コミュニケーション

2010年6月14日 (月)

あなたには 私が見えないかもしれない できることなら ここにいたいのに

 中高生の頃、女子の同調圧力が嫌で嫌で仕方がなかった。中高生の潔癖な価値観は、少しでも異なった人間をすごい勢いではじこうとする。だから、理科系科目は苦手なのに、女子から逃げるように理系を選択した。理系女子は珍獣扱いなので、気が楽。今は、工学部なのに、理系っぽくないことしている。

 今でも女性の同調圧力に苦手意識があって、保育所ママでも、普通に世間話ができる人が限られてしまう。大人なので、全員ににこやかにあいさつするし、天気の話などで一言二言会話できる。でも、その先の会話は、できたら避けたい人もいる。オットにはダメじゃんと言われてしまうが、別にいいやんと思う。

 人に変だといわれたり、はみ子にされるたりするのには慣れている。人からはみ子にされるのが怖いのであれば、始めから自分からはみ出ていった方が気が楽。で、不思議ちゃん扱いしてもらえばいい。少し中心からずれた所にいる方が気楽だし、周りがよく見渡せる。ぼーっと物思いにふけることもできる。大学院に行ってよかったことの一つは「あ、この人はいい年をしているのに大学院にいる変わった人だ」という扱いをされることだ。でも、人が変っていうほど、自分は変わってない。すごい普通で、めだった特徴もない。世の中には、本当に振り切れいるような人がたくさんいるのにね。

 とかいいつつも。こういう面倒な性格でも、いじめられたこともないし、人間関係のトラブルってあんまりない。少数ながらも、周りに信頼できる人もいる。いつもヘラヘラ笑ってるのと、悩み少なそうな顔のつくりのせいだと思う。顔については、親に感謝している。ヘラヘラしているのは、大人になってから身につけた、私の数少ない対面スキル(それもどうかと。しっかりしろよ、自分!)。

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 人や社会からはじかれる疎外感、分からない人には分からないみたい。そういう人たちは、それなりに幸せなんだろう。でも、はじかれる側の人間からすると、なぜ彼らには私達が見えないんだろうって不思議に思う。今、はじかれてなかったとしても、いつ、はじかれる側に回るのかも分からないのに。

 人のことをはじこうとする人たちって、全然悪人じゃない。仲間意識が強くって、仲間には親切で、仲間内の秩序・規範を大事にする、すごいいい人たち。明るくて、空気よめて、友達多い感じの。で、悪気なく、ちょっとずれている人間をはじく。

 同調圧力が強い人は、自分や自分がしてきたこと、してこなかったことを肯定するために発言することが多い。人を傷つけようとするわけではない。でも、だからといって、自分を肯定するために、他人を否定する必要はないはず。それを意識していない人と話をするのは、少し辛い。「あなたはそう思うかもしれないが、私はそう思わない」 それが言えない。

 価値観の多様性を認めない人たちの中に入っていくというのは、私にとってすごく難しいこと。そこから何かを得ようとすると、自分を傷つける必要がある。入っていこうとして、はじかれる可能性を面倒に思う。多分、福井のような田舎町ではそうはいかない。多くの情報が、ご近所さんをはじめいろんな人々に漏れて、いろんな人間関係が複層的にからみあっている。リンクがふたつぐらいで見知らぬ人に繋がる。その上で、ゴリゴリとした人づきあいをしないといけない場面が多かろう。でも、都会ではこのコミュニティがダメでも、ほかのコミュニティというふうに、自分でコミュニティを選択できる。都会に住んでいるということはそういう部分がある。よくも悪くも。

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 私は自分から人の輪からはじかれて行こうとすることがあるわけだが、やはりそれは不健全な考え方だ。自分を傷つけてでも、入っていかないといけないコミュニティもある。自分の傷を過大に捉えているだけのような気もする。

 多分、人をはじくようなコミュニティは、持続性がない。どんなコミュニティでも面倒くさい事柄が発生するが、それを担う人がいなくなる。都会では、複数のコミュニティがあるから、自分で選べばよいと書いたが、そのせいで生きにくくなっている部分もある。持続しているコミュニティの方が多くの何かを生み出すし、何よりそこにいる人々が楽しく過ごせる。育児でも、研究でも、地域で何かに取り組むにしても。人をはじかないコミュニティを持続させる必要をあちこちで感じる。コミュニティをどう作っていくのかというのは、もっと客観的に深く考える必要がある。

 社会はどんどん多様化している。ライフスタイルも、人間関係も、物の考え方も。多様化していく社会は歓迎したい。多様な人がいるのを受け入れたいし、受け入れてほしい。受け入れてほしいけど、同調しない自由も残してほしい。仲良しじゃない人たち、ずれている人たちを社会のシステムやコミュニティの中から、はじきとばしたくない。

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2010年3月14日 (日)

議論についての覚え書き

 議論について、考えていることなど。覚え書きとして。

(議論するための前提条件)

  • 議論って相手を論破することでもないし、正しい何かを一つ決めることでもないと思う。いろんな立場から、ある物事について検討することだと思ってる。
  • 議論するには、誰が議論に参加するのか/知識やデータ/議論の目的/言葉の定義などを共有することが必要。これらを共有することができないと、揚げ足取りや後だしじゃんけんになりやすい。(そういう意味で、流行りのTwitterで議論するのは、かなり難しいと思う。twitterは意見の同調を求める、ブレーンストーミング、情報の拡散に向いているような気はする。)

(当事者の発言に関して)

  • ある問題について議論する時、当事者の発言は大事だけど、当事者じゃないと発言してはいけない、当事者の発言を全て受け入れるべきかというとそうではないと思う。第三者的な視点が入らないと意見が偏って議論が活発化しないし、現実問題との折り合いをつけれない。それに当事者が自身のことを全て把握しているわけでもない。
  • 抑圧されている人が、自分のニーズをきちんと把握しているかというとそうでもない。人は自分の手に届かないものを望み続けることができるほど強くないし、状況に適応するものであるので、傍から困難を抱えているように見えても、本人は何とも思っていないこともある。
  • 当事者が不満を抱えていなかったら、見過ごしてよいのかというと違うと思う。代理者が当事者の権利を擁護すること、他者が多様な人々の状況を慮ることが議論に深みを増し、問題の解決に繋がるはず。他者のことを完全に理解することはできないだろうが、想像することはできるはず。
  • 他者が当事者のことを考える上で、パターナリズムには注意を払わないといけない。世の中で「弱者」と言われている人たちが、自分たちのニーズをきちんと把握して自分の権利を主張し始めると、途端に「生意気だ」と叩かれることがある。

