研究のこと

2012年6月 5日 (火)

ボランタリー組織だからこそ高位の均衡状態への移行が可能であるということ

下記の記事は、3年前に書いて下書きに入れて忘れていたもの。改めて読み直したら、今の時期にこそ、こういう論文が求められているんだろうなあと思いました。

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 2009年度の土木計画学研究・論文集がやっと届いた。巻頭に京大の小林潔司先生の「起業的都市・交通政策と地域学習ガバナンス」というタイトルの論文が招待論文として掲載されていて、すごく面白かったのでメモを残そうと思う。私はこの論文がすごく好きだ。論文の内容は、都市・交通政策において、ボランタリー組織に期待される役割と課題について。
 小林先生は、数理モデルをガシガシ使うような研究を多くされているので、今回の論文の内容は少し意外だった(でも、講演で、今回の内容も将来的にはモデルで表したいとおっしゃっていた)。

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 以下は、ボランタリー組織が必要な理由について。ボランタリー組織が泡のような存在であるからこそ、必要であるということ、そして、伝統的な方法では既存の均衡状態を改善することができず、ボランタリー組織だからこそ高位の均衡状態への移行が可能であるということ。ここの部分だけで、私はかなりグッと来ている。今まで自分のやってきたことややりたいこと、私の大事な知人たちがやってきたことって、こういう意義があると納得したし、すごく勇気がわいた。

公共サービスの提供を、「責任遂行能力に限界があるボランタリー組織にゆだねていいのか」という懐疑的な見方もある。
しかし、公共サービスの提供にボランタリー組織を活用しようとする背景には、もとより「多くのボランタリー組織が泡のような存在である可能性がある」ことが暗黙の了解となっている。
むしろ、社会が大量の泡を必要としているといった方がいい。
「ブクブク泡立ってくれる」ことが、社会にとって必要なのである。

公的サービス市場では、需要と供給の関係により、予定調和論的に市場均衡が実現されるとは思えない。
個人行動が他者の意思決定や多くの制度的補完性の下で実現される場合、そこには極めて多くの均衡状態が存在する。
複数均衡の中で低位均衡に陥った場合、より高位の均衡に移動するための政策が必要となる。
このような均衡選択の問題を、外部経済を内部化するような伝統的価格政策では解決できない。
つねに、既存の均衡状態を改善しようとして「ブクブク泡立ってくれる」ことが必要である。
重要なことは、このような泡の発生メカニズムを何らかの方法で規律づけ、より望ましい均衡状態に移行することが可能であるかという点である。

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 ボランタリー組織が有している優位性について。

筆者らは、ボランティア組織が公共サービスの提供に参加する意義は、「個別事例の重視」、「潜在的なクライアントの検出」において、ボランティア組織が比較的優位性を有している可能性が高い点を指摘したい。
行政が公共サービスを提供する場合、普遍主義(impartiality)原理を考慮しなければならない。
すなわち、行政がある特定の個人やコミュニティに、特別のサービスを提供する理由を正当化することは難しい。
しかし、市民が必要とする公共サービスの内容や質がコミュニティによって多様に異なる場合、効用サービスの内容も住民のニーズによって多様に差別化される必要がある。
このような公共サービスの差別化を普遍主義原理の下で実行することは極めて困難である。

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 以前、ある後輩とNPOやボランティア組織が公共性を持ちえるかについて、議論になった。その後輩は、NPO等は公共性を持ちえない、なぜなら目の前の個別のことしか対応できないからだと言った。私はそれに強く反論したのだけれど、お互いの間で「公共性」について、共通認識がうまく作れていなかったので、 結局言い合いになってしまった。その後輩はそのまま行政に就職してしまったが、認識は変わらないままなんだろうか。だとしたら、すごくもったいない。あの時に、この論文のように、きちんとNPO等が持つ限界を整理しながら、どうやって活かしていくのか議論することができればよかったのにと思う。

■引用論文
小林潔司, 大西正光: 起業的都市・交通政策と地域学習ガバナンス, 土木計画学研究・論文集, Vol.26, no.1, pp.1-13, 2009)(J-GLOBAL

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3年前に書いた文章を読み直したら、講演を聞いた時の高揚感を思い出した。昔の自分って、今よりも素直でいいやつだったんだなって思った。年を重ねると、どんどんひねくれていくんだろうか? 論文や講演で高揚できるという、この素直さを取り戻したいものだ。

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2010年2月21日 (日)

風景の切り売り

 土木と風景について、いろいろと考えたいのだけど、少しむずいので、とりあえず、今思っていることをポツポツと。

 風景は美しさと関係する部分。美しさというのは主観に左右される部分が多いように感じる。安易に、善し悪し/諦念を文章として出してはいけない分野のような気がして、少し怖い。また、景観とかランドスケープに関する勉強をもっとちゃんとして、いろいろと考えていきたい。

