育児

2013年11月 3日 (日)

何かを入力すると、不思議な歌になって出力される

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かえるの歌を二歳児の名前で替え歌をつくって歌ってあげていたら、二歳児はかえるの歌らしきものを歌うようになった。
でも、微妙にアレンジされていて、なんだか不思議な味わいのメロディになっている。
二歳児に何かを入力すると、大抵なんらかの変換がされて出力されるから面白い。

保育園の行き帰りに、二歳児はこの微妙な歌を歌う。
朝はまだしも、薄暗い夕暮れ時に聞くと不思議な気持ちになる。
二歳児はこの世じゃない側との繋がりが強いのだから、何かを連れてきてしまうような気がする。
でも、うちの二歳児が呼ぶものなのだから、あちら側の住民だとしても何かしら可愛らしいものだろう。
そう言い聞かせながら、魑魅魍魎がいそうな奈良の街を自転車を必死にこいで帰宅する。

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2013年2月15日 (金)

おつかい

私が子どもの頃、母は家で和裁の仕事をしていた。

時折、着物の切れ端を持って、近所のよろず屋さんに糸を買いに行った。
着物の切れ端を持っていくのは、切れ端と同じ色(あるいは少しずつ濃いぐらいの色)の糸を選ぶためだ。

近所のよろず屋さんは、姉の同級生のおばあさまが経営されていて、おつかい以外にも行き慣れた場所だった。
よろず屋さんでは、クリーニング、雑誌、煙草、文房具、そして裁縫用品を扱っていた。

絹糸は木の箱の中にぎっしりと敷き詰められて売られていた。
多彩な色の絹糸が箱の中にグラデーションでぎっしりと並んでいた。
あの絹糸のグラデーションの中から、ちょうどよい糸を見つけ出すのは、楽しい行為だった。

時折、ちょうどよい糸が見つからなくて、何も買わずにうちに帰ったこともあった。
何も買わずに家に帰るのは、少々緊張することだった。

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上の子が小さい頃、林明子の「はじめてのおつかい」という絵本を繰り返し読んで聞かせた。

よろず屋のようなところに牛乳を買いにいくというだけなのに、子どもの視点からはちょっとした冒険になる。

自転車も大きな犬もこちらに気づいてくれない大人も、まったく悪気はないのに、こちらを脅かす存在になる。

子どもならではの視点が伝わってくる、よい絵本だと思う。

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小学生の娘におつかいを頼む時が、時々ある。

今では日常になってしまったが、最初に行かせた時は、帰ってくるまで気が気でなかった。

子どもを持つと、はじめてのことばかり起きるはずなのに、忙しい日々を送っていると、その「はじめて」を忘れてしまう。

「はじめてのおつかい」を読むと、大人にとってもそういう「はじめて」の体験を思い出すことができる。

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2012年7月22日 (日)

コップがさねと不気味の谷に入ったぽぽちゃん

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うちは畳の上に布団をひいて、みんな一緒に寝ている。
下の子は眠りにつくまで、ゴロゴロと布団の上を転がる。
時折、下の子が、寝ている私の上に乗っかってきて、笑顔でチューしてくれる。
幸せ。よだれでべたべたになるけど。

うちの赤さんは育てやすいらしい。
保育園の先生に、そう言われた。
朝、親とお別れする時もあんまり泣かない。いつもニコニコしていて、一人遊びが上手。
お昼寝の寝つきも良いらしい。

赤さんは、今、コップ重ねにはまっている。
少しずつ大きさの違うコップのおもちゃを、延々と積み上げ続けている。
積み上げが終わったら、拍手をしてひとしきり喜ぶ。
そのあと、違う積み上げ方をしてみたり、おままごとみたいに飲み物を飲むふりをしたり、私にコップを渡してくれたりする。
上の子は、こんな遊び方をしなかった。私がコップを積み上げるとがちゃっと崩す。それを見て悲しむ私の顔をみて喜んでいた。
赤さんでも、遊び方に性格の違いが出る。