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2010年1月16日 (土)

コミュニケーションについて思うこと

 自分は善い人間じゃないかもしれないけれど、善い人間になろうとすることが大事だと思っている。もし、私の思っている善が間違っているのであれば、他者から批判が入るだろう。悪い方向に行かないためには、Aか非Aかの二原論じゃなくて、AもBもCも他にもいろいろあるよね、という複数の視点を持たないといけない。複数の視点をもつためには、他者との繋がりが必要だ。批判というのは、時にはすごく辛いものだけど、ちゃんと受け入れていきたい 。

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 コミュ力低いやつはだいたい友達

 って感じてしまう。今は、「私、人みしりやねん」というと、ネタだと思われて笑われるくらい、社交的にふるまっているのだけれども、子どもの頃はすごく人みしりで積極性のかけらもない内向的な子どもだった。そんなわけで、人みしりで大人しい人を見ると、すごい親近感を抱いてしまう。うちの研究室にもコミュニケーション力低めの子がたくさんやってくる。何を考えているのかわかりにくいし、声をかけても返事がかえってこうへんし、あいさつもせえへんし、面倒くさい子やなぁと思いつつも、他人事じゃない。

 私を含め、コミュニケーション力が低い子って、他者とつながりを持ちたくないと思っているのかというとそうでもない。つながりを持ちたいのに、どうやればいいかわかっていなかったりする。世間話ってどうするのか分からないとか、初対面の人に対して、すごく身構えちゃったりとか。

 コミュニケーション能力なんか、一朝一夕でつくものじゃない。でも、とりあえず、「笑顔」と「挨拶」というのが手っ取り早いかな、と思っている。ニコニコしていれば、敵対心を持たれることは少ない(無表情だと敵対心を向けられることがあるので、要注意)。言葉をうまく発することができなくても、笑顔でいれば「ああ、この子は、いま楽しんでいるんだな」ということが伝わるし、挨拶すれば、この人は自分とコミュニケーションをとろうとしている、と伝わるし。私なんか、このblogにさんざん書いている通りネガティブな人間なんだけど、周りには悩みのない人間だと思われている。先日、後輩に「○○(私の名前)さんは、いつも笑顔で楽しそう」と言われた。そういうのって、すごくうれしいし、私の存在が周りに対して悪い影響を与えていないということだと思う(先日、教授に「悩みなさそうだな」としみじみ言われたのには少しびっくりした。悩み多そうと言われるよりか1000倍ぐらいいいけれど。私みたいなタイプにだって、悩みはあるのよ)。

 もし、このblogを見た人の中で、自分はコミュ力低いと思ってはる人がいたら、とりあえず、毎日ニコニコと笑顔で過ごす、知人に会ったら積極的に挨拶する(挨拶が返ってくるかどうかは関係なく、とりあえず挨拶しちゃう!)というのをおススメします。笑顔や挨拶で不快に思う人は少ないですから(すごく今さらなことですね)。

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 子どもの頃から人見知りが激しくて、他者とのコミュニケーションに少し苦手意識を持っている私が、大人になってから意識していること、3つ。

 一番大事なのは、自分が他者に伝えたいと思う"何か"を持つこと。その何かがあれば、同じ興味を持っている人と繋がっていける。興味が共通であれば、気が合うことも多いから。研究でも、子どものことでも、本でも、映画でも、料理でも、なんでもいいから、他者に話したい"何か"を持つこと。ひょっとしたらつまんないかもしれないけれど、せめて自分だけでも面白いと思えるような話をもたないと、誰も話を聞いてくれない。私はすぐに自分を取るに足らないつまらない人間だと思ってしまうのだけど、そういう気持ちでいると社交的になれないし、自信のなさが人に伝わってしまう。だから、少なくとも自分だけは自分の考えていることを面白く思ってあげたい。

 2つ目は、誰に対しても、笑顔で、礼儀正しく接すること。文字だけのやりとりであれば、基本的には敬語で丁寧に書くこと。特に、相手との信頼関係がうまく築けていない時ほど、礼儀正しくするべきだと思う(ため口は、年齢の高い/低いに関わらず、他人との距離感がとれる時以外は相手に不快感を与える時があるので、私は避けることが多い)。

 3つ目は、批判/意見は受け付けるという姿勢でいること。人間というのは必ず間違いをおかすものなので、間違っていること、おかしなことを言うこともある。それに、私は迂闊な人間なので、つっこみどころ満載のことを言って/書いてしまうことが多い。そういうことに対して批判や意見が来た時に、挙動不審に陥って自分の意見に固執するんじゃなくて、ちゃんと相手の意見を受け止めて、自分におかしいところがあれば、きちんと訂正したい。譲れない部分は、きちんと言葉をついやして、話し合いたい。

 改めて書くまでもないような、当たり前のことですね。この記事で書いているのは、すごく低レベルなコミュニケーションに関することです。プレゼンテーションの仕方とか、仕事でのコミュニケーションとか、恋人の作り方とか、そういう高次のレベルでのコミュニケーションはまた別の話。こういうことを一々考えて、書いちゃうあたりが、コミュニケーション力の低さを現わしている。飄々と面白いことが言える/書けるようになりたいなぁ。

 ええと、年明けで一番最初の文章がこれってどうなん?と思わないでもない。少し、感傷的すぎるような。でも、今、書きたいことがこういうモヤモヤしたことだったので、仕方がない。もっと時間がとれたら、都市や交通のことについて、ちゃんと書きたいと思っている。

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(私信)Take it Easyの中の方へ

 コメント欄がなかったので、こちらに返信を書きます。アクセス解析を見て、1週間程前に気づいていたのですが、遅くなりました。

 blogを読んでくださり、ありがとうございます。また、そちらの記事の方が、私が長々と書いた文章よりも、私が書きたいことがコンパクトにまとまっていると感心しました。同調する意見をいただけて、すごく心強く思いました。

 長々とblogを書いちゃう時は、気持ちがどろどろしていて、心を整理づけたいときの方が多いので、ご指摘どおりです。そうなんですが、「ぴかぴか」というblogタイトルは、そこまで深い意図があって付けたわけではありません。今となっては、もっとよく考えて、他の人みたいにかっこいいタイトルを考えるべきだったとちょっと後悔しています。「ぴかぴか」は娘の名前に由来しています。娘に名づける際に、「(私と違って)明るい屈託のない子になるといいなぁ」という願いをこめてはいるので、一種のアイロニーといえばアイロニーかもしれないです。でも、そうですね。娘だけじゃなく私自身が、家族のためにも、周囲の人のためにも、ぴかぴかっという感じで、元気に、やっていきたいと思っています。

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2009年12月28日 (月)

何かが欠けている不完全な自分が他者とつながるには 4/4 ―社会と自分をつなぐ窓について―

 失業したら、ハローワークに行きなさいと言われる。私も失業者だった期間に、何回も足を運んだことがある。行った経験からすると、ハローワークって、行くたびにエネルギーが削がれていくような気がする。なぜなら自分ができそうな仕事がない。正確に言うと、自分ができそうな仕事はめちゃめちゃ給料が安いし、単純作業ばかりで、あんまりやりたくない。わがままだとは思うけれど、私は、ハローワークに行くたびに、自分が社会に必要とされていないような気持ちに陥っていったし、もし、ハローワークで紹介してもらった仕事をとりあえずしていたとしたら、今頃もっと自分に自信のない人間になっている気がする(すみません、わがままで。しかも偉そうで。どの仕事も大事な仕事だとは思うんですけど)。

 最近は細やかなマッチングも行われているとも聞くが、ハローワークを人と仕事をつなぐ窓口として機能させるのは、少し難しい感じがした。職種が多様化しすぎてハローワークで業務内容を把握しきれていないし、失業者の経験をきちんと評価することができない、などなど。幸福を「合理的人生計画の成就」におくのであれば、とりあえずできる仕事をする、というのは悪くないし、ハローワークもちゃんと機能を果たせるだろう。でも、「みずからに備わる力量の発揮」を幸福だと定義すると、現在のハローワークは機能を果たせていない。自分の力を発揮するには、失業者のニーズを細やかに汲み取らないといけないし、そのニーズと人を必要としている職場とのギャップを埋めたり、ギャップが大きい場合には再教育を行ったり、そういう、どう考えても労力と時間がかかりすぎることをしないといけない。それに多額の税金をつぎ込むことに、世の中の同意はまだとれていない気がする。

 失業者になると何がいけないって、自分への自信がなくなることだと思う。それに、私みたいな大学出は、プライドだけは高かったりするから訳が悪い。そして、何もしていないから何もできない気がどんどんしてくる。そして、できることさえもやりたくなかったりして、非常によくない。こういう意識でいると、いつまでも社会とつながりを持てない。

 私の場合、すごく幸運だったと思うのが、大学院に同級生が残っていて、相談しやすかったこと、理系で小さい研究室だったので先生が親身になってくれたことである。先生の紹介のおかげで、任期付の非常勤の職を得ることができ、その間に行った研究活動を修士相当と見なしていただいたため(私は学部しか卒業していないので、修士号を持っていない)、非常勤の職の任期が切れた後に博士後期課程に入学することができた。私は、友人や先生に恵まれている。

 今、もうすぐ博士後期課程を修了して、また、社会に出て行かないといけないんだけど、なかなか就職できなさそう。一応、非常勤の職を紹介していただけそうなんだけど、その後はないかも。でも、そんなに焦っていない。さんざん家族に迷惑をかけて博士後期課程に行ったのに、複数の機関から研究費をいただいたりもしたのに、申し訳ない。でも、私の能力が足りなかったのだから仕方がない。

 私が焦っていない理由は、就職できなくても、社会と繋がっていく方法をいくつか知っているからだ。地域のコミュニティに参加する方法も知っているし、NPOの方からも声をかけてもらっている。研究会でお世話になった方にお願いする伝手もある。多分どうにかなる。大学院に入る前には、こういう情報を持っていなかったし、ネットワークが全くなかった。これだけで、私にとって大学院に行った甲斐があると思っているのだけれど(オットには申し訳ないと思っているよ、ほんまに)。

 私のように田舎から出てきた何のコネもない人間にとって、大学は、他の社会に開かれている窓のような存在。大学には、いろんな情報があって、他のところにつなぐ何かがある。それに、大学院の研究活動というのは、強制的に自分に自信を持たせるプロセスでもある。基本的に自分で研究テーマを決めて、計画を作って、それに則って、悩みだから自分でどうにかこうにかやっていくしかない。どんなつまんない研究でも、研究している本人が自分の研究に自信を持っていないと、誰も話を聞いてくれない。学会や研究会などで発表したり、他の人の発表に図々しく質問したりすると、自信も少しは出てくる。

 というわけで、私にとって、大学院は再教育機関だった。本当に感謝している。生活費や研究費に全く困らずに、過ごすことができたし。地域に入っていって実践的な研究ができたし、若い学生さん達と行った勉強会も楽しかった。授業には思っていたようには出席することができなかったし、やり残したことはたくさんあるけれど。すごく幸せな3年間だったと思う。大学院に多額の税金が投入されている以上、優秀じゃない人間は大学院に行くべきじゃないのかもしれないけれど、私のような能力のない人間を受け入れていただいたことについて、先生方、研究室、そして大学院というシステムに感謝している。

 大学院生活もあと残り3ヶ月。自分の公聴会、共同で研究している4年生の卒論が残っている。あともう少しがんばります。

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 自分の経験を振り返ると、自分でどうしていいか分からないとき、とりあえずどこかに泣きつくというのは大事かもしれないと思う。泣きつかないと、どのネットワークにも、どの情報に行き着かない。30代男性の餓死が少し前にニュースになっていたけれど、何か他人事じゃなかった。私にはオットがいるので、仕事が見つからなかったとしても最低限度の生活はどうにかなるけれど、もしオットがいなかったら似たような状況になり得ると思う。それに、私は女なので、人に助けを求めることにそれほど抵抗を感じないのだが、男の人は強い抵抗があるように思う。

 子どもには「人に迷惑をかけなさんな」と教えるよりも、「困った時には『助けて』と言いなさい。言わないと分かってもらえない」というのを教えた方がいい。助けを求めるのが遅れれば遅れるほど、状況は悪化して、気づいた時には、助けるのが難しくなっている時も多い。依存するのはよくないけれど、適切に援助を求めることは、援助を受ける側だけでなく、援助を与える側の成長も促すから、悪いことじゃないと思う(ここらへん、子どもの育て方に関わる部分だけど、オットと意見が分かれそう。オットならきっと「自助努力が一番大事」と教えるのかも)。

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(蛇足)

 大学/大学院という場所に情報が集まっているなぁと感じたのは、社会ネットワーク理論の古典的な論文「弱い絆の強さ」(Mark Granovetter著)を読んだのがきっかけである。どういう論文かというと、

グラノヴェターは、 就職先を見つける際に役にたった“つて”を調査し、調査対象者のうち16%の人が「しょっちゅう」会っている人の“つて”で仕事を得たのに対し、84%の人が「時たま」あるいは「ごくまれに」しか会わない人の“つて”で就職していたことをつきとめました。この事実から、身近な人の情報は自分の情報と重なっている部分が多く、有益な情報は「あまり身近でない知人」が多くもたらすという結論を導き出しました。(引用元:innovative Studio Japan

 大学というところは、この弱い絆が山ほどある場所のように思う。基本的に大学がやっていることは、研究者が面白いと思ってやっていることなので、人間関係がとても純粋になる。他人に役立ちそうな情報を比較簡単に人に与えてくれるようなところとか。上下関係があるにはあるのだけれど、比較的フラットな感じであったり。それと、地域社会や産業界とも絡む時もあるのだけれど、それは第三者的な関わりであるし。

 純粋な人間関係が培われるところには、比較的有益な情報が集まりやすい。この人は面白いから、この情報を教えてあげよう、という感じで。「儲けたい」という下心があると、情報の質が異なってくる気がする。そんなこんなで、大学という存在は、純粋な存在であってもよいんじゃないかと思っている。

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(蛇足その2)

 上野千鶴子なんかを読んでいる時に、おぉっと納得したのが、「個人的なことは政治的なこと」というフレーズ。ここ4日間、書いていた内容は、そういう意図で書いています、一応。

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2009年12月27日 (日)

何かが欠けている不完全な自分が他者とつながるには 3/4 ―仕事をする意味とか―

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 私の職歴には、1年間穴があいている。

 結婚直後、仕事もせず、大学にも行っていなくて、1年ほど家で過ごしていた。

 それまでコンサルタントで3年間ひたすら働いていたので、最初の1,2か月は、お休みというだけで楽しくて、掃除を丹念にやったり、手の込んだ料理を作ったりして、のんびり過ごしていた。でも、その楽しい期間が過ぎたら、終わらない夏休みが始まってしまって、何をしたらよいのか分からなくなってしまった。その時は、自分が社会のどことも繋がっていない感じがして、ただただ辛かった。このまま私は社会に必要とされないまま、死んでいくんじゃないかって。将来のことを悲観して、新婚だったのに、よく泣いていた。オットがおいしいご飯を作ってくれて、泣いたりしていた。オットは何でもできるのに、私は仕事もしてないし、おいしいご飯も作れない無力な人間なんだって(今だったら、もっと作って!って言えるのに)。本当にやばす。超うっとうしかった。

 ある友人は、私に国Ⅰとか地方公務員の試験を受けたら、と勧めてくれたのだけど、公務員になる気がなかったので、勉強しなかった。時間をもてあまして、「色彩検定」をとりあえずとってみたけれど、何の役にも立っていない。当たり前だ。目的がないままに資格をとっても何の役にも立たせることはできない(せめて、技術士か英語を勉強しておけばよかったのに、と思わないでもない)。

 近所に知り合いもいなかった。大学の友達は同じ関西に住んでいたけれど、みんな忙しそうにしているし、自分は新婚で幸せなはずだから不安を抱えていることについて相談するのは嫌だった。新興宗教に勧誘されかけたのもこの時期で、入会金まで払ったけれど、オットに止められて、そのあとは居留守を使って二度といかなかった。宗教の人達ってすごく親切なんよ。親身に相談にのってくれるし。宗教に入っちゃうのって、信仰心じゃなくて人付き合いの方が大きいんだろうね。

 孤独になるのん、結婚前からわかっていたやん、と言われればそれまでなんだけど。結婚前みたいに身を削るように働くのももうやりたくなくて、もっと違う働き方をしたかった。でも、違う働き方といっても、再就職の仕方もわからなかった(憧れのカフェの面接で落ちたりしたしな!)。

 「めぐりあう時間たち」 という映画を見た時、ジュリアン・ムーアが演じるローラの気持ちが痛いほどわかって、本当につらかった。あの真綿でくるまれるような窒息感というか、周りのみんなからは幸せだと思われているのに、自分の意志で動きだせない不安感とか。オットに、「何にもできない大人しい子だから守ってあげなきゃ」と思われている感じとか。ローラは熱心にヴァージニア・ウルフの「ダロウェイ夫人」を読んでいたのだけれど、私もこの時期、上野千鶴子とかを読んでいた。

 結局、大学に残っていた友達と先生に泣きついて、職を紹介してもらって、いくつか職を転々として(私の履歴書の職歴はスペースが足りなくなるぐらいぐちゃぐちゃ)、今に至っているわけだけど、あの時期の疎外感・窒息感を思い出すと本当に本当につらい。って、それに比べると、D論の苦しみなんて大したことないはずなんだけどなぁ。いちいち小さいことで、精神的にやられすぎだ、私は。

 すごくお世話になっている先生の中に、専業主婦をやたらと勧める方がいる。私はその先生のことを尊敬しているのだが、この点に関しては、学部生の頃からずっと言い合いしている(議論になっていない。新歓コンパで泣かされたりとか。それでも、私はその先生のことが好きとかいうのはどうでもいい話)。その先生には、「節約すれば旦那の給料で暮らせるだろ?」とよく言われるのだけど、外で働きたい理由として上記のようなことを言ったって、専業主婦が果たす役割がいかに大事かを語られるだけで、分かってくれるはずがない。かといって、「オットの給料が安いんです」というのはオットを貶めている感じがして嫌だ。最近は、わかりあえないことが分かってきて、面倒臭くなったので「お金が好きなんです!お金!」と下品にいうことにしている。