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 風景を切り売りするのに、私達はあまりにも無頓着すぎる気がする。新しく町中に何かが作られて、空がどんどん狭くなる、遠くの山が見えなくなる、川の流れが見えなくなる。そして、四季の移ろいを感じるのが難しくなる。徐々に徐々に、風景が切り取られて、市場に売られていく。その切り売りは、日常茶飯事で行われている。

 風景は、建築家のものでも、一民間企業のものでも、行政のものでもない。現世代の私達だけじゃなくて、過去、未来をつなぐもののはず。風景の切り売りに対して、市場経済とは別のところで、考えないといけないんだと思う。

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 広告でラッピングされたバスや鉄道車両。中途半端にいろんな広告がベタベタつくよりも、一つの企業が車両全体をラッピングした方がまだましだと思うし、企業広告そのものは美しくデザインされているため、景観としてそれほど悪いものでもないのかもしれない。それに、広告がつくと、公共交通の収益が向上し、運賃の値下げ(あるいは据え置き)に寄与する。

 でも、それで本当に、いいのか? 企業広告が、都市の中を走りまわるのを許容していいのか。それは本当に"公共"交通といえるの?今の公共交通の多くは、安っぽい雰囲気がする。広告が全面に貼られた車両で、快適さを感じることなんかできるか? 安ければいいってものでもないでしょ。

 いや、でもなぁ。人はラッピングバスに愛着を持つこともできるだろうし、そういうごちゃごちゃ感が日本の風景として正しいのかもしれない。という感じで、いっこうに考えがまとまらない。

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 田舎の風景が好き。夜に星がきれいに見える。春には桜並木、菜の花畑、そよそよと泳ぐめだか。6月には蛍が舞う小川、紫陽花の群生。夏には向日葵畑、風になびく棚田の稲穂。秋にはすすき、曼珠沙華、月夜。冬には霜柱、柿や柚の色づき。そういう普通の景色が、都会に住む人間にとっては稀有なことで、守っていきたいと思う。美しい風景が残っていてくれてありがとうと思う。でも、そういうのは都会に住む人間の傲慢のような気もする。

 美しい過疎部の風景の中に、割って入る高速道路の高架。高速道路ができて、みんな便利になったという。都会にでた子どもたちが帰ってきやすくなって、嬉しいという。高速道路が風景を邪魔しているというのは、都会の人間の奢りなのか?

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 土木と建築の大きな違い。建築では、美しさを重視する。部外者から見ると、美しさのために機能を犠牲にしていることさえあるように感じる。でも、土木にとって、美しさというのは、機能を現わしているものである。機能を重視するあまりに、無骨なデザインになるのは仕方がないことだという考え方が主流のように思う。あるいは、デザインというのは、上にペタペタと付けるお化粧程度にしか考えていない。大学の土木工学科(少なくとも私の出身大学)には、デザインに関する授業がなかった。にも関わらず、土木構造物は、風景の中で大きな割合を占めている。

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 ヤバ景という考え方、すごい面白いと思う。ジャンクションの曲線とか工場の絡み合う配管とか、丸いタンクとかに、ぐっとくる感じ、わかる。すげー、ブレードランナーみたいじゃん、とか思っちゃう。スチームパンクな感じとか。でも、でも。こういうのを面白いなぁという思いと、自分が好きな他の景観に対する思いとがうまく繋がっていかない。

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 良い本をご存知の方、教えていただけると助かります。とりあえず、土木学会論文集の景観関連を読みふけろうかな、と思っています。あと、下記の本を読もうとしています。

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2010年2月19日 (金)

見える/見えないの多様性

電車の中に、白い杖をついた視覚障害者が乗り込んできた。そして、席に着くと、鞄の中から本を取り出し、本を読み出した。周りの人間はいぶかしげに彼を見ている。

 さてはて。上記の話、何が言いたいのかというと。 

 視覚障害者は全盲だと思い込んでいる人がいる。そういう人たちは、視覚障害者は、本を読むことができないと思い込んでいる。だから、読書をする視覚障害者をいぶかしげに見るのだ。

 視覚障害と一言でいっても、見え方は本当に多様。百人の視覚障害者がおられれば、百通りの見え方がある。視覚障害で障害者手帳をもっている人の中でも全盲の方はわずかだ。弱視とかロービジョンって呼ばれている方の方が圧倒的に多い。視力があっても視野狭窄や中心暗転があると、本は読めても歩行に困難を生じたりする。それに、全盲の方でも、目の前で指を動かせば動きがぼんやりと見える方から、光だけ感じる方、光が見えない方まで、いろんな方がおられる。

 視覚障害者の方は、視覚に障害があるからといって、普通の生活がおくれないのかというと、そうでもない。一人で料理を作る方も多いし、読み上げソフトを使ってパソコンを使っている人も多い。慣れていない道は単独で歩行することに困難があるとしても、慣れた道であれば一人で何の問題もなく外出できる人も多い。視力障害センターといって、就業訓練や生活訓練をする施設もