以前、「モノより思い出」という車のCMのコピーがあったが、私は大嫌いだ。なぜなら私はモノに執着しまくるし、そのモノにまつわるエピソードが大好きだからだ。これはこうゆう由来があって、こういう使われ方をしていて、こういう思いで買って、こういう思いで使い続けているとか、そういう所有者以外にとってはどうでもいいようなことを、思い入れたっぷりに語りたい。モノは思い出を喚起するために私にとって必要なものだ。
職場の方からエクスチェンジというお洋服交換会のお話を聞いた。いらない洋服を持ってきて、欲しい人が持って帰る。いらなくなった服に、どういう経緯のものなのかを書いたタグを付けるんだとか。そのタグ付けがあることで、もらった人は、元の持ち主の思い出に、思いを馳せることができる。リサイクルだけではなくて、見知らぬ人同士がささやかな物語を共有する仕組みなんだそうな。
似たような話をかなり前に探偵ナイトスクープでみた。お古でもらったベビーバスに、それを使った子どもの名前がたくさん書いてあった。名前を辿って、ベビーバスを共有した子ども達に会いに行くいう内容。一代前は知り合いでも、二代前は見知らぬ人だったりして、細い細い繋がりがわかって面白かった。
昔であれば、同じ地域に住んでいる、あるいは親戚というだけで、否が応でも同じ物語を共有させられた。今はコミュニティの強制力が減ったせいで、誰とも物語を共有できていない。今、人を集めようとする時、いろんな人の間で共有できるささやかな物語を提示できるかどうかが鍵なんだと思う。
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地域活性化もコミュニティ再生もお題目としてはとても大事だと思う。でも、それは、あまりにも大きすぎる。地域に住んでいる一人ひとりの生活とのつながりがわかりにくい。そういうことを考えなくても、関わらなくても、普通に生活できるではないかというふうに思う人が多いと思う。
私が佐用町江川で関わった住民主体型の地域バスの取り組みは、"地域の維持をめざして「身の丈にあった移動手段」を住民で確保するという物語"を地域みんなで共有できるかどうかが、継続するための鍵だと思っている。この物語を共有するためには、「車以外の生活手段を確保することが地域にとって大事なんですよ」、「住民が交通に関わることは公共性を高めるために大事なんですよ」といったお題目だけ唱えていても共有できない。
まず、運行に至るまで、丁寧なプロセスを踏むこと。地域全体の外出状況や地域バスへの賛否に関するアンケート調査、移動に困っている人たちへのヒアリング調査、20回以上にわたる検討会議、2回の試験運行、ボランティアさんの募集、ボランティアさん同士による意見交換の場。そういうプロセスを有志の方々とともに、一つ一つ丁寧に踏んだ。
そして、運行後の地域内の便益。隣近所のおじいさん、おばあさんが地域バスがない時には月に1回しかお肉を買いにいけなかったのに今は週に1回はお買い物にいけて便利だと言っている(使用価値の確認)、将来的に車が使えなくなったら地域バス使うかもしれない(オプション価値の確認)といったこと。地域バスの運行に関わる人たちが「利用者に感謝してもらえた」と喜ぶこと(内部の承認)。運行に関わっていない人達にきちんと地域バスに関する情報を知らせること(地域内部の承認)。住民主体型のバスの運行に関する新聞が書かれること、他の地域が視察にくること(地域外部からの承認)。
こういうささやかな物語がたくさんあって、それぞれが網目のように複雑にからみあうことが、地域の住民同士が大きな物語を共有するためには必要なんだと思う。これらのささやかな物語を、地域内の人達が少しだけ意識しやすいようにするのが、私達みたいな外部の人間ができることだ。
佐用町江川の地域バスの取り組みは、運行開始までに4年間の歳月がかかっている。その歳月は、傍からみると時間がかかりすぎているし、仕事として取り組めるものではない。研究活動を兼ねたボランティアだからずっと関われた。今となって振り返れば、たくさんのささやかな物語を積み重ねるために必要な時間であったと思う。途中、水害のせいで活動が止まったり、内部で小さな行き違いがいくつかあったり、一筋縄ではいかなかったこともたくさんある。きっとこのバスの運行にまつわるたくさんのささやかな物語は、他のまた新たな大きな物語を共有することに繋がっていくと思う*。
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今、他者と共有できる物語を上手に提示しているなあと思うのが、一部の新興宗教やエコ活動。
熊森の活動なんか、都市のドングリで山のかわいい熊さんを助けるというわかりやすい物語。言葉悪いかもしれないが、あまり物事を深く考えなくて、簡単に善人になりたい人の心に触れる物語だと思う。(※熊森の活動については、私は
「ならなしとり」や
「野生のクマをなんとか助けたいと考える皆さんへ-紺色の人」といった方々の意見に賛同しています。誤読なきよう)
”善人”になる物語を誰かと共有しようとするのは、危険だ。というか考えが浅はかだ。どんな物事にも良い面と悪い面があって、一方的に善いことなんかできるわけない。悪い面を引き受ける覚悟と、善悪の判断で揺れる葛藤が必要だろう。そういう覚悟と葛藤を受け入れる覚悟がないと、自分の意図しない偽善や悪意に、自分の好意が勝手に使われることになる。偽善は、場合によっては悪よりたちが悪い。
他人と共有する物語は、まず、「山場もない」「おちもない」「意味も無い」**というのが安全だと思う。そういう、だからなんなん?って感じのささやかな物語の膨大な蓄積があった上で、初めて、大きな物語を共有するのが良い。そういう物語の重層性がないままに、大きな枠の物語だけを欲するのは虫がよすぎる。
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*自画自賛が過ぎるかもしれないけれど。多分、私が関わった物事の中でもかなりうまくいっていることの一つです。反省点もあるけれど、それは、また別途。
**頭文字をつなげると「やおい」ですけど、一般的にいわれる「
やおい」のことじゃないですw。私、森茉莉も栗本薫も読んでいましたが、
腐女子じゃないし、その手のことは特別な興味は持っていません、残念ながら。