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下の子は「ぽぽちゃん」というお人形を怖がる。
ぽぽちゃんは抱き人形で、横にすると瞼を閉じたりする。顔は日本人の赤ちゃんの平均顔。
どうもこの微妙にリアルな顔がダメなようだ。ぽぽちゃんを下の子に近づけると、顔をそむける。ぬいぐるみとかは平気なのに。私がぽぽちゃんを抱っこしていると近寄ってこない。
人形は、人間の顔にある程度似ていると親しみを持つことができる。でも、あんまり似ていると、表情が固まっているのを不気味に感じる。多分、下の子にとって、ぽぽちゃんは、「不気味の谷」に入っているんだろう。

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2012年5月12日 (土)

いつもニコニコあなたの隣に這いよる混沌アカサンホテプです♪

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下の子が1歳になった。私はほとんど成長していないのに、赤ちゃんはすくすくと育っている。赤さんと一緒にいると、時間の進み方が軽く歪む。

最近の赤さんは、「$%&’$%&’())++@」と、何とも名状し難き声で楽しそうに話すだけでなく、人間の言葉も理解するようになった。

抱き上げると「いあ!いあ!」と喜ぶ
人とお別れする時に「バイバイ」というと腕を前後に振る。
「おいしい?」と聞くと手のひらで頭を軽く二回叩く(本当は頬っぺたを2回叩くというベビーサインを教えたのだけど……)。
電気プラグを抜くなどいたずらをそっとしている時に「ダメ!」と言うと、びくっとしてやめる。そして、恥ずかしそうに片手で顔を抑える。
「いないいない」というと両手で顔を覆い(手が小さいので顔の半分も隠れない)、「バー」で手のひらを顔から外して笑顔を見せる。
などなど。

言葉だけでなく、動きもかなり活発になった。
ふと気がつくと、ニコニコしながら「(」・ω・)」うー!(/・ω・)/にゃー!」と隣に這いよって来る。
私の姿が見えないと、家中を非幾何学的な直線を描きながら、はいずりまわって私を探す。
ハイハイが上手にできるせいか、立つのはあまり上手ではない。
自分からつかまり立ちをしたのに座れなくなって、「ふんぐるい むぐるうなふ」と呪文の言葉を唱えて大人を召喚しようとする。

いたずらも増えてきた。
引き出しや引き戸が開いていると目ざとく見つけて、せっせと中身を出す。
ティシュペーパーやウェットティッシュを一枚一枚ケースから引き出す。などなど。
赤さんは、ニコニコ笑いながら、部屋を冒涜的な禍々しい混沌に陥れる。

先日、出かける間際に、台所で物音がした。柔らかな体をもつ何者かが迫ってきているような物音だ。慄然たる思いで様子を見に行くと、空になったコーンフレークの袋が捨て置かれ、赤さんは床の上のモノと化したコーンフレークをせっせと拾って食べていた。私は、地表に叩きつけられたかのような絶望感に襲われ泣いてしまった。

赤さんと一緒に生活していると、無我すら許されない不定の悲しみに陥ることもあるけれど、時空を超越した底知れぬ多幸感に浸ることもあって、感情の振れ幅が激しくなる。赤さんと生活していると、SAN値を保つことはなかなか難しいです。「莫迦め! t80935は死んだわ!」とならないように、ぼちぼちとがんばってSAN値を適切に保つようにしたいものです。

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*名状しがたいアニメ「這いよれ!ニャル子さん」をリスペクトして書き出してみたけれど、クトゥルフ初心者なのでうまく書けけませんでした。「窓に!窓に!」が使えなかった(;_;) 使い方が間違っているものも多そう……。中途半端な悪ふざけでごめんなさい(>_<) (ニャル子さんは、萌えアニメっぷりに2話目でついていけなくなった )。

**いまさらながらはてぶボタンを設置してみました。

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2011年7月 2日 (土)

子どもから見える世界

 上の娘はもうすぐ7歳になる。気持ちの上がり下がりが大きくて、調子のりで、とても子どもらしい子どもだと思う。私はその言動に、少しびっくりする。歌ったり、跳んだり、踊ったり、ポエムなことを言ったり。とてもかわいいと思う。元々の性質もあると思うが、私たち親がそれを喜ぶのであえてしている面もあるかもしれない。

 娘に「これ、やってみる?」と聞くと、だいたいのことに取りかかりたいと返事をする(取り組んでみて、すぐ飽きて嫌になるということも多いけれど)。娘はこの世の様々なことを知りたがるし、新しい物事の多くは取り組むと楽しいと考えているようだ。

娘は近所でお気に入りの場所が二つあるという。一つは、佐保川の流れを坐ってみることができる場所。もう一つは、生駒山に夕陽が沈むのを見ることができる路地。それを聞いて、娘には、この世界は美しく楽しいものに見えているのだなと感じた。

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 子どもから見える世界を美しくするのも楽しくするのも、大人の役割だと思う。この世の中には、汚いもの、うんざりするもの、おぞましいものがたくさん蠢いているが、それをあえて子どもに見せつける必要はないと思う。

 人というのは無数の情報の中からいくばくかの情報を選択する。意識的にする場合もあるだろうし、無意識でする場合もある。特に、子どもが触れることのできる情報は限られていて、その限られた情報から、子どもなりの世界観を作り出す。私は、できれば、子どもはこの世界は生きるに値するものだというポジティブな世界観を持ってほしいと思う。そのため、子どもの前では話さないこと、誤魔化すことが多々ある。

 私が子どもの頃も、多分、大人はたくさんの物事を隠していた。それでも、少し大きくなると、大人が匂わせる秘密の断片にいろいろな類推をした。それに傷ついたり、背筋が凍る思いをしたり、気づいていないふりをしたりした。大人がどれだけ情報を統制しようとしても、どこか子どもが感じ取ってしまうものもある。

 大人が隠していた秘密の多くは、私が大人になったら明らかになった。大したものではなかったもの、やれやれと思うこと、様々だった。大人になった私は、そういうことなのかと納得して、ある程度理解できた。そして、身近な大人たちがそれらから私を遠ざけようとしてくれたことに、一応感謝した。子どもの私には抱え込むことができなかっただろうから。

 どこまで子どもに説明するべきかはいつも迷う。知識や情報は世界を広げることになるかもしれないが、その重さや他人との相違にうまく対応できないかもしれない。娘の能力や発達段階をきちんと見据えた上でできればよいと思うのだが、なかなか難しいといつも思う。

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2011年2月25日 (金)

本は自分で選ぶものだと、母が言った

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 私は、現実に対応する力が不足している。気がつくとぼーっとしている。妄想の世界に逃げ込みたくなっている。物語の世界に浸り切って、ずっと傍観者でいられたらいいのにって思う。

 でも、自分の想像力が貧困なのもよく知っている。おそらく、自分の思い通りになった世界って、ものすごく陳腐で生きる価値がないだろう。だから、思い通りにならない日々を、どうにかこうにか当事者として楽しんで過ごそうと思う。

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 母が教えてくれたことの中で一番ありがたかったのは、本を読む習慣。本を読みなさいと言われた覚えはない。ただ、図書館への行き方、本の借り方、図書館では静かにすることだけを教えてもらった。親の本棚を探っていて、怒られたこともない。どの本を読むとよいとか、この本が面白いとか、お母さんはこの本が好き、とかそういうことを言われたこともない。

 ある時、姉が母に「○○(甥)の国語の勉強の成績が悪い。変な本ばかり読む。いろいろと面白いよと薦めているのに」と愚痴を言ったら、母は笑いながらこんなことを言ったらしい。

「本というものは自分で選ぶものであって、人に薦められて読むものじゃないでしょ」

 母がいいそうなことだ。私も、勉強のためにって太宰治とかドフトエフスキーとか渡されてたら、絶対に読まなかった。私にとってその手の本は、親の本棚からそっと借りて、少し背徳感を感じながら読むものだった。

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 最近、娘は一人で本を読むようになった。保育所でも、時折、部屋の隅っこで集中して本を読んでいるらしい。娘が本を読んでいる時に話しかけても、ろくに返事をしない。ひどい時はトイレに行くのも我慢して、キリがいいところまで読むと、走ってトイレに駆け込んでいる。

 協調性の無さ等が少し気にかかるところではあるが、娘のような他人にペースを乱されるのが大嫌いな人間にとって、本を読む習慣があるというのは幸せなことだろうと思う。自分のペースでできるし、空想の余地が多いし、どこでもできるし、何より静か。他人を待つのが苦にならないし。このまま、読書好きに育つといいと思う。本はいつでも望んだ時に友達になってくれるし、裏切らないから。いつでも手軽に逃げ込めるものを持っておくということは、心強いことだ

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 ここ数年、cocologのリスト機能を使っていたのだけれども、あまりに使い勝手が悪いので、少し前から読書メーターとブクログを使い始めた。

 読書メーターは、絵本であろうが漫画であろうが仕事で読んだ本であろうが、とりあえず読んだ本すべてを登録している(見直したら、最近、漫画ばっかり読んでるなぁ。ちゃんと本を読め、私)。ブクログは、引用ができるのと少し長い文章が書ける。ちょっと長めの感想やメモを書きたい時などに活用しようかと思っているけれど、まだあんまり書いていない。

 読書メーター:http://book.akahoshitakuya.com/u/76865

 ブクログ:http://booklog.jp/users/t80935
 感想/メモはこちら→環境の政治経済学(除本 理史,上園 昌武,大島 堅一著)コララインとボタンの魔女(DVD)ジョゼと虎と魚たち(DVD)ショートカット(柴崎 友香著)

 本の感想などを書きだして思ったのは、ただの愛好者でよかったってこと。物語の世界に浸るのはとても楽しいことだけど、自分の感受性の低さとか、受け止めたものを表現する能力の低さとかにうんざりしてきた。子どもの頃は、小説家などの本を執筆する仕事につきたかったんだけどな。(比べるのもおかしいかもしれないが、「未映子の純粋悲性批判: 大島弓子を読めないで今まで生きてきた」を読んで、ちょっとショックを受けた。最近、バナナブレッドのプディングを読んで、川上未映子さんの感想に強く共感したのだけど、こんなに読ませる文章を書くことはできない。すごいなあって、ただただ指を加えて感心するのがちょうどよいと思ったのですよ)

■写真:最近の娘の就寝時の友だち。魔女の宅急便は、私にとっても大事な友だち。親元を離れて暮らすことの心細さ、自分の居場所をどうやって作るのか、自分のやりたいこととできることの折り合いをどうつけるのかといったことに、自分のことをついつい重ねてしまう。

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2011年2月19日 (土)

文字を残す 忘れぬように 忘れてもいいように

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■写真:娘が書いた初めての物語。1枚目「まほうのともちゃん。ぼくまほうつかい」。2枚目「ぼく いま ほうきのってる」連載はいきなり二回で終了。

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 娘は、少し前まで文字のない世界に生きていた。そのせいか、文字を読むこと、書くことが楽しくて仕方がないらしい。

 子どもは形を丸暗記する能力に長けているので、読むのはあっという間にできるようになった。でも、子どもに文字を教えるのは難しい。ひらがなは生活の中にありふれているので、読みを覚えるのは難しくないのだけれど、書くのが難しい。「あ」とか「む」とか。カタカナは読みを覚えるのには時間がかかるのだけれど、直線が多いので書くのは簡単みたい。漢字は象形文字なので、形そのものに意味があるが、ひらがなやかたかなには形自体に特に意味がない。そのため、丸暗記するしかない。

