服を買っても他に着ていく場所がなくて困る。
野ばらさんは、サービス精神がめちゃめちゃ旺盛な人だった。野ばらさんは、トッカータとフーガの派手な前奏と共に、何やらポーズを決めながら登場した。雑誌や本の奥付などで見たまんまの黒づくめの服装で、華奢で、髪の毛はウェットで、王子様みたいだった(笑。ま、当時はそう見えたのですよ)。野ばらさんの隣りで、本屋さんが笑いをこらえていた。本にサインを書いてくれたあと、握手もしてくれて、写真も一緒に撮ってくれた(キャー)。写真を撮ってくれるときに、野ばらさんはお澄ましポーズをしていて、すごくすごくかわいらしかった。写真を見ると、並んで立っている私、今よりも全然痩せていたはずなのに、えらいごつく見えるわ(←の写真は10年前ぐらいなので、今とほとんど顔が別人っす)。
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さてさて。嶽本野ばらさんの何に魅かれていたかというと、ロリータなところとかナルシストところだけじゃない。私は、野ばらさんの価値観に強く心惹かれていた。乙女というのは孤独で孤高な存在であるということ、そして、野ばらさんの書く小説の主題(私が勝手にそう思っているんですけどね)の
”孤独な魂が、自分の分身とどのように関係を結ぶのか”
というのに強く、心が惹きつけられた。
自分の分身を見つけてしまうというのは、一見幸せなことのように思うが、そうでもないっぽい。野ばらさんの小説の中で、分身との恋物語は、大抵不幸な結末を迎えている。自分の分身のような存在と関係を結ぶということは、とても居心地のよいことだし、孤独感を分かちあうことになる。お互いに多くの言葉を費やさなくても理解し合えるし、自分たちの外の世界と接しなくても過ごせるように思ってしまう。でも、そんな関係は間違いなく閉塞する。自分の分身だと思っても、結局のところは他人なので、自分と違うところの方が多いはずだし。それに、ずっと一緒にいることもできない。いずれは、別々の世界を持って、自分と価値観が異なる人々と接点を持たないといけない。それなのに、1回分かりあえる分身と関係を結んだがために、分身との繋がりが少しでもきれてしまうと、孤独感が増大してしまう。その孤独感は、分身を見つける前より深くなる。
野ばらさんの本は、どれも大好きなんだけど、「エミリー」が一番好きかな。孤独な二人が強く結びついてしまうのだが、強く結びついた時点で主人公はこの関係が長続きしないのを感じ取っている。そこで、寂しい寂しいと泣くのではなくて、この先、大人になって、自分を理解してくれない世界に打ちのめされたとしても、この二人の関係に戻ってくればいい、と強く宣言する。二人の関係が全くの無駄だったかというとそうではなくて、この先、大人になって、生きていく上で必要だという(引用しようかと思い、読み返したら思っていた以上に赤面するような内容だったので、ちょっと引用できない。というか引用できないような本を好きと言っちゃう自分は、やばいっすね)。
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私は、子どものころから、自分の分身を欲していた。子どもの頃は、自分には分身がいるんだと妄想しながら眠りについていた。たとえば、自分には双子の片割れがいるのだが、何かの理由で離れ離れになっていて、いつかどこかで偶然出会うかもしれない、といった感じの。自分の分身は、全く外見は異なっていたとしても、会った瞬間にお互いのことをわかりあえるんじゃないかとか。妄想の中の分身は異性ではなくて、同性であったんだけど。自分の分身がどこかにいるという妄想は、夜の不安から私を逃してくれた。多分、この妄想は、他者に自分の考えを伝えることが不得手だったことに由来している。自分を変えて自分のことを分かってもらうようになりたい、というんじゃなくて、自分を変えたくなくて、そのままの自分というのを分かってくれる人がほしいというのが、とても子どもっぽい(大学生の頃、当時の彼氏にこの話をしたら、どん引きされた。すげーきもいって。妄想癖って、人によっては気持ち悪いことみたい。赤毛のアンとかを読んでいたせいか、妄想癖があるのが普通かと思っていた)。
私は、友人に嶽本野ばらさんの本にはまっていたのを伝えたことはほとんどない。それは耽美的な本が好きな自分を知られるのが嫌だという以上に、孤独なヒロインに自分に共感している自分を知られるのが嫌だった。だって、私、別に孤独じゃなかったんよね。たくさんではないものの信頼のおける友人が何人かいたし、恋人(今のオット)も家族もいたし。多分、自分に不相応なほど、私はみんなに愛されていたと思うよ。それなのに、自分のことを孤独だと思っていたなんて、悲劇のヒロインを気取るにもほどがある。
野ばらさんの小説を読み始めた時期は、大学卒業して、友人もいない金沢で一人暮らしを始めた時期で、自立して独りで生きていけるようにしなきゃと意気込んでいた。強い人間にならなあかんと思ってた。でも、元々が内向的な性質なので、その反動で、野ばらさんの小説に癒しを求めていたんだろうと思う。野ばらさんの小説を読む度に、私は、子どもの頃に夢見ていた分身との遭遇というのをシミュレーションできた。外へと出て行くのを恐れている小さな自分に戻れるような気がして、居心地がよかった。
野ばらさんの本に手を伸ばさなくなったのは、娘の妊娠がわかったあたり。あの頃、子どもができて、私はすごく混乱していた。自分だけでも持て余しているのに、自分が親になってしまうということが怖かった。特に意識したわけではないが、多分、自分の子どもっぽさと決別しようと思っていたのだろう。今もまだ親になりきれていない部分があるし、周りから見たら子どもよりも自分のことばかりしているように見えるかもしれない。でも、自分の中には"子ども>自分"という優先順位がはっきりとある。
公聴会も終わったので、そろそろ小説を解禁しているのけれど、嶽本野ばらさんの小説は、ちょっと後回しにしようかと思っている。多分、以前みたいにのめりこむことができなくて、寂しく感じるから。せっかく大阪にいるので野ばらさんのサイン会も行きたいなぁと思いつつも(だって、以前は金沢から京都までわざわざ行ったのだよ!)、なかなか時間もとれないし、以前みたいに楽しく感じれないように思うので、行動にうつせない。
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私はあんまり文学に詳しくないので、あまり例が思いつかないのだが、多分、分身との恋愛はあちこちの小説にありそう。そして、多くの場合、それは悲恋になっていそう。思いついたところでは、"嵐ヶ丘"のヒースクリフとキャシーとか。"マノン・レスコー"もそうかな。川本真琴の初期の楽曲も、同じ主題を扱っている。"1/2"はタイトルからしてそうで「同じもの同じ感じかたしてるの」と恋愛対象を自分と同一視している。"微熱"では、「別々の物語を今日も生きてくの?」「からまったまんまでひとりぼっちだって教えるの?」と、自分と同一になれない相手との悲恋を予感している。
ええと。大人になってしまった自分が考えるに、多分、自分と感性が似すぎている人間と恋愛しちゃうと、不幸になると思う。自分の分身さんとは、お友達関係でいる方が幸せなんだと思う(ほら、下妻物語の桃子といちごちゃんみたいに)。お友達であれば、始めから生活を共有しないことが前提だし、二人の関係よりもお互いが持っている世界の方が優先順位が圧倒的に高いから、”分かりあえてる”という思いは、それほどマイナスには働かない。恋愛とか夫婦関係においては、生活を共有することになるし、私だけが相手のことをわかってあげられるって思い込んじゃうと、二人の関係とお互いの世界の優先順位が入れ替わっちゃうこともありうる。そして、依存/共依存の関係に陥いりそう。下手にわかりあえていると勘違いすると、お互いのことをわかりあおうとする努力を疎かにしてしまうし。わかりあえない部分があるということを意識することで、適度に距離感をたもつことができて、お互いの趣味や時間を尊重することができる。特に、夫婦関係は細く長く続けないといけないので、距離感を保つことって大事な気がしている。
私は、オットを自分の分身のようには感じていない。オットは私と違って、社交的で自分に強い自信を持っている。自尊心の強さは本当にうらやましい。私もかくありたい。私は、普段は元気にガサツに過ごしているのだけれど、何かあるとすぐ他人に依存しようとしてしまう。でも、オットは私が依存しようとすると突き放してくるので、私達の関係は依存/共依存の関係にはならない、多分。
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嶽本野ばらさんの本をいくつか紹介。ちらりと読み返したら、思っていた以上に、エログロな描写が多くて、うーん、オススメするのはちょっと恥ずかしい感じがしないでもない。ええと、エログロな部分は、さらっと流して読むのがいいですよ。wikipediaには、「性描写の乱用、破滅的なストーリーが多いことがよく批判される」と書かれている。私も初めて読んだ際、乙女な小説だと思って安心して読んでいたら、面喰った。そういうのが嫌な人は読めない。それと、お洋服について、執拗な説明もあるので、そういう雑学を楽しめない人も読めない。