 ええと。恵まれている者の悩みって言われれば、そうですよ。でも、私みたいなコミュニケーション力が低い人間は、専業主婦では幸せになれないんですよ。私みたいな能力の低い人間が働こうとすることは、世の中にとって迷惑かもしれないけど、働かないと鬱病になってしまって、なおさら社会に迷惑をかける気がしている。

(あともう1回、続きます)

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写真:自分の結婚式の2次会で、振り袖姿でアコーディオンを演奏している私。今と全然違う(主に顔の輪郭が!)。顔も違うし、元気さとか、行動力とか、あの頃の自分は今と違う人みたい。結婚したら幸せになれると思っていた夢見がちな頃。

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2009年12月26日 (土)

何かが欠けている不完全な自分が他者とつながるには 2/4 - 共同生活について-

(昨日の続きです)

 結婚している人間がこういうことを書くのは変だとは思うんだけど、結婚以外に、もっと人と人の助け合いの形がいろいろあってもいいと思うんだ。少し前に勝間和代さんが35歳までに結婚すべきと いうのを書いて話題になっていたけれど、結婚以外に他者とつながりを結ぶ方法の選択肢がないところが閉そく感を増やしている部分もあると思う。だって、結 婚するには、1対1の関係を成就させて維持しないといけない。いい人だなぁと思っても、結婚するには、いろいろな条件がそろわないといけないわけで、それ は、なかなかハードル高くないか? こういうことを思ってしまうのは、私がモテナイさん人生をずっと歩んできて、ネガティヴな考え方をするせいなのか?

 今、問題だといわれていることのいくつかは、人とのつながりが欠けているせいで、なおさら深刻化していると思う。援助が必要な人ほど情報も持って いないし、支援も受けれない。人間って弱いから、孤立しちゃうと精神的に追い詰められるし、社会性がなくなっていく。たぶん、子どもを虐待をする親もモン スターペアレンツも大概何か問題を抱えていて、うまく近隣社会と繋がっていない。精神論であれこれいうのは簡単だけど、孤立させない仕組みを作る方が遠回 りだけど解決につながると思う。

 その孤立させない仕組みの一つとして、何かが欠けていると思っている人同士が、助け合う場をもっと提供して行ってもいいんじゃないかと思っている。日本ではあまり普及していないのだけれど、ルームシェア、コハウジングの ような取り組み。日本のコハウジングは高齢者住宅の流れで取り組まれているんだけど、もっと若い人も他者と繋がりたいという欲求が高いんじゃないかと思っ ている。海外のコハウジングの事例をみると、高齢者、シングルマザー、独身の男性、いろんな世代、いろんな背景を持つ人が一緒に協力し合いながら住んでい た。同じような観点で、ギークハウスとかファミリーサポートと かの取り組みは、すごく面白いと思う。ギークハウスは、ウェブ系のエンジニアとかクリエイターなどがルームシェアする取り組み。ファミリーサポートは昔で いうところのご近所さんの助け合いを制度化して人と人の助け合いをつなげる仕組みで、あちこちの社会福祉協議会で行われている。

 こういう仕組みが従来型のご近所さんとかと何が違うのかっていうと、基本的にはそれほど違わないと思う。きっと良いことも多いだろうけれど、プラ イベートな部分が知られたり、面倒くさいことがあったり、嫌なこともあるだろう。ただ、従来型のご近所づきあいって、入口の敷居が高いような気がするんよ ね。不文律の部分が多すぎて。不文律でやっていけるのは、メンバーの入れ替えがないコミュニティだけ。私のようにKYな人間には、その不文律がよく見えな くて、入っていくのがすごく怖い。そして、不文律が見えなくて、追い出されるんじゃないかという不安を抱えてしまう。今の都市部のようにメンバーがどんど ん入れ替わる中では、ある程度ルールを見える形にしていかないとコミュニティを維持するのは難しいと感じている。って、書きながらも、これは過疎部も同じ かもしれないと思った。過疎部は、どんどんメンバーが減っていくので、ルールが明確じゃないと、誰かのところに負担が過度にたまりがちになる。それに、し がらみが強いから、困った状況になっていても、言い出しづらい面があるように感じる。

 「家族が大事」と言っている保守的な人たちと、私が考えていることって似ている部分がある。彼らも、人間は支えあわないといけないって言ってい る。でも、旧来のやり方で、人と人をつなげるのは難しくなっているのよ。保守的な人にはそれが見えていない気がする。旧来のやり方は、空気がよめて、自己 の抑制ができる、よくできた人間じゃないと、うまく立ち回れないルールになっている。空気よめ!気い使え!って強要されたって、できへんものはできへんね ん*。今の時代では、できが悪い不完全な人間でも、何とか楽しく生活していくような仕組みを作っていくことが大事だと思う。子どもを虐待する親が悪 いとか、モンスターペアレンツの考え方がおかしいとか、働きに出る母親の自己顕示欲が悪いとか、離婚する人は協調性が足りないとか、最近の若者の自制心が ないとか、そういうのを責めても何の解決にもならない。

 ええと。私は、他人との距離感がわからないとか、世間話が苦手、空気よめへん、自信がなくてキョドっているとかで、コミュニケーション力がとても 低いのだけど、他の人とのつながりをすごく求めていて、他人と他人をつなぐ事柄にとても興味がある。博士論文のテーマも、そういう他人と他人をつなぐ事柄 に関するもの(って、今、これを書きながら気づいたよ。一応、交通計画が専門なので、バスに関する論文ですが)。博士論文が終わったら、少し時間ができる はずなので、そういうことにきちんと取り組んでいくことにしよう。ファミサポもずっと躊躇していたけれど、入会しよう。名前だけ登録しているNPOとかに ももっとちゃんと参加しよう。

(「何かが欠けている不完全な自分が他者とつながるには」というお題で、あと2回ぐらい書きたいことがあります)