 最近、娘は漢字を類推して読むようになってきた。例えば、先日は「千葉」の文字を見て、「せんり」と読んでた。借りぐらしのアリエッティは「ひとりぐらしのアリエッティ」と読んでいた。両方とも間違っているんだけど、知っている言葉をあてはめて、自分なりに世界を理解しようとしていることだと思って、母は感動したよ(親バカですみませぬ)。

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 文字を覚えてしまうと、もう文字がない世界には戻れない。子どもが文字を覚えるというのは大きな成長ではあるのだけれども、世界の認識の仕方は大きく変わってしまったように思う。

 おそらく、今以上に、言葉に感情がひきずられてしまうことになるだろう。子どもの保育所のお友達の間で、お手紙ごっこが流行っていた。そのやりとり自体はとても他愛もない可愛らしいものではあるのだけれど、場合によっては文字で書かれているがために傷ついたりすることもあるだろう。例えば、「すき」という言葉は、声だけしか伝達手段がないのであれば、その場に一緒にいることが必須であるし、音はその場で一瞬で消えてしまうので徐々に記憶も薄れて行く。でも、文字はそうじゃない。いつまでもそこに残ってしまう。たぶん、文字を見直すことで安心することもあるだろうけれど、文字に囚われてしまうこともあると思う。

 成長っていうのは不可逆なものなんだなって、たびたび感じる。知ってしまったら、もう知らない世界には戻れない。もちろん、いろんなことを知ることで、世界はどんどん広がって行く。できることが増えるし、将来できるかもしれないことの可能性も高くなる。よく分かっているよ。でも、私は感傷的な人間なので、ついついなかった世界というのを懐かしんでしまう。

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■ 漢字と日本人 (文春新書) 高島 俊男 (著)

 かなり昔に読んだ本なのだけど、日本語と漢字の関係について、わかりやすく書いてあり、大変面白かったので紹介。

日本人は文脈から瞬時に判断する。無意識のうちに該当する漢字を思い浮かべながら…。あたりまえのようでいて、これはじつは奇妙なことなのだ。本来、言語の実体は音声である。しかるに日本語では文字が言語の実体であり、漢字に結びつけないと意味が確定しない。では、なぜこのような顛倒が生じたのか?漢字と日本語の歴史をたどりながら、その謎を解きあかす。(Amazon の内容紹介より)

 娘は、今はほとんど仮名だけの世界に生きているが、さらに漢字を覚えると、文字への依存度は高くなるだろうなあ。昔は、「文字を知っている」ということは、「学がある」と同じような意味を持っていたらしいよ。今の「生きる力」とか「新しい学力」とかに比べると、なんとシンプルな評価基準なんだろうね!

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2010年12月31日 (金)

バイクはブロロロロロ、電車はがたんごとん

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 昨年に引き続いて、今年最後のblog記事も娘のことなど。 

 当たり前のことなのだけど、私は娘のことが好きだ。私に似て内向的なところもあるけれど、顔も言動もオットにそっくりで、調子乗りでおしゃべり。人見知りもするけれど、30分くらいして場の雰囲気をつかめば、自分のペースで動いたり喋ったりする。

 ああ、それなのに。それなのに。運動神経は私に似て鈍いんだ。私はびっくりするぐらい運動神経が悪い。運動が嫌いっていうわけではなくて、体をどう動かせばよいのかよくわからないんだ。走り方が分からない。人が動いているのを真似することができない。娘は、歩くよりも、跳ねたり踊っていることのほうが多いのに、足が遅いなんてね。時折、気持ちに身体が付いて行っていない。かわいそうだけど、仕方がないから、母と一緒に走る練習をしよう。

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 娘は、私のお腹にいる金魚ちゃんに対する態度がまだ揺れている。でも、少しずつ受け入れつつあるようだ。

 少し前まで、娘にとって金魚ちゃんは自分を脅かす存在でしかなかった。「生まれなくてもいい」「おかあさんがとられるから嫌だ」とさんざん言っていたので、家では赤ちゃんの話をしないように気をつけていた。だが、妊娠5カ月目の検診の際、私と一緒に娘は診察室に入れてもらい、看護婦さんに教えてもらいながら胎児のエコーの映像をみたら、急に態度が変わった。エコーを見ながら、「かわいい」「生まれるのが楽しみ」と言い出したのだ。白黒の映像で、黒い影のような胎児は大してかわいいものではない。でも、リアルタイムに動いているのを見ることができたのがよかったようだ。大人でも、具体性がないものは、リスクを大きく捉えがちだから、気持ちはよくわかる。

 その日以来、時折、娘は私のお腹に耳をあてて、じっと耳をすます。まだ妊娠中期なので、胎動はそれほど明確に感じられるわけでもないのだけれど。先日も夕飯後に、娘は私のお腹に耳を当てながら「金魚ちゃんがなんか言ってる」と嬉しそうに言っていた。でも、申し訳ない。それは、ただ単に、私の胃袋が夕飯を消化している音なんだ。娘が真剣な顔をしているので、私は「そうだね」と頷きながら娘の髪を撫でた。もう少しして、胎動の音がもっとはっきりと聞けるようになると、楽しみが増えるね、きっと。

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 日々、娘の語彙は増えつつある。娘の使う言葉は面白いように思う。どこで覚えてくるのかがよくわからない言葉も多い。以下、娘の言葉の例(もっといろいろあったのだけれども忘れてしまった。残念><)。

  •  「私な、自転車めっちゃ早くこげるねん。向こう見ずだから」(自転車で暴走するのは危ないのでやめて欲しい><)
  • 「お腹の金魚ちゃんにいろんなことを教えてあげたい。ブロロロロロといっているのがバイクで、がたんごとんいってるのが電車。生まれて来た時に役立つように」。擬音語の響きが面白くて、私も口の中でブロロロロロ、がたんごとんと言葉を転がした。
  • ブランコの柵で遊んでいて、落ちて顎に怪我をした次の日。「あの雲みたいに目の前が見えにくくなるのってなんだっけ?」と娘が聞いてきた。私が「霧?」と答えると、「私の目の前はいつも霧がかかっているみたいに先が見えないから、失敗ばかりするねん」と言う。その霧という比喩、必要か?娘が悲しそうに言っているのに、私とオットは笑ってしまった。

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 7年前、私に子どもが育てられるのか不安で不安で仕方がなかった。今だって、私は良いお母さんじゃない時がある。でも、今のところ、娘はぼちぼちかわいく育ちつつある。本当にありがたい。

 来年は家族も増えるし、奈良に引っ越しもするし、娘は小学校に上がるしで、大きな変化ばかりで、「そんな装備で大丈夫か?」って思うけれど、「大丈夫だ、問題ない」って感じでがんばる!!!ていうか。大丈夫じゃないとしても。踊るしかないんだよ。踊り続けるしか道はない。悲壮感漂わせずに、少しでも楽しそうに踊ることができればいいんだよ。

 ということで、これが今年最後の記事です。1年間ありがとうございました。blogは、不定期ながらも、ぼちぼちと続けていきますので、来年もよろしくお願いします。

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写真:スイミングスクールの記録会で銅メダルをもらった娘。テレビで見たのを真似して、メダルかじってる。

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2010年11月26日 (金)

モノとして見られることと、子どものささやかな自尊心と

(注)私の中で大事な話だったりはしますが、暗い話で、人によっては不愉快になるかもしれません。申し訳ありません。子どもの頃に遭遇した痴漢みたいなものに関する話です。

