あなたには 私が見えないかもしれない できることなら ここにいたいのに
中高生の頃、女子の同調圧力が嫌で嫌で仕方がなかった。中高生の潔癖な価値観は、少しでも異なった人間をすごい勢いではじこうとする。だから、理科系科目は苦手なのに、女子から逃げるように理系を選択した。理系女子は珍獣扱いなので、気が楽。今は、工学部なのに、理系っぽくないことしている。
今でも女性の同調圧力に苦手意識があって、保育所ママでも、普通に世間話ができる人が限られてしまう。大人なので、全員ににこやかにあいさつするし、天気の話などで一言二言会話できる。でも、その先の会話は、できたら避けたい人もいる。オットにはダメじゃんと言われてしまうが、別にいいやんと思う。
人に変だといわれたり、はみ子にされるたりするのには慣れている。人からはみ子にされるのが怖いのであれば、始めから自分からはみ出ていった方が気が楽。で、不思議ちゃん扱いしてもらえばいい。少し中心からずれた所にいる方が気楽だし、周りがよく見渡せる。ぼーっと物思いにふけることもできる。大学院に行ってよかったことの一つは「あ、この人はいい年をしているのに大学院にいる変わった人だ」という扱いをされることだ。でも、人が変っていうほど、自分は変わってない。すごい普通で、めだった特徴もない。世の中には、本当に振り切れいるような人がたくさんいるのにね。
とかいいつつも。こういう面倒な性格でも、いじめられたこともないし、人間関係のトラブルってあんまりない。少数ながらも、周りに信頼できる人もいる。いつもヘラヘラ笑ってるのと、悩み少なそうな顔のつくりのせいだと思う。顔については、親に感謝している。ヘラヘラしているのは、大人になってから身につけた、私の数少ない対面スキル(それもどうかと。しっかりしろよ、自分!)。
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人や社会からはじかれる疎外感、分からない人には分からないみたい。そういう人たちは、それなりに幸せなんだろう。でも、はじかれる側の人間からすると、なぜ彼らには私達が見えないんだろうって不思議に思う。今、はじかれてなかったとしても、いつ、はじかれる側に回るのかも分からないのに。
人のことをはじこうとする人たちって、全然悪人じゃない。仲間意識が強くって、仲間には親切で、仲間内の秩序・規範を大事にする、すごいいい人たち。明るくて、空気よめて、友達多い感じの。で、悪気なく、ちょっとずれている人間をはじく。
同調圧力が強い人は、自分や自分がしてきたこと、してこなかったことを肯定するために発言することが多い。人を傷つけようとするわけではない。でも、だからといって、自分を肯定するために、他人を否定する必要はないはず。それを意識していない人と話をするのは、少し辛い。「あなたはそう思うかもしれないが、私はそう思わない」 それが言えない。
価値観の多様性を認めない人たちの中に入っていくというのは、私にとってすごく難しいこと。そこから何かを得ようとすると、自分を傷つける必要がある。入っていこうとして、はじかれる可能性を面倒に思う。多分、福井のような田舎町ではそうはいかない。多くの情報が、ご近所さんをはじめいろんな人々に漏れて、いろんな人間関係が複層的にからみあっている。リンクがふたつぐらいで見知らぬ人に繋がる。その上で、ゴリゴリとした人づきあいをしないといけない場面が多かろう。でも、都会ではこのコミュニティがダメでも、ほかのコミュニティというふうに、自分でコミュニティを選択できる。都会に住んでいるということはそういう部分がある。よくも悪くも。
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私は自分から人の輪からはじかれて行こうとすることがあるわけだが、やはりそれは不健全な考え方だ。自分を傷つけてでも、入っていかないといけないコミュニティもある。自分の傷を過大に捉えているだけのような気もする。
多分、人をはじくようなコミュニティは、持続性がない。どんなコミュニティでも面倒くさい事柄が発生するが、それを担う人がいなくなる。都会では、複数のコミュニティがあるから、自分で選べばよいと書いたが、そのせいで生きにくくなっている部分もある。持続しているコミュニティの方が多くの何かを生み出すし、何よりそこにいる人々が楽しく過ごせる。育児でも、研究でも、地域で何かに取り組むにしても。人をはじかないコミュニティを持続させる必要をあちこちで感じる。コミュニティをどう作っていくのかというのは、もっと客観的に深く考える必要がある。
社会はどんどん多様化している。ライフスタイルも、人間関係も、物の考え方も。多様化していく社会は歓迎したい。多様な人がいるのを受け入れたいし、受け入れてほしい。受け入れてほしいけど、同調しない自由も残してほしい。仲良しじゃない人たち、ずれている人たちを社会のシステムやコミュニティの中から、はじきとばしたくない。