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*もちろん、他人への気遣いをしなくてよいとか言っているわけではなくて。気を使おうとする努力自体は大事だと思うんだけど、気付けないこと を責められても、治すのは難しいと思ってしまうんだ。(オットを含め、周りの人、ごめんなさい。それに、よくわからないから、とりあえず謝ってしまう自分 がいやだ。)

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2009年12月25日 (金)

何かが欠けている不完全な自分が他者とつながるには 1/4 -誰かと一緒に住むことについて-

 独身の頃、 「猫が行方不明*」という映画の主人公が羨ましかった。猫が行方不明になったことを契機に、主人公の女の子とご近所さんづきあいが始まっていくという話で、話自体も面白かったのだけど、主人公のルームメイトがゲイの男の子という設定にすごく心惹かれた。その頃、私は一人暮らしがさびしくて仕方がなくて、家族が欲しかった。でも、実家は、いろいろと束縛されるし職場からも遠かったので帰る気には到底なれなかった。恋愛というのはなかなか難しいものだと思っていた時期で、恋人と住むといろいろドロドロしてしまってややこしい、女の子のお友達だと気をつかいすぎて嫌だなぁ、ゲイの男の子ならはじめから恋愛関係にならないし、サラッと付き合えそうだなと思ったのだ。防犯面からも男の子と一緒に住んでいると何かと安心だし。(でも、ゲイの男の子が彼氏を連れ込むのはちょっと嫌だ。そういうのは「外で」というルールにしたい。)

 その後、いろいろあって、今のオットと結婚して一緒に住み始めた。オットはゲイではないけれど、当時の願いがある意味かなったように思っている。

 子ども**まで作っておいて、何を言っているのかと周りの人にいつも怒られるのだけど、オットは私のすごく大事な友人だ。私と彼との関係は、わりとさらっとしている。彼はあまり私に気持ちのモヤモヤをぶつけてこない(たまにはあるよ、人間だもの、みつを)。それに、私のことにあまり干渉してこない。彼を含め彼の家族は、行為の主体的自由は本人に帰するものだと考えている考えているふしがある***。私にはわりとこれは難しいことをやっているように感じる。私なんか、ついつい人の行為にあれこれ言いたくなったり、束縛したくなったり、よくわからない気持ちをぶつけたりしてしまう。それに、何かあると心身が弱る。彼から見ると、私は何だか面倒くさい人間なんだろうなぁ。

 旧友は、私とオットを「性格とか嗜好でクラスタ分析したら、同じクラスタに入るぐらいそっくり」というが、私はそうは思わない****。オットも「ぼくとあなたは似てない」と言っていた。せいぜいお隣のクラスタで、クラスタをかなり統合していかないと同じクラスタに入らないと思う。私はオットがどのように物事を見ているのか、どのように考えるのかを知ってはいるけれど、分かりあえているかというと、そうでもないと思う。

 オットは他人の問題と自分の問題を切り離すことができるし、何か失敗したとしても気持ちを切り替えることが上手だ。それはすごく健全で、生きていく上で大事な処世術で、その方が周囲の人々と良好な関係を結ぶことができる。それに、オットは私がほしかったものをすべて持っている。運動神経の良さ、要領のよさ、器用さ、屈託のなさ、人当たりのよさ、趣味のよさ、たくさんの友人、やりがいがあってそこそこ給料の高い仕事などなど(先天的な能力もあるが、もちろん、彼の後天的な努力によるところが大きい)。彼が持っていないのは素敵な奥様だけかもしれない。でも、ソクラテスは「悪妻を得れば哲学者になれる」と言っているんだから、やっぱり彼は何でも持っているといえるかもね。私は他人の気持ちに引きずられることも多いし、気持ちの切り替えがすごく下手で、自分のことをグズグズしている不出来な人間のように感じる事が多い。意思が弱くて、いろんなことをまともにこなすことができないし。

 多分、私たちはお互いにわかりあえない部分があって、だからこそ、お互いのことを大事な人間だと思って、一緒に暮らせるのかな、という気がしている。オットがどういうつもりで私と結婚しているのか知らないが、私は彼が私の欠けている部分を補完してくれているように思う。もし私達があまりにも似ていたら、きっとうまく生活できない。

 結婚できて、よかったと思う。でも、オットがいなかったら、私は結婚していないと思う。

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 恋愛ってややこしいものだと、今でも思う。他者を好きになるということは、自分の中の何かをその相手に投影していることで、水仙の精とみんな一緒よ、きっと。この人のことを自分だけは理解してあげれる気がするとか、そういうの。自分を投影しているのに他者は自分の思いどおりにならいし、他者を自分の思いどおりにするって一体何なんだろうって思ったりとか、自己との対話を繰り返して、もやもやする。そういうもやもやが恋愛というものだと思う。

 付き合い始めたとしても、このもやもやは続く。この人にどこまで頼っていいんだろう、とか、本当に私達はお互いにとって必要な存在なんだろうか、とか。お互い適切に助け合って、自分のこともちゃんとして、というのが、よりよい人間関係を築くとは思うけれど、なかなか難しい。どちらかがどちらかに、もたれかかっちゃって、共依存になるとかありがちだし。途中でふっとどちらかが「あー、これ違う。勘違いだったわ。自分はこの人がいなくても、全然生きていける」と思ったら、それでおしまいだし。私みたいなモテないさん人生を送ってきたら、自分に自信がないから、相手が自分のことをいつか嫌いになるんじゃないかといつも不安で仕方がない。モテル人の持っているメンタリティ(自分への自信とか他者との距離感とか)は、大人になってから獲得するのが難しい。自分の心をもてあます感じとか、よそさまに迷惑をかけているところとか、それに対して申し訳なく思ったりとか、そういうのを考えると、体の中で何か有害な物質が生成される感じがしてくる。そういうの全部、面倒でややこしい。

 こういう面倒くさいものを制度化したのが結婚という形態だと思う。いろいろ考えるのが面倒なので、既存の制度にのっかって、みんながやっているのと同じ形におさまりましょう、ということ。制度であれば、役割分担が比較的明確だし、いろいろと義務や権利が発生するから別れるのが難しくなるし。それに、親や親戚、子どものことを考えると、この既存の制度にのっかっると、すごく楽になる。

