都市・交通・まち

2012年10月26日 (金)

知らない人を呼び込むことには抵抗があるらしい

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ある市の農業振興協会の方が言っていたお話。

農家が高齢化していて、遊休農地が増えている。

農地は2年も放っておいたら、もう使えない。

そこで、遊休農地を市民農園として貸し出してはどうかという話をするのだが、それに対する抵抗感がかなり強いのだとか。

自分の土地に見知らぬ他人が入ってくるのが許せないらしい。

人にかし出せば農地も荒れないし、賃料も得ることができるのに。

同じようなことを商店街でもきく。

閉めた店舗なのに、知らない人に貸し出すのが嫌だから空き店舗のままにしているとかなんとか。

確かに、見知らぬ人はとても怖い。

あんまりオープンにしていると、カオナシのような何かを呼び込んでしまってトラブルに巻き込まれることもある。

制度化し、行政等が仲立ちで入ると、知らないことへの敷居は若干下がるけれど、それでは柔軟な運用ができなかったりするし。

もっと気軽に見知らぬ人同士が繋がれるようになれないのかなあ。

人の気持ちを変えるのは難しい。難儀だ難儀だ。

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2012年10月10日 (水)

平城宮跡の埋め立て造成工事に反対です><

近鉄奈良駅から電車に乗って、新大宮駅を少し過ぎると、平城宮跡が見えてくる。

近鉄電車は窓が大きくて、景色を眺めるのに向いている。

発掘が遅れたせいで、宮跡の真ん中を近鉄電車が突っ切っている。

少しずつ発掘をすすめながら復元作業を行っていくらしいのだが、今のところはほとんどが野っ原のまま。

このまま野っ原であってほしいなあ。

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とかのんびり思っていたら、平城宮跡〈埋立て・舗装工事〉の埋め立て造成工事がすすんでいる。はー。

私は平城宮についても景観や生態系保全について、あまり詳しくないのだけれど、個人的には、この埋め立て工事には反対です。地域住民との話し合いを十分にとらずにすすめた国交省のやり方は、拙速すぎると思っています。

緑地、木簡は? 平城宮跡中心部で舗装進む 国営公園化に伴う整備の是非、市民に関与の機会なく(ニュース奈良の声)

往時の平城宮の広がりが 甦 ります。(国交省)(PDF) 

■埋立て工事に反対している市民活動のページ

世界遺産 平城宮跡〈埋立て・舗装工事〉の即時中止を! 平城宮跡を守る会

署名もありますので、賛同される方はぜひ。

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2012年9月22日 (土)

視点を変える

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 たまたまテレビをつけたら、都市景デザイナーの韓亜由美さんが街を面白がるためのコツとして「鳥の視点、猫の視点でみてみよう」と言っていた。そうすると、普段良く見慣れている街も違って見えるって。

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 うちから最寄駅までの間で6匹くらい猫を見かける。
 猫を見かけると、ついつい写真を撮りたくなる。

 外にいる猫は、人間が姿勢を低くすると、こちらの様子をじっとうかがってくる。
 そしてすぐ目線を外して、こちらのことなんて気にしてないという素ぶりをする。
 こちらが動くと逃げていってしまう。
 だから、あまり動かないように気をつけて息を殺してネコを観察したり、iPhoneで写真を撮ったりする。

 姿勢を低くしてiPhoneを構えていると、猫に近い視点から街を見ることができて楽しい。
 たとえば、こんなところに溝があったのかという感じで、街には意外と隙間が多いことにきづく。

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 地図っていうのは、鳥の視点なんだよなあ。

 私はまだやったことがないのだけれど、GPSで地上絵を描くのは、鳥の視点を持ちながら地上を歩くことだと思う。いつかやってみたい><

 → GPS地上絵はこちら。「体長2.5kmの馬の絵を描く」(@nifty デイリーポータルZ)


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 江國香織さんの「都の子」というエッセイ集を読んだ。子どもの頃の思い出などを綴ったエッセイ集。
 一つ一つは小さなエピソードで、生活に紛れて忘れてしまうようなことを、江國さんは繊細な文章で愛おしそうに書く。
 その感性を羨ましく思いながらいくつかのエピソードは、私の心にもすとんと落ちるものがあった。
 中でも、階段に関する話がすごくよかった。

小さい頃、家じゅうで一番安心な場所は階段の途中だった。一人でぽつんと腰かけて、ただぼんやりしている。白くてざらざらした壁にほっぺたをつけると、ひんやりしていて気持ちよかった。一年に何日か、風の強い、それでいて湿気の多い日があって、そういう日は階段全体に、特別な匂いがした。しめった木の、つめたい匂い。それは、雨戸のあけたての匂いと少し似ていた。 階段は、降りるときには一段ずつが全部椅子になっていて、上がるときには、一段ずつが全部机になっている。それがとても合理的な、すばらしいことに思えた。
子どもが階段を好きなのは世界共通のことらしく、ミルンの「クマのプーさん」にも、アーノルド・ローベルの「ふくろうくん」にも、階段をめぐるチャーミングな描写がある。そしてそれは、階段の構造や涼しさ、灯りの感じのせいばかりではなく、「一人になれる」感じのせいだと思う。階段に腰かけてゆっくり思い出してみるに、子どもは孤独を、それはそれは愛しているのだ。

 階段は、高さの異なる所をつなぐ通路で、通常、人はそこで留まらない。
 だから、容易に一人になれる。
 
 幼稚園で一番鮮明に思い出せる場所は階段だ。
 よく、階段に一人でぽつんと腰かけて、絵本を延々と読んでいた。
 どんな絵本を読んでいたのか思い出せないけれど。

 階段に座ると目線が変わるのもいい。普段見慣れたものが少し違って見える。

 街の中に階段があると、不便だと思いながらも、ついつい喜んで上り下りしてしまう。
 この上下移動によって視点がどんどん変わっていくというのがうれしくて仕方ない。
 そして、はしたないことかもしれないけれど、階段に腰をかけて街を眺める。
 
 江國さんの文章を読んで、私も階段が好きだったというのを思い出した。一人でいれるということ、視点を変えるということの楽しさを教えてくれたのは、階段だった。

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2012年9月21日 (金)

他人の日常に入り込むことほど、非日常感を味わえることはない

 少し前に、ささやかな用事があって鳥羽に日帰りで行った。

 一時間だけ鳥羽駅の周辺をぐるぐると歩いた。

 鳥羽駅を出ると、すぐ海が見える。潮の香りがする。

 鳥羽駅周辺は適度に寂れていて、日曜日だというのに歩いている人を見かけなかった。
 海沿いのウッドデッキでできた遊歩道も誰も歩いていなかった。商店街ですれ違った人も数人だった。

 駅近くに、「漂白の詩人伊良子清白の生家」があった。
 私はまったく知らない詩人だったが、鳥羽では重要な詩人なんだろう。
 豪邸とはいいがたい木造の小さな住宅だったが、華美ではない全うな建築物の雰囲気が清々しくてよかった。
 国宝に指定されているようなものでなかても、こういう普通のものを保存しているというのは、街の歴史にとって重要なことだと思う。
 私の知らない街は、私のよく知らないその街固有のものを積み重ねて街の歴史を作っている。
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 商店街には、御木本真珠のお膝元なので、真珠屋さんが多く、ショウケースには真珠でできた五重塔が飾られていたりなんかして、商店街の寂れ具合と対照的だった。
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 商店街をしばらく歩くと「日和山登山道入り口」の看板があったので、少しだけ登ってみた。
 登山道の途中には普通に人が住んでいて、草引きなんかをしていて、挨拶をされた。
 ちょっと登ってすぐ降りてきたので、「もう帰ってきたの?」と驚かれてしまい、少し恥ずかしかった。
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 商店街から川沿いの遊歩道を歩いて、駅に戻った。海がすぐそこなので、川からは潮の香りがする。こういう、観光客向けではない何の変哲もない細い道を見つけると嬉しくなる。(ここはきれいに舗装されちゃっているけど)
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 いかにも観光らしくピカピカと整備された場所に行くよりも、誰かの日常に部外者として入り込む方が非日常感があって楽しい。こんなところにそっと入り込んでいいんだろうかというドキドキ感を感じた。

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2012年3月21日 (水)

小さく地域内でお金をまわして、電気をつくる

先日、「エネルギー自立のまちづくり」というセミナーに出た(セミナーの講師は、京大の諸富先生と滝川薫さん)。興味深い内容だったので、少し紹介する。セミナーで聞きかじった内容を踏まえて書いているだけなので、事実誤認などがあったらご指摘くださいm(_ _)m


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1. フライブルク市の取り組みについて


(1) きっかけ


 フライブルク市がサステイナブル・シティに取り組むきっかけは、1970年代の原発建設計画。

 1986年のチェルノブイリ原発事故を受けて、市議会で全会一致で原発依存度をゼロに引き下げることを決定し、市独自のエネルギー供給構想を議決した。

 フライブルク市の良いところは、自分達の地域から原発を廃除して他地域に持っていくのではなく、原発なしの世の中をどうやって作っていったらよいのかを市を挙げて模索したことである。だからこそ、環境首都と呼ばれる都市になった。