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 先日、不意に、子どもの頃に痴漢まがいのことをされたことがあるのを思い出して、眠れなくなった。子どもの頃、よく行っていたあの場所にどうしていかなくなったのかなあと、記憶を手繰り寄せたら出てきてしまった。かなり気持ち悪い経験だったので、忘れたいと強く願って、本当に蓋をするように忘れていた。記憶というものはすっかり忘れたつもりでも、不意に顔を出して、皮膚を抉ろうとするので、困る。子どもの頃に感じた気持ち悪さと罪悪感、心細さなんかを思い出して、布団の中でひとしきりしくしくと泣いた(ええ大人がすることではないと思うが、泣くというのはストレスの発散方法として一番簡単だったりするので)。

 私は、それほどかわいらしい子どもだったわけではない。おかっぱ頭のどこにでもいるような垢抜けない子どもだった。でも、ブサイクでも、肌の露出なんかしてなくても、ダサい格好してても、痴漢にはあう。むしろ、地味で、大人しそうで、誰にも言わなさそうな子どもを狙うんだろう。自分の保身のために*。

 子どもの私にとって、自分が誰かの性的な衝動をかきたてる可能性があるというのに気づくことは、かなり気持ちの悪いことだった。そのせいで、自分の存在、行動に罪悪感があった。自分がもっとしっかりしていればそういうことに遭わなかったじゃないか、自分の行動に落ち度があったのじゃないかと思った。そして、自分はひどく傷つけられたと感じた。

 大人に言うと怒られるような気がした。誰にも相談できず、といって、自分一人で考え続けるのも嫌で、忘れよう忘れたいと願って、そのまま忘れていた。その後、男性不信に陥るでもなく、結婚して、子どももいるので、大きな傷跡は何も残っていない**。でも、やっぱり当時相談できる大人がいて、「君は悪くない」というのを言ってもらえたらどれだけほっとしたことかと思う。

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 私の何が傷ついたのか。侮蔑的な言葉を投げつけられたわけでもなく、身体的に残るような何かをされたというわけでもない。多分、私の自尊心がひどく傷つけられたのだと思う。大人に性的な視線で向けられるということは、私が自分の意志を持たないモノとして見られているというように感じたのだと思う。

 んー。他の人のことはよくわからないが、性的な視線というのは、相互の承認がない限り、恐ろしいことのように思う。でも、まあ、大人になれば相互の承認がなくても、そういうことがありうるというのはわかる。それに、他人の性癖にあれこれいうべきではないと思っている。ロリータ・コンプレックスの人も頭の中では好きにしたらいいとは思う。非実在未成年に対してなら、私は何をしてもいいと思っている(ただ、私は眼にしたくないし、子どもにも触れさせたくないので、ゾーニングはしてほしい)。受け入れてもらいにくい性癖だと思うが、そういうのがあるのは否定できへん***。でも、お願いだから、決して実際の行動にうつしてくれるなと思う。子どもと大人では、持っている情報に差があるし、体格差もある。少なくとも私はかなり愚かな子どもだったし、何もわかっていなかった。愚かな子どもが悪いのではなくて、悪いのは子どもに被害を与える大人だ。

 もし、自分の子どもがそういう被害にあって誰にも相談できずにいたらと思うと、いたたまれない気持ちになる。自分の子どもでなくとも、子どもが大人の性的な衝動の被害に遭うのは許さない。

 周りの大人は、子どもを悪意から完全に守ることはできないのかもしれない。でも、「子どもは罪悪感を覚える必要はない」と教えること、悪意を持った存在から身を守る術を教えることは重要なのではないかと思う。えっと。ここから先は、もっと具体的に考えないといけない。もうちょっと知識を付けて、また、後日書こうと思う。
 
