家族について

2013年3月31日 (日)

オットとは、何度か恋に落ちているんだと思う

綿矢りさの小説に、クリスマスはその一年間の通信簿のようと書いてあって納得した。

正月と同じくらい巨大な行事に成長したクリスマスは、その年の通信簿を兼ねている。今年を充実して過ごし、人とよい関係を築けた人間はわいわいと親しい人たちと楽しいクリスマスが送れるし、ひとりでも充実した日々を送れた人ならクリスマスにひとりでも別に堕ち込まずに淡々と過ごせるだろう。

結婚記念日も、結婚生活の通信簿なのかもね。

私たちの11回目の結婚記念日は、一家離散状態であった。

私は出張、オットは休日出勤、上の子は春休みで義実家に滞在、下の子は私の姉の家に預けられている。

でも、こんなにバラバラでも大丈夫。何も不安じゃない。少し落ち着いたら、お祝いしましょう。

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オットとは、何度か恋に落ちているんだと思う。

普段の夫に対する感情は恋愛とは少し異なっているように思う。愛情だか友情だかわからない。激情と違うのはたしか。

でも、それでも、ふっと「ああ、私、結構この人好きだな」と思うタイミングがある。

恋に落ちるというのは、事故のようなものなので、自分でコントロールできるものではない。

普段は友達。でも、時々恋人。

結婚11年目の夫婦としては、幸せなあり方なんじゃないかと思う。

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この1年間は、本当にしんどかった。

私が病気になった。オットは体を壊すほど仕事が忙しかった。そのせいで、家族の関係がギシギシと軋んだ。

何かがあったようで事件らしい事件は何もなかったが、穏やかな一年ではなかった。

この1年はどうにか過ぎ去った。でも、またそのうち何かが起こって家族の関係はギシギシと軋むこともあるように思う。

そういう軋みがあったとしても、私たちは何とかやっていけると思う。どうにかこうにかこの家族でやっていくという枠組みだけを裏切らなければきっと大丈夫。

がんばるけれど無理しない。お互いのことを思いやるけれど、心配しすぎない。

きっと大丈夫。きっと大丈夫。そう口の中でつぶやきながら、11年目の結婚記念日の夜は、ホテルで一人でこのブログを書いた。

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2012年4月 1日 (日)

流れるようで積み重なる日々

先日、こんな夢をみた。

オットとはまだ結婚していなくて恋人同士だった。一緒にどこかに出かけ、オットは私を家まで送ってくれた。家には私の子どもたちが待っているからと、途中のコンビニでお土産にアイスクリームを買ってくれた。やさしい人だなと思った。

多分、ここしばらく、オットと一緒に家で過ごす時間が短いせいで、こんな夢を見たんだと思う。なんだか少し寂しかった。


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前々回の記事を読んだオットから「脆性破壊は、急激に壊れる破壊ですよ。あなたの状態は、疲労破壊かな?」と指摘があった。んー。なるほど。私はちゃんと材料力学を理解していないということだな(>_<)

というか、指摘する点はそこだけでいいのか?


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オットと結婚して10年がたった。

私のオットに対する認識は、10年前とあまり変わらない。

オットのよいところは、他人に踏み込まないところと、他人がどうであろうとペースをあまり崩さないところ。オットは健全な精神の持ち主で、自分の決めた規範に従う正義の人である。よい会社員、よい隣人、よい父親、よい夫として振る舞うことを重んじる。

私が調子を崩している時は、もうちょっと踏み込んでほしい、一緒に疲れてくれほしいって思ったりする。でも、調子を取り戻した後でよく考えると、踏み込んできてくれなくてよかったと思う。

何かに依存できると、その瞬間はとても楽になる。でも、依存が常態化すると、依存させてもらえない時に事態はなおさら悪くなるし、自分の無力感を強く感じてしんどくなる。だから、結局のところ、楽に生きるためには、できるだけ他人に依存しないで自立して生きられるようにしないといけない。ということで、オットの態度はそれでよいのだと思う。


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オットは、私の考えていることがよくわかるという。オットからすると、私は単純で、感情が周りに筒抜けなのだそうだ。