(2)太陽光発電


 フライブルク市では、ソーラーパネルが設置可能な屋根の情報をまとめている。

 市のWebサイトで、自分の屋根がパネル設置に適しているかをチェックできる。

 パネルが設置できない人のために、市は公共施設の屋根などのスペースを供給している。

 2009年時点で15MWを発電している。これは、需要の1.1%にあたる。

(3)現状の原発依存度


 フライブルク市の原発依存度は60%から20%にまで低下した。

日本では地方自治体がエネルギー政策にまったく関与できないし、それが当然だと考えられてきた。フライブルク市では、自治体が地域からエネルギー政策を持続可能な政策に転換しようとしている。

2.長野県飯田市の取り組み


 日本でも、地域内で使う電気を地域で作るという取り組みをしているところがある。長野県飯田市の取り組みはその先進的な事例。



 飯田市にある「おひさま進歩エネルギー(株)」は、地域から出資金を集め、太陽光発電と省エネ事業に対する投資を行う。売電し、出資者への利益分配も2%以上を計画している。第一期には、わずか二ヶ月あまりで募集額の2億が集まった。



 おひさま進歩エネルギーの「おひさま0円システム」。

 このシステムは、地元の信用金庫の支援を受け、一般住宅に太陽光発電パネルを設置するというものである。各住宅から中部電力に売電し、おひさま進歩エネルギーに9年間にわたり、月額19800円を支払う。住民は初期費用なしに太陽光パネルを住宅に設置することができる。



 飯田市で地域連携による太陽光発電システムの普及が成功した理由

  1.行政のバックアップ

  2.地域が元気になる仕組みづくり

  3.飯田市の地理的特性と自治意識の高さ



 日本では、地域一社独占型の大規模な発電による安定供給が行われてきたが、福島原発の事故により安定していないことが露呈した。再生可能エネルギーは不安定であるが、地域それぞれの特色に合わせた事業の余地がある。そのためには、太陽光や風、水、地熱といった自然資本を活用すること、自然資本を活用するためのシステムを作る人的資本、人々を結びつける社会関係資本が大事である。

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【個人的な感想】


 うん、ドイツは素晴らしいね。わぁいフライブルク、t80935、フライブルク大好き。

 でも、日本とヨーロッパでは制度が違いすぎて、参考にするには超えないといけないハードルがたくさんある。



 日本では電力会社の力がとても強い。法制度でしっかり守られている。



 たとえば、今までの環境アセスメントの手続きが終わった事例を見ても、原発立地を退けることはできなかった(原発立地に関わらず、現状の法に基づく環境アセスメントでは大規模開発そのものをやめさせることはできない。軽微な変更を指摘するだけ。アワスメントなんていう駄洒落が言いたくなる人の気持ちもわかる><)。原発訴訟も原告側は負け続けている。



 今の福島原発の事故の状況は、一般市民の声を政策に反映させるための法的な制度をちゃんと作ってこなかった「ツケ」だと思う。市民の声を反映させる制度がなかったから、一般市民は政策に興味を持たない人が多かった。福島原発事故以前に、電力会社が大きな資本を作り、大規模な発電をするのに疑問を持っていた人って、ほとんどいなかった。福島の事故以降、原発にまつわるぞっとするような、でも、あまりにも杜撰なニュースをたくさん見かけるようになった。私たちの社会は、これらを放置してきてしまった。

 

 今、市民の声を政策立案者に届ける方法が、署名、デモ、訴訟くらいしかない。訴訟は、一般市民にとってかなりリスクが高い。パブリックコメントやワークショップ、タウンミーティングなどもされるようになってきたが、それの法的な後ろ盾は薄いんじゃなかったかな(ごめんなさい、ちゃんと調べます(>_<)) 



 こういう状況の中、一般市民は、電力に対して何もできないのではないかと暗澹たる気持ちになる。だが、現状の制度下であっても、長野県飯田市の地域発電の事例は、地域で使う電気を地域内で作るというやり方がありうるということを示してくれる。飯田市の事例は有名であるようだが、私は知らなかった。



 長野県飯田市の日照時間は長く晴れの日も多いらしい。といっても、他の地域の何倍もというわけではない。飯田市の事例は、大規模資本に頼るのではなく、地域内でたくさんの人から小さいお金を集め、それを元に発電し、利益を出して、出資者に分配金を支払っている。すごい。

 

 今後、できるだけ電気に頼らない生活を目指し、節電を心がけないといけないのだろうと思う。だが、今の私達の生活は、電気を前提として成り立っており、電気無しの生活はできない。電気がないと、生存そのものが脅かされる人々がたくさんいる。先日、会った重度障害のあるお子さんのいるお母さんは「子どもは痰の吸引機がないと息ができなくなってしまう。停電で吸引機が使えなくなるのが怖い」と言っていた。他にも熱さや寒さでも人は体調が悪くなったり、亡くなってしまう。



