ボランタリー組織だからこそ高位の均衡状態への移行が可能であるということ
下記の記事は、3年前に書いて下書きに入れて忘れていたもの。改めて読み直したら、今の時期にこそ、こういう論文が求められているんだろうなあと思いました。
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2009年度の土木計画学研究・論文集がやっと届いた。巻頭に京大の小林潔司先生の「起業的都市・交通政策と地域学習ガバナンス」というタイトルの論文が招待論文として掲載されていて、すごく面白かったのでメモを残そうと思う。私はこの論文がすごく好きだ。論文の内容は、都市・交通政策において、ボランタリー組織に期待される役割と課題について。
小林先生は、数理モデルをガシガシ使うような研究を多くされているので、今回の論文の内容は少し意外だった(でも、講演で、今回の内容も将来的にはモデルで表したいとおっしゃっていた)。
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以下は、ボランタリー組織が必要な理由について。ボランタリー組織が泡のような存在であるからこそ、必要であるということ、そして、伝統的な方法では既存の均衡状態を改善することができず、ボランタリー組織だからこそ高位の均衡状態への移行が可能であるということ。ここの部分だけで、私はかなりグッと来ている。今まで自分のやってきたことややりたいこと、私の大事な知人たちがやってきたことって、こういう意義があると納得したし、すごく勇気がわいた。
公共サービスの提供を、「責任遂行能力に限界があるボランタリー組織にゆだねていいのか」という懐疑的な見方もある。
しかし、公共サービスの提供にボランタリー組織を活用しようとする背景には、もとより「多くのボランタリー組織が泡のような存在である可能性がある」ことが暗黙の了解となっている。
むしろ、社会が大量の泡を必要としているといった方がいい。
「ブクブク泡立ってくれる」ことが、社会にとって必要なのである。
公的サービス市場では、需要と供給の関係により、予定調和論的に市場均衡が実現されるとは思えない。
個人行動が他者の意思決定や多くの制度的補完性の下で実現される場合、そこには極めて多くの均衡状態が存在する。
複数均衡の中で低位均衡に陥った場合、より高位の均衡に移動するための政策が必要となる。
このような均衡選択の問題を、外部経済を内部化するような伝統的価格政策では解決できない。
つねに、既存の均衡状態を改善しようとして「ブクブク泡立ってくれる」ことが必要である。
重要なことは、このような泡の発生メカニズムを何らかの方法で規律づけ、より望ましい均衡状態に移行することが可能であるかという点である。
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ボランタリー組織が有している優位性について。
筆者らは、ボランティア組織が公共サービスの提供に参加する意義は、「個別事例の重視」、「潜在的なクライアントの検出」において、ボランティア組織が比較的優位性を有している可能性が高い点を指摘したい。
行政が公共サービスを提供する場合、普遍主義(impartiality)原理を考慮しなければならない。
すなわち、行政がある特定の個人やコミュニティに、特別のサービスを提供する理由を正当化することは難しい。
しかし、市民が必要とする公共サービスの内容や質がコミュニティによって多様に異なる場合、効用サービスの内容も住民のニーズによって多様に差別化される必要がある。
このような公共サービスの差別化を普遍主義原理の下で実行することは極めて困難である。
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以前、ある後輩とNPOやボランティア組織が公共性を持ちえるかについて、議論になった。その後輩は、NPO等は公共性を持ちえない、なぜなら目の前の個別のことしか対応できないからだと言った。私はそれに強く反論したのだけれど、お互いの間で「公共性」について、共通認識がうまく作れていなかったので、 結局言い合いになってしまった。その後輩はそのまま行政に就職してしまったが、認識は変わらないままなんだろうか。だとしたら、すごくもったいない。あの時に、この論文のように、きちんとNPO等が持つ限界を整理しながら、どうやって活かしていくのか議論することができればよかったのにと思う。
■引用論文
小林潔司, 大西正光: 起業的都市・交通政策と地域学習ガバナンス, 土木計画学研究・論文集, Vol.26, no.1, pp.1-13, 2009)(J-GLOBAL)
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3年前に書いた文章を読み直したら、講演を聞いた時の高揚感を思い出した。昔の自分って、今よりも素直でいいやつだったんだなって思った。年を重ねると、どんどんひねくれていくんだろうか? 論文や講演で高揚できるという、この素直さを取り戻したいものだ。