最近、twitter経由でworld's end girlfriendを知った*。めちゃめちゃかっこよくて、かっこよすぎて、聞きながら何度も感動している。すごく繊細なメロディにノイジーな音が被ってくるところとか、ものすごく心が揺り動かされる。繰り返される美しい旋律、何重にも重なる様々な音色。聞くたびにいろんな気づきがあって、曲の中にある世界が奥深く感じる。
人の心を強く惹きつけるものって、二面性を持っていることが多いように思う。world's end girlfriendは、繊細さと歪み(ノイズや不協和音)という二面性を持っている。二面性を持つことで、崩れゆくものが持つ凄みをもった美しさになる。予定調和じゃない、バランスのとれていないものが持つ美しさというか。
■world's end girlfriend "Garden in the Ceiling"
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world's end girlfriend の"Xmas song"が12月だけ下記のページから無料でダウンロードできる。かわいいけれど、かわいいだけじゃない、大人なクリスマスソング。おもちゃ箱をひっくり返したようなかわいい曲だと思って安心して聞いていたら、途中で不協和音に変わっていたりして、あなどれない。
[ototoy] Xmas song / world's end girlfriend
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* twitterアカウントは復帰していないのだけど、何人かの発言はチェックしている。音楽の趣味がすごく合う人がいて、その人がつぶやいているのを追っかけていくと、私の好きな音楽に新たに出会えて、すごく楽しい。ここ数年、80~90年代の音楽とか、トリビュートアルバムとかそういう自分のプレイリストを穴埋めするようなものばかり聞いていた。情報を得る手段がないと、どんどん小さい世界に入っていっちゃうから、少しのことにも先達はあらまほしき事なり、と思う。
** 5曲入っているのに、何で"songs"と複数形じゃないんだろう? 今、うちでは、子どものリクエストにより、「赤鼻のトナカイ」等の子ども用のクリスマスソングもかけているので、音楽的に混沌としている。
今、くるりの「ばらの花」をなんかしついこいほど聞いている。なーんとなく今の気分に合っているというか。通学中も、家でも、お風呂の中でも。
一緒に聞いている子どもが、「僕らお互い弱虫すぎて踏み込めないまま朝を迎える」という歌詞を聞いて、
「何で飛び込めないの?怖いの?私は弱虫じゃないから、プールでも、ちゃんと飛び込めるよ」
と、私のアンニュイな気分を一気に破壊しにくる。
いやいや、飛び込めないじゃなくて、踏み込めないだし。
でも、何に踏み込めないかは、5歳児に説明するには不適切すぎる話題だ。ていうか、お母さんにはうまく説明できる自信がないぞ。踏み込めない方がいい時もあるよね、とか。20歳ぐらいになれば、自然に分かるよね、きっと。
というわけで、娘には、
「高すぎて飛び込めないんだね。怖がりさんなのかな。えび組さんになれば飛び込めるのにね。きっとめだか組さんのままなんだね。」
と、適当に相づちを打っている。聞いたことに真摯に答えるということも大事だろうけれど、誤摩化した方が良い時も多いと思う今日この頃。
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歌に限らず、百人一首とかも、子どもに教えるには不適切な内容だったりするような。「なげきつつ ひとりぬる夜の 明くる間は いかに久しき ものとかは知る」とか。文章の意味は追えても、内容を理解できないような。キスシーンなんかよりもよっぽど困る。
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ここしばらく、頻繁に更新しているのは、少し前に書いた調子悪そげな記事を流してしまうため。それと、大人と話している量が少ないので、何かを吐き出したくなっているのもあるかも。