 福島原発の事故後、電力会社が大規模に電力を発電するのは、もう安定した電力供給のやり方ではなくなってしまった。今後は、電力会社の電気は停電する可能性がある、特に大災害の時には復旧に時間がかかるというのを念頭において対策を打っておこないといけないように思う。今後30年の間に発生する可能性が高いと言われている東南海地震の際には、太平洋側に多数ある火力発電所が壊れる可能性がある。そうした大規模災害時も含めたエネルギー施策の一つが、こういう地域内でお金をまわして地域内で電気を作るというやり方なのではないかと思った。


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参考 


スイス在住の環境ジャーナリストの滝川薫さんのブログ。小規模な再生可能エネルギーに関する情報を発信しておられます。 / “滝川薫の未来日記



飯田市で太陽光発電事業をおこなっているエネルギー会社 おひさま進歩エネルギー株式会社



停電弱者。 - hituziのブログじゃがー 

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2011年12月15日 (木)

これからの道路の話をしよう

今回の記事は、前回の記事の補足。
私の道路に対する思いをちょっと整理する。

私は道路を愛している。
前回の記事で、「道路には世界を革命する力がある」と半ば本気で書いた。
それくらい道路というのは、暴力的な強い存在だ。

道路には、大きく分けて、二つの機能がある。
LINK & SPACEの2つである。
前回の記事には、こんな感じで書いた。
"連中に道路が人と人を繋ぐ線であることを思い出させてやる(LINK)
連中に道路が人々の集う場であることを思い出させてやる(SPACE)"

今の道路のほとんどは、LINK機能に特化してしまい、SPACE機能が貧弱だ。
私は、もっとSPACE機能に特化した道路があった方がいいと思っている。
街の中心部には、たくさんの人が集う空間がもっと必要だろうと。

LINK機能に特化した道路にとって、交通流が留まることは悪だ。
だから、たとえば、円滑な交通のために、多額の費用をかけて、地下歩道を整備し、地上の横断歩道を撤去するなんてことが起こってしまう。

交通渋滞は、大気を汚染する。円滑な交通流を促進することは、環境にとってよいんですよ。
歩行者や自転車を地下歩道や陸橋に追いやると、自動車との交錯がなくなって安全になるんですよ。
そういう名目で、今も多くの交差点改良や道路整備が行われている。

だが、道路整備はさらなる自動車交通を誘発する。この不況下で交通量は少し減ってきたが、依然として自動車の分担率は高いままだ。
1990年代から、ロードプライシングやパークアンドライドといった交通施策によって、交通需要をマネジメントするべきという考え方が出てきたが、まだまだ十分に進んでいない。
TDMに早くから取り組んでいる金沢市などでも、パークアンドライド駐車場の整備台数はたいした数ではない。

道路を整備する人達は、道路管理者である。
彼らは、国土交通省や地方自治体の道路建設課など土木技術者だ。
彼らには、交通需要をマネジメントするという意識はまだまだ薄い。
なぜなら、信号や通行規制などの交通管理の権限は彼らにはなく、警察が持っているからだ。
道路管理者が施策を考えても、交通管理者が認めないと施策を実施できない。

ここしばらく道路管理者の方々とお話する機会があった。
彼らの道路を愛している様子には、ほっこりと和むものがあった。

彼らは、自分たちが整備した道路が、経済成長に寄与し、地域住民の生活の利便性を向上するものと信じている。
だが、地域を細やかに見ると、道路によって苦しむ人達がいる。
たとえば、気管支炎や喘息などの病気で苦しんでいる人達がいる。
自動車利用者が円滑に移動できる代わりに、歩行者や自転車は自動車に脅威を感じながら移動している。
こういった人達を切り捨てるのは、道路を愛する者たちの本意ではない。
彼らは誠意をもって、道路構造の改善について一緒に検討してくれたが、それによって、状況が改善したかというと、んー、えっと、前は向いているけれど進んでいないという感じかな。

では、どうすればいいのか。

答えは簡単に出るものではないけれど。
きっと解決の糸口は継続したコミュニケーションにある。

できれば、道路の整備前に、道路空間をどのようにするのかをみんなで議論する。大型車、普通自動車、自転車、歩行者がどこを通るのか、道路管理者とか交通管理者とか地域住民とか、ステークホルダーをできるだけ集めて。
そして、たくさんの代替案を作って、それが地域に与える影響を評価する(この計画段階から環境影響評価を行う仕組みを戦略的環境アセスメント(SEA)というそうだ。日本のSEAは、"日本版SEA"と言われており、他国と仕組みが異なっている)。
整備後も、ステークホルダーと共に整備の影響を評価し、改善していく。
こういったプロセスは、手間暇がかかるし、地域住民にとっても負担が大きいけれど、道路の暴力性を緩和して地域との折り合いを付ける有効な方法だと思う。