そうであるなら、私のこのぐちゃぐちゃの感情を全部おもてに出して、すべての要素をラベリングして、図書館のようにきれいに整理して私に見せてよ!と思ったりすることもある。めちゃめちゃ身勝手だ(>_<)

でも、ぐちゃぐちゃだと思っているのは私だけで、傍からは、単純なところで立ち止まっているように見えるんだろう。私はもうちょっと自分を客観視できるようにならないといけない。


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オットと話をしている時に、育ちの違いが考え方に大きく反映されているのを強く感じることがある。育ちは変えられないのだから、私は、この先、この人とわかりあえないのかもしれないと思う。そう思うと、少しだけ苦しくなる。

でも、ある部分ではわかりあえても、他の部分ではわかりあえないというのは、夫婦であっても普通のことなんだろう。家族になろうと決めたのだから、分かり合えないからと断ち切ってしまうのではなく、どうにかこうにか折り合いをつけていくのが大事なんだろうなと思う。


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この10年で、家族が2人から4人に増えた。引越しは3回した。たくさんのものを買って消費して、家の中のものも増えた。陳腐な表現だが、この10年間は長くもあったし、短くもあった。日々が流れて行ってしまったようにも思うが、日々を積み重ねることで家族としての関係も強固なものになってきたようにも思う。

今後も、時折、メンテナンス(点検、修繕、整備などなど)をしながら、より良い2人の関係を築いていきたいと思う。改めて、初心に戻って、どうぞよろしくって感じです。

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2011年11月18日 (金)

きれいは汚い、汚いはきれい

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" きれいはきたない、きたないはきれい。
闇と汚れの中を飛ぼう。"


妊娠、出産、育児のさまざまな場面で、一つの物事に相矛盾するものが含まれているとよく思う。
多分、親というのは、子どもが感じる矛盾を一手に引き受ける存在なんだと思う。
私は未成熟な親なので、時々、矛盾をうまく引き受けることができなくて、子どもにかわいそうなことをしてしまう時もあるのだが。
成長するというのことは、様々な矛盾を自分の中で消化できるようになることのように思う。


今月で、下の娘が産まれてから六ヶ月が過ぎた。半年前にこの人はこの世に存在しなかったというのが不思議だ。

六ヶ月児にどこまで感情があるのかわからないが、観察していると表情がくるくると変わって興味深い。
いつまでも見惚れてしまう。
ベビーカーで移動中に身を乗り出して外を熱心に眺めたり、自分が座っているベビーカーを検査するかのように真面目な表情でパチンパチンと手で触ったり、こちらと目を合わすとにこっと微笑んだ後に恥ずかしそうに布で顔を隠したり。


六ヶ月児の発する言葉にならない声も面白い。
下の娘は、声がちいさくて、喉の奥の方で小さな声を出す。
機嫌がよい時に「キュッ」と笑い声をあげたり、「うー」「くー」といった喃語(書き写すのがとても困難な不思議な音)を発する。
赤ちゃんの声をきくと、つい真似をして同じような音を発したくなるが、大人が言うととてもキモいので、真似するのは推奨できない(>_<)


彼女はこちらの世界に慣れていないので、私たちは一緒にいるだけで貴重な時間を過ごしていると思える。
次女は、上の娘に比べると、あっという間に育っているように感じる。いつのまにかいろんなことができるようになっている(もう離乳食を食べてるんだぜ! 電気のコードを抜こうとしたり。この前、産まれたばかりなのに(>_<) )。
日々の喧噪の中では、大事なこと、貴重なことを見極めるのは難しかったりもするが、毎日をやり過ごすのではなく、月齢児との時間を丁寧に過ごしていけたら、と思う。


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最近、よく更新しているのは、通勤時間にiPhoneのココログアプリを使うようになったから。
iPhoneから、こんなに長文を入力する私って、ちょっとキモイわ(>_<)

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2011年5月15日 (日)

待ち人きたり

十月十日待って、やっと来てくれました。
小さいけれど、大きな女の子でした。
「待たせたな」という感じの顔をしてやってきました。
上の娘の新生児の頃にそっくりです。

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