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*大学生の頃、2個上のM先輩と痴漢に関して言い合いになったことがある。「肌を露出するような服を着ておいて、痴漢にあったとか騒ぐのはおかしい。被害にあう側にも責任があるだろう」と先輩が言い放ったので、「被害者に落ち度があるわけないでしょ!」と怒った(でも、話を理解してもらえたかは不明だけども。つーか、私が顔を真っ赤にして怒るのが面白くて、先輩はひどいことをわざと言っていたな。ひどい><)。
 何を着てようが、責任を被害者に置くのは間違っている。それとも、衝動を抑えられないほど、行動と感情が直結している人ばかりなのか? そんなわけなかろう。文化的な社会生活を送る上で、行動と感情を分けることは最低限度の必要なことだ。

** 傷跡がないのであれば問題ないという考え方もあるかもしれない。無菌状態で育つことなんかできやしないのだから、そういう大人の悪意に触れるのは仕方ないと。こんな小さいことで、ギャーギャー騒ぐなと。
 でも、もしかしたら、私が受けた被害は小さくてすんだものの、運が悪かったらもっと大きな被害になったかもしれない。私がきちんとここで考えることが、自分の子どもや小さき人達を守ることに少しでも繋がるのなら、ギャーギャーと大げさに騒いでもよいのではないかと思った(といっても、blogに書くだけだが)。

*** ロリータとか、わからないこともない。全盛期の加護ちゃん、辻ちゃんとかも、かわいかったしなぁ。でも、想像の中で、かわいいあの子と恋人同士になるのと、危害を加えるのとでは、深くて広い溝があろうて。

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2010年11月19日 (金)

今、お腹の中に金魚ちゃんがおります

 子どもの頃、かたつむりに雌雄がないと知って、母に伝えた。気持ち悪いねぇって。私の言葉に対して母は、「気持ち悪くないよ。素敵な人だったら、男女の区別なく好きになれていいじゃない」と答えた。

 でも、子どもが母にしたい話って、基本的に承認しか求めてない。男女の区別がないほうが幸せって言われた当時の私は、自分の足場がぐらつかされた気がして少し混乱した。うちの母は、時々、わざと韜晦して、子ども相手にも本気で返事をする人だった。

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 今、お腹の中に人がいる。

 産婦人科でエコーを見せてもらった際、やたらと手足を動かしているので「金魚ちゃん」と名付けた。産まれたら、人間の名前を贈る予定にしている。それまでは金魚ちゃん。水の中で、すくすくと育つ金魚ちゃん。

 金魚ちゃんは、まだ10cmの体長しかないのに、人間として必要な器官はだいたい備わっているらしい。今は、絶賛、細胞分裂中。

 金魚ちゃんは、私と一心同体のようで、そうでない。へその緒で繋がっているのに、私とは別個の命。私が風邪を引いても、金魚ちゃんはげーんき元気。たまに、自分と子どもの人格を同一視するお母さんがいると聞くが、その気持ちはよくわからないな。

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 かたつむりにみたいに雌雄の区別がないといいのになって、何度か思ったことがあります。
 
 妊娠、出産は、女性にしかできない(少なくとも、今のところは)。もし、雌雄の区別がないのであれば、前回は私が出産したから、次はあなたねって、交替で妊娠すればいい。妊婦/出産がすごく嫌だというわけでもなく、いや、嫌なのかな? よくわからない。もし、私のパートナーが妊婦/出産してくれて、私の子どもが産まれてくるとしたら、幸せなことのように思えたりします。

 んー。でも、お腹の中に人がいるという状態を味わえるというのも貴重なことのような気もします。今のところ、男の人は一生味わえないことですからね。貴重な体験を、じんわりじわじわと楽しめばよいのですよ、きっと。

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 あー、さてさて。なんかまとまりのない文章ですけれども(それぞれの文章を繋げる努力を放棄しています)、7年ぶりに妊婦になって思ったことなどです。無理しないように、できる範囲で、ぼちぼちと日々を過ごしております。私は時折かぜなどをひいておりますが、大きな不調もなく、金魚ちゃんともども元気です。

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