そんなわけで、私は
「道路!! 道路!! 道路!!」
と叫んで、カタルシスを感じたい気持ちがありつつも、もうちょっと道路のことについて、みんなで考えられるといいな~と、ゆる~く思っています。

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通勤途中に、iPhoneでせっせと書いたので、事実誤認がありましたら、ご指摘くださいm(_ _)m
ほんまは、もっと教科書とかいろんな文献を見直して書くべきなんだけど(>_<) 今は時間があんまりとれないので、こんな適当な内容でごめんなさい。

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2011年12月13日 (火)

よろしい ならば道路だ

諸君、私は道路が好きだ
諸君、私は道路が好きだ
諸君、私は道路が大好きだ

一般道が好きだ
高規格道路が好きだ
自動車専用道が好きだ
農道が好きだ
バイパスが好きだ

過密な大都市で
寂れた地方都市で
人けのない郊外で
田畑しかない農村で
鬱蒼とした山間部で

この地上に存在するありとあらゆる道路が大好きだ

一本の長い道路が好きだ
地域を変容させる様子など心がおどる

あまたの自動車により工業製品や農産物、商品が運ばれる様子が好きだ
あまたの人々が道路を使って目的地に急ぐ様子など胸がすくような気持ちだった

高架橋柱が整然と立ち並ぶ様子が好きだ
複雑なジャンクションが美しい線形を描く時など感動すらおぼえる

真新しいアスファルトが煌めく時などもうたまらない
地図上に新たな道路が書き加えられるのは最高だ

交差点の改良により
渋滞が解消した時など絶頂すら覚える

可能交通量の限界まで交通流が流れる様子が好きだ
サグや上り坂のために道路の機能を十分に生かすことができていない様子はとてもとても悲しいものだ

一般国民が当たり前のこととして道路を捉えているのが好きだ
道路利権と非難されるのは屈辱の極みだ

諸君 私は道路を 国土の骨格となる道路を望んでいる
諸君 私に付き従う道路好きの諸君 君たちは一体何を望んでいる?
更なる道路を望むか 
糞の様な道路を望むか?
全国民に愛されるような道路を望むか?


道路!! 道路!! 道路!!


よろしい ならば道路だ

だが、不況による交通量の減少に耐え続けて来た我々には
ただの道路ではもはや足りない!!
大道路を!! 一心不乱の大道路を!!

我々はわずかに小数
鉄道好きに比べれば物の数ではない
だが諸君は一騎当千の築土構木の徒だと私は信じている
ならば我らは諸君と私で総兵力100万と1人の土木技術者集団となる
我らを忘却の彼方へと追いやり、公共事業は全てムダだと言い募るマスコミや大衆を叩きのめそう
道路批判の立場から引きずり下ろし 眼(まなこ)をあけて思い出させよう

連中に道路が人と人を繋ぐ線であることを思い出させてやる
連中に道路が人々の集う場であることを思い出させてやる
道路には奴らの哲学では思いもよらない、世界を革命する力がある事を思い出させてやる
1000人の築土構木の徒で 世界を漆黒の道路で埋め尽くしてやる

目標 さらなる円滑な交通流を

道路ネットワークを拡充せよ

征くぞ 諸君


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参考:少佐演説ジェネレーター
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何か電波を受信して書いた。
せめて三年前くらいに思いつきたかった。時期を逸しすぎて意味がわからないけれど。

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2011年12月 7日 (水)

聞くこと、伝えること、変えていくという意思を持つこと

 先日、私の職場の主催の公害教育に関するシンポジウムに出席した。

 シンポジウムで興味深かったことについてのメモ。

 私の職場のひとつである財団では、3年にわたって、公害地域に学生等を連れて行き、フィールドワークをさせ、最後の報告会で何らかの提案させるというスタディツアーを行っている。

 スタディツアーの企画に携わった先生曰く「当初は、現在進行形でへヴィーな現場に何も知らない学生を連れて行くのに、批判もあった」とのこと。公害地域は、何も知らない人間が土足で踏み込んでよい場ではないと。

 だが、スタディツアーの参加者は、かなり真剣にフィールドワークを行い、それは地域にとっても、ツアー参加者にとっても大きな効果があったようだ。公害地域の今を知り、被害者だけでなく加害企業の話を聞き、その緊張感のある信頼関係を目の当たりすることにより、参加者は公害地域の再生について理解する。地域は、参加者の真剣なまなざしを受けることにより、自分たちのしてきたことの意義を問い直すことができる。

 公害教育にずっと携わっている先生のお話も、興味深かった。

 「水俣に学生を連れていくと、その地域にはまって何回も行く学生がいる」とか。はまる理由は、まず、人がやさしいこと。たくさんの苦悩を乗り越えてきた地域であるため、学生はそこで自分の悩みを相対化することができる。もう一つの理由は、白黒の水俣がカラーの水俣に鮮やかに変わったこと。白黒の水俣は、教科書などに掲載されている暗い公害の過去の歴史。だが、水俣は自然が美しい、魅力的な地域であるとか。

 水俣では、最も公害が酷かった時期に、公的な機関によって「水俣病に負けない身体づくり」という教育がされていた。胎児や子どもなど弱い人達は汚染の影響を受けやすいが、地域に水銀そのものを排出しないのが筋であるのに、体づくりや教育だけで公害を克服するなんて間違っている。。

 福島を始め原発がある地域でも、「正しく理解すれば放射線は怖くない」という教育がされていた(私の地元の福井でも、その手のパンフレットを見たことがあるし、原発見学ツアーが頻繁に行われていた。敦賀などの原発のお膝元には原子力を学ぶための立派な施設がいくつもある)。行政や汚染物質を排出する企業は、安全側に傾きがちで、責任を住民に押し付けようとするというのは、今までの公害の歴史で繰り返しされてきたことだ。私達は歴史からちゃんと学べていない。

 土壌汚染の研究者の先生によると、イタイイタイ病の後、田んぼ1.5haごとにカドミウムの検査をしていたそうだ。カドミウムの汚染から田んぼを復元するのに、膨大な金額と年月がかかっている。

 今の福島でされている検査はもっとザルだとか。放射能汚染はムラがあるので、本当は田んぼ1枚ごとに検査してもよいくらいだそうだ。福島の土壌汚染は、今までの公害の中でも最大規模で、除染は間に合わない。

 四日市喘息の被害者支援をしている方が、「工場萌え」をあまりよく思っていないと発言されたのは少しショックだった。工場のばい煙のために被害を受けている人がたくさんいるのに、工場を美しいモノとして観光するのは浅はかではないかという意見だった。大学の先生からは、工場の景観に魅力を感じた人に、公害地域再生を伝えていく余地はあるのではないかとの提案があったが、なかなか難しいのではないかと思った。

(私は、工場萌えの写真集を出した大山顕さんのファンなので(大山さん主催の写真撮影ワークショップに参加したことがあるくらい)、この意見をちょっと複雑な気持ちで聞いていた。「工場萌え」というのは、テーマパークのような無味無臭で安全で小ぎれいな景観でもなく、写真家が撮影してきた絵葉書のように美しい景観でもない、自分たちにとってかっこいい景観を新たに発見する試みだと思っている。そうした場に、公害地域再生の話を持っていくと、教条主義的なものに思われて、反発を招いてしまう恐れもあるように思った。)

 私は、今の職場で勤めるまで、公害や公害被害を受けた地域の現状についてほとんど何も知らずに来た。

 公害についていろいろと知ったりすると、私はいろんなものにきちんと目を向けないで過ごしてきたんだと改めて感じる。自分がいかに感性が低かったのか、想像力がいかに欠けていたのかを感じる。

 聞くこと、伝えること、過去のことをふまえて未来を変えていくという意思を持つこと。地域で多様な人々と暮らしていくために必要なこれらの態度を培う場が、公害教育なのだと思う。

* この記事は、友人や知人たちに向けてFacebookに書いたものを転載しています。シンポジウムで得た知識を踏まえて書いているため、細かな部分の裏付けをとっておりません。ですが、私は、個人的に、今、この時期に、公害教育について知る意義、取組む意義はかなり大きいのではないかと思い、取り急ぎ公開しました。間違い等がありましたらご指摘ください。

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2010年12月18日 (土)

ささやかな物語を他者と共有する

 以前、「モノより思い出」という車のCMのコピーがあったが、私は大嫌いだ。なぜなら私はモノに執着しまくるし、そのモノにまつわるエピソードが大好きだからだ。これはこうゆう由来があって、こういう使われ方をしていて、こういう思いで買って、こういう思いで使い続けているとか、そういう所有者以外にとってはどうでもいいようなことを、思い入れたっぷりに語りたい。モノは思い出を喚起するために私にとって必要なものだ。

 職場の方からエクスチェンジというお洋服交換会のお話を聞いた。いらない洋服を持ってきて、欲しい人が持って帰る。いらなくなった服に、どういう経緯のものなのかを書いたタグを付けるんだとか。そのタグ付けがあることで、もらった人は、元の持ち主の思い出に、思いを馳せることができる。リサイクルだけではなくて、見知らぬ人同士がささやかな物語を共有する仕組みなんだそうな。