 私が結婚した時は、頭の中がお花畑だったので、何にも考えずに、仕事もやめて、大好きだった土地を離れて、名字も変えた。でも、もう少し冷静になっていたら違う判断したかもしれない(といって、自分がしてきたことを後悔しているわけではなくて、ただ可能性としてそういうこともあるということ)。事実婚の人とか、かなり共感する部分ある。だから、結婚という制度にのっからなかった人/のっかることができなかった人が大きな不利益を被っているのは、おかしいと思う。情報の面でもそうだし、手続きもめんどうになるし、目にみえない真綿のような差別もあるし。この不利益は、まるで何か罪をおかした人への制裁のよう。おかしい、絶対おかしい。

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*「猫が行方不明」で、朝食に謎の薄っぺらいパンを食べていた。これは何だろう?と気になって探したら、「クラコット」という名前で、近所のスーパーで売っていた。賞味期間が長いので、うちに常備している。パンを買い忘れた時とかに便利。

**「だって、これは、だらだらとしたそういう生活そのものから生まれてくる物なのだから、あなたたち全員の子供なんですよ。」(多和田葉子:「枕木」、ヒナギクのお茶の場合)。子どもというのは、だららとしたそういう生活から生まれる、偶発的にできるものなんだと。でも、偶発的なものだとしても、自分が関与しているものである以上は、責任をとらないといけないし、責任をとるということは、愛情をかけるということと同義だよ、きっと。だらだらとした生活の産物なのに、子どもが産まれた途端、だらだらとできなくなるんだよな。

***アマルティア・センもケイパビリティ・アプローチの中で、同じようなことを言っている。センによれば自由とは、「本人が価値をおく生を生きられる」こと、より正確には、「本人が価値をおく理由のある生を生きられる」ことである。と、こうやって、偉い人の文章を引用すると、まるですごく勉強しているかのように見えるというライフ・ハック。ごめんなさい。本は読んだけれど、よく分かっていないです。

****クラスタ分析とは、与えられたデータを外的基準なしに自動的に分類する手法。データをもとに、似通っているもの同士をグルーピングする方法。物事を単純化するのに役立つので、結構使う。日常的にも、えいえいってデータを統計ソフトに突っ込んで、自動的にクラスタリングできたら便利なのにって思うことがある。

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 ここしばらく考えていたことをつらつらと書いていたら、ありえないくらい、すごい長い文章になった。ということで、4回に分けて投稿する。こういう無駄な文章が書きたい気分なんだ。論文と違って、個人的な思いを書けばいいし、論理性も厳密性もなくてよいし、文字制限もないから、楽しい(途中で、論理矛盾や飛躍に気づいたけれど、面倒なので、直さない)。まさに"書くことは慰安"。でも、blogでこんなに長文だと誰も読まない。

(私信)論文を仮提出しました。あとは、正式な論文提出、公聴会の審査が残っています、って、まだまだやん(笑)

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2009年9月26日 (土)

子どもに間違えられる

 先日、オットの不在時にオットあてに電話があった。相手さんが苗字の読み間違えをしてきたので、きっとセールスか何かだと怪しんで、必要最低限だけ答えていた。すると、「お父さんはおうちにいる?代わってもらえるかな?」と言ってきた。どうやら、子どもと間違えた模様。結局、マン ションのセールスだった。

 子どもに間違われたのもびっくりだが、子どもだと分かるや否や慣れ慣れしい口調で話してくるのにもびっくりした。子どもって、見ず知らずの他人にあんなに馴れ馴れしくされるものなんだ。

 私は声が幼くて、しゃべり方も幼い。幼い喋り方をしていると、頭の中まで幼く見られる。嫌だいやだ、と、ここ数日考えていたのだが、自分で意図的にやっている部分もあるんじゃないかと思い当たり、少しだけ反省。

 どうも、私は一人前に見られたくないと思っているんじゃないか。日本の社会は、女・子どもに対してわりと優しい。大人の男の人には教えてもらえないこと、やってもらえないことも、女・子どもには教えてもらえたり、助けてもらえたりする。私は世間から半人前に見てもらいたい、大目に見てもらいたいと思っている部分があるんじゃないか。

 もっとちゃんとした大人に見られるよう、まずは考え方から直そう、でも、とりあえず形から入るのも大事だから話し方を工夫しようかと思う33の秋。

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2009年4月10日 (金)

大人しい若者

 4月になって、新4年生が研究室に入ってきた。今年入って来た4年生は、とにかく大人しい。反応が薄い。でも、大人しいのは4年生だけじゃない。M1もM2もおとなしい。ここ数年間で卒業した子たちの中にも大人しい子、何を考えているのかが分かりにくい子はたくさんいた。

 学生たちとしゃべっていると、私の頃よりも同世代間の同調圧力が強いような気がする。彼らは人と違うことをするのを恐れているようにみえる。もし、何かに手を出して失敗したら、自分で責任を取れと批判されるだろうと考えている。それに、一回道から踏み外したら、元の道に戻るのがものすごく困難なことだと考えているようだ。もちろん学生の中でも元気な子はいるのだが、周りの学生たちは「あの人は変わっている」「自分とは違う」というレッテル貼りをする。

 少し前までは、若いんだから、もっとシャキッと元気よくすればいいのに、と冷たく思っていた。だけど、どうも個人的な問題だけでなく、若い子達を取り巻く環境が悪くなっているせいもあるかな、と最近は思っている。

 若者をとりまく環境悪化の端的な現象として、国立大学の学費はガンガンあがっているというのがある。年間の授業料は、10年前に比べて10万円あがっている。これ2割強上がっているん だけど、給料水準ってこんなに上がっている?上がっていないよね。マクドの時給、10年前と変わっていないし、大卒の初任給も変わっていないもの。学費の上昇に合わせて、学生への仕送り額 もどんどん減っているらしい。米百俵の話はどこに消えたんだ?

 学生の口から聞く話としては、就職活動の厳しさがある。国立大学の理系の学生であったとしても、ワーキングプアや派遣社員の問題は全然他人ごとじゃない。一昔前は学内推薦さえもらえれば、どこかに就職できた*。でも、今では学内推薦なんて、ないよりもあった方がまし、なくてもあまり困らないという代物。むしろ、大学は、学生にとって「シュウカツだけでなく、研究もしなさい」という足を引っ張る存在でしかない。

 それに、就職ができたとして幸せになれるかというと、そうでもない、という噂も入ってくる。サービス残業なんてあたりまえ、ボーナスが出ているだけましな方とか。公務員になったらなったで、安定した生活は得られるかもしれないが、「税金の無駄づかい」と市民やマスコミにたたかれる。国家公務員は、自殺率がめちゃめちゃ高かったりするし。SEやコンサルタントは鬱病で療養中の人間が多いよ、とか。

 こういう状況の中で、「未来は希望に満ちている」といえるのは、よっぽど、鈍感か、何か信念を持っているかのどちらかだ。

 でも、私は、学生さんたちには、信念を持って「未来は希望に満ちている」と、思っていてほしい。で、そう思うためにはどうしたらいいかというと、いろんな経験をすることが一番の近道だと思う。

 若さの特権というのは、失敗できるということにあると思うんだよな。失敗を恐れていたら、小さく小さくまとまってしまって、新しいもの、楽しいものを生み出せない。自分たちで道を作っていくのが、回り道に見えるかもしれないけれど、ハッピーになるための近道だ。だから、多少失敗してでも、何かに取り組んでいってほしい。自己責任論なんて気にしないでほしい。穴の中から世界を見ている時は、失敗したら誰も助けてくれないんじゃないかと思えるものだけど、そうでもない。大丈夫、君らがした失敗ぐらいであれば、誰かが穴埋めしてくれるし、君らが年取ったときに、他の人の穴埋めをすればいい。そういう経験を積み重ねれば、きっといろんな希望を持てるようになる。

 そういう思いがあるので、先日、学生たちとの勉強会の最後に次のような話をした。勉強会というのは、学生同士で研究のやり方や統計を勉強しなおしましょう、という場なんだけど、学生たちを前にして話す場がないので、やってしまった。

 話した内容は、以下のようなこと。

  • 学生のうちに、対価が得られるアルバイトじゃなくて、ボランティアをやってほしい。どんな分野でもいい。学生で時間に比較的余裕があるうちに、ぜひやってほしい。
  • 君らが社会人になったとき、ウリになるもの、拠り所になるのは君らの学歴じゃない。どういう経験をしてきたのかということだ。一番怖いのは、何もやらないで、何となく時が過ぎ去ること。
  • ボランティアというのは、する側もされる側も相互で依存し合っている。たぶん、君らがボランティアを始めて、最初の頃は、相手に何かを与えているという意識になるかもしれない。でも、何回か繰り返すうちに、君自身がされる側の人に助けられているというのにきっと気づく。
  • 大事なのは、自分自身と「他人の問題」を切り取らない、傍観者でいないということ。自分と関係ないと思って他人事と済ますのではなく、多少おせっかいになってほしい。
  • 私が学生の頃にした視覚障害者のガイドヘルパーについて。

 学生達の反応が非常に薄かったので、心に響いたかどうかはよくわからない。まあ、こういう恥ずかしい話に反応するのは、恥ずかしいことだから仕方がない。説教くさいと思われただけだと辛い。

 それにしても、こんなことを昼間っからお酒も飲まずにいうなんて、私も年をとって、図々しくなったなぁ。自分のこと全部棚上げやん(先月は、やる気がなくて土ごもりしていたのに)。でも、少なくとも嘘はついていないし、本気で思っている。今思い返すと、私ももっともっと若い時にいろんな体験をするべきだった。今からだって、きっともっといろんなことに手を出せる。

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*学内推薦のカードが使えるのは、男子学生だけだった。女子は学内推薦のカード選びからは外されていた(鉄道会社もゼネコンも女子なんかいらないってさ)。カードは、話し合いによって分配されるけれど、ひどい学年はジャンケンによって決めていたらしい。今では考えられないよなぁ。学内推薦でほぼ受かるというのもおかしいと思うけれど、短時間の面接で学生の一生を左右するのも何だかおかしいなぁと思う。


本/書籍に、高見沢 実: 都市計画の理論―系譜と課題高橋 愛典: 地域交通政策の新展開―バス輸送をめぐる公・共・民のパートナーシップ畠中 宗一・木村 直子: 社会福祉調査入門木下 是雄: 理科系の作文技術)を追加。社会福祉調査入門と理科系の作文技術は、学生向けの勉強会のために読みなおした。

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2008年12月30日 (火)

落ちこだりもしたけれど、私は元気です

200809211585  自称ポジティブシンキングの人があまり得意ではない。そういう人の前で、「これこれこういうことがあって、少し凹んでいる」という趣旨の話をすると、本当にろくなことにならない。「落ち込んでいたって仕方がない。その問題を考え込むのはやめて、元気を出してがんばれ」と言われて、それで終わり。

 私は落ち込んだ時に、ジブリの「魔女の宅急便」を思い出す。あの映画は「挫折とそれをいかに克服するか」という過程を描いたものだとおもう。自分ひとりでグルグルと模索してみたり、気晴らしに友人と遊んだり、友人の体験談を聞いたり、とにかくいろいろと足掻く。たかだかアニメかもしれないが、落ち込んだ時には魔女の宅急便を思い出して、私もキキと同じように足掻いてみようという気持ちになる。

 私は、落ち込むことって結構大事だと思っている。今起きている問題を他者や状況のせいにするのではなく、自分自身の問題として真摯にとらえないといけないだろう、落ち込んで足掻かないと、這い上がることなんてできないだろうって思っている。

 というわけで、年下の学生が凹んでいる時は「とりあえず落ちこめ。で、思いつく限り足掻け。手と頭を動かせ」とアドバイスする。落ちこむことができるのは、まずは問題を直視できているということだと思うから。逆に、落ちこまないで笑っている人間は、問題から逃げているだけだ。冷たいアドバイスだとは思うが、足掻いて、落ち込みから抜け出せた子は、すごく伸びる。でも、足掻くことがなかった人間は、あんまり伸びない。齢三十を過ぎて分かったことだけれど、世の中は不平等な時もあるが、努力に対する対価に対しては、わりかし平等にできている。

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写真:沖縄の辺戸岬

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