 似たような話をかなり前に探偵ナイトスクープでみた。お古でもらったベビーバスに、それを使った子どもの名前がたくさん書いてあった。名前を辿って、ベビーバスを共有した子ども達に会いに行くいう内容。一代前は知り合いでも、二代前は見知らぬ人だったりして、細い細い繋がりがわかって面白かった。

 昔であれば、同じ地域に住んでいる、あるいは親戚というだけで、否が応でも同じ物語を共有させられた。今はコミュニティの強制力が減ったせいで、誰とも物語を共有できていない。今、人を集めようとする時、いろんな人の間で共有できるささやかな物語を提示できるかどうかが鍵なんだと思う。

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 地域活性化もコミュニティ再生もお題目としてはとても大事だと思う。でも、それは、あまりにも大きすぎる。地域に住んでいる一人ひとりの生活とのつながりがわかりにくい。そういうことを考えなくても、関わらなくても、普通に生活できるではないかというふうに思う人が多いと思う。

 私が佐用町江川で関わった住民主体型の地域バスの取り組みは、"地域の維持をめざして「身の丈にあった移動手段」を住民で確保するという物語"を地域みんなで共有できるかどうかが、継続するための鍵だと思っている。この物語を共有するためには、「車以外の生活手段を確保することが地域にとって大事なんですよ」、「住民が交通に関わることは公共性を高めるために大事なんですよ」といったお題目だけ唱えていても共有できない。

 まず、運行に至るまで、丁寧なプロセスを踏むこと。地域全体の外出状況や地域バスへの賛否に関するアンケート調査、移動に困っている人たちへのヒアリング調査、20回以上にわたる検討会議、2回の試験運行、ボランティアさんの募集、ボランティアさん同士による意見交換の場。そういうプロセスを有志の方々とともに、一つ一つ丁寧に踏んだ。

 そして、運行後の地域内の便益。隣近所のおじいさん、おばあさんが地域バスがない時には月に1回しかお肉を買いにいけなかったのに今は週に1回はお買い物にいけて便利だと言っている(使用価値の確認)、将来的に車が使えなくなったら地域バス使うかもしれない(オプション価値の確認)といったこと。地域バスの運行に関わる人たちが「利用者に感謝してもらえた」と喜ぶこと(内部の承認)。運行に関わっていない人達にきちんと地域バスに関する情報を知らせること(地域内部の承認)。住民主体型のバスの運行に関する新聞が書かれること、他の地域が視察にくること(地域外部からの承認)。

 こういうささやかな物語がたくさんあって、それぞれが網目のように複雑にからみあうことが、地域の住民同士が大きな物語を共有するためには必要なんだと思う。これらのささやかな物語を、地域内の人達が少しだけ意識しやすいようにするのが、私達みたいな外部の人間ができることだ。

 佐用町江川の地域バスの取り組みは、運行開始までに4年間の歳月がかかっている。その歳月は、傍からみると時間がかかりすぎているし、仕事として取り組めるものではない。研究活動を兼ねたボランティアだからずっと関われた。今となって振り返れば、たくさんのささやかな物語を積み重ねるために必要な時間であったと思う。途中、水害のせいで活動が止まったり、内部で小さな行き違いがいくつかあったり、一筋縄ではいかなかったこともたくさんある。きっとこのバスの運行にまつわるたくさんのささやかな物語は、他のまた新たな大きな物語を共有することに繋がっていくと思う*。

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 今、他者と共有できる物語を上手に提示しているなあと思うのが、一部の新興宗教やエコ活動。熊森の活動なんか、都市のドングリで山のかわいい熊さんを助けるというわかりやすい物語。言葉悪いかもしれないが、あまり物事を深く考えなくて、簡単に善人になりたい人の心に触れる物語だと思う。(※熊森の活動については、私は「ならなしとり」「野生のクマをなんとか助けたいと考える皆さんへ-紺色の人」といった方々の意見に賛同しています。誤読なきよう)

 ”善人”になる物語を誰かと共有しようとするのは、危険だ。というか考えが浅はかだ。どんな物事にも良い面と悪い面があって、一方的に善いことなんかできるわけない。悪い面を引き受ける覚悟と、善悪の判断で揺れる葛藤が必要だろう。そういう覚悟と葛藤を受け入れる覚悟がないと、自分の意図しない偽善や悪意に、自分の好意が勝手に使われることになる。偽善は、場合によっては悪よりたちが悪い。

 他人と共有する物語は、まず、「山場もない」「おちもない」「意味も無い」**というのが安全だと思う。そういう、だからなんなん?って感じのささやかな物語の膨大な蓄積があった上で、初めて、大きな物語を共有するのが良い。そういう物語の重層性がないままに、大きな枠の物語だけを欲するのは虫がよすぎる。

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*自画自賛が過ぎるかもしれないけれど。多分、私が関わった物事の中でもかなりうまくいっていることの一つです。反省点もあるけれど、それは、また別途。

**頭文字をつなげると「やおい」ですけど、一般的にいわれる「やおい」のことじゃないですw。私、森茉莉も栗本薫も読んでいましたが、腐女子じゃないし、その手のことは特別な興味は持っていません、残念ながら。

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2010年12月13日 (月)

土木技術者として卵の側にたちたい

「高くて、固い壁があり、それにぶつかって壊れる卵があるとしたら、私は常に卵側に立つ」ということです。
 そうなんです。その壁がいくら正しく、卵が正しくないとしても、私は卵サイドに立ちます。他の誰かが、何が正しく、正しくないかを決めることになるでしょう。おそらく時や歴史というものが。しかし、もしどのような理由であれ、壁側に立って作品を書く小説家がいたら、その作品にいかなる価値を見い出せるのでしょうか?
エルサレム賞での村上春樹氏のスピーチより)

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(ちょっと書きなぐってるような文章なので、細かいところで事実と反するところ、不正確なところがあると思います)

 私の肩書きは相変わらず曖昧なままだけども。それでも、私は、自分のことを土木技術者だと思っている。私のものの考え方は、土木工学として教えられたものに大きく影響を受けている。

 私の今の職場の一つは、大気汚染訴訟の賠償金の一部をもとに作られた。大気汚染訴訟の原告は、喘息患者達。そして、訴訟相手は、いくつかの企業、道路管理者。原告は、道路管理者との和解の際に、道路の沿道環境の改善とひきかえに多額の賠償金を放棄した。

 沿道環境改善に原告の意見を反映するために、会議が開かれている。この会議は定期的に開かれている。100人近くの原告が傍聴し、道路管理者側も20人以上出席する大きな会議。先日、初めて出席したのだけれども、形骸化している会議に本当にがっかりした。道路管理者側の担当者のやる気のなさ、なおざりな態度に、同じ土木技術者として本当にうんざりしてしまった。

 どうしてこんなことになってしまったのだろう?

 一つは、しくみがないということ。訴訟の和解条項に基づいて開かれている会議とはいえ、道路施策の中で位置づけられているものではない。この会議で出た意見を、道路管理者が施策に反映する義務は何もない。パブリックコメント等と違い、意見に対する返答を公開する義務も無い。

 そして、最大の理由は、土木技術者の姿勢かと。不況の今であっても、最大多数の幸福を目指そうとすると、自動車ユーザの移動円滑を目指した方が効果が高い。非力な少数の人たちの立場にたった施策は全体の幸福にそれほど寄与しないから*。

 たとえば、沿道の環境対策のために、横断歩道を撤去して、自動車交通をスムーズに流すとかいうのが普通に行われてしまう。どうして横断歩道の撤去が、道路沿道環境の改善になるんだろう? どうして歩行者が道路のこちらからあちらにいくだけなのに、いちいち階段を上り下りさせるのを、ベストな選択とすることができるんだろう?

 私は、こういう卵をたたきわるような仕事はしたくない。そんなこと言っているから、いつまでたっても一人前になれていないのかもしれないけど。なんか前に進んでいないのかもしれないけれど、私はいつでも卵の側にたつ仕事がしたい。

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 えっと。公害訴訟について。多くの被害者は、何の罪もないのに、健康被害を受け、普通の生活を粉々にされる。その生活を少しでも取り戻したいという必死の思いのもと、大企業や行政を相手取って訴訟を起こす。一般市民にとって訴訟を起こすというのは困難なことだ。訴訟相手に非があるという証拠を原告側がそろえなければならないが、公害訴訟の場合、原告側は何の力もない一般市民だったりする。そして、訴訟は、時間やお金、労力がかかるだけではなくて、大きな差別を生む。「あの人たちはお金がほしいから、病気のふりをして(あるいは、健康被害を大げさに捉えて)訴訟を起こすのだろう」といった誹謗・中傷だ。

 ひどく嫌な感情だと思うが、誰もが正しい情報や知識を持っているわけではないし、常に正しい判断をできるというわけでもない。私も差別する側に立ちうるだろうし、気がつかないうちに、壁の一部となって、卵を割っているかもしれない。

だから、私は何度でも自分の立ち位置を確認する。壁になってないか、卵を抑圧してないか、何度でも確認する。私は、私ができるやり方で、卵の側にたつ土木技術者でありたい。

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 なんか書いてみたら、浅い。浅すぎる。私の思いってこんな上っ面なものなの? いろんなことをわかってないし、決意が足りていない。でも、こういうことをちゃんと考えていこうと決意表明として、書き留めておく。
* 特に、ここらへんの"何を正義とするのか"ということに関しては、もっとちゃんと勉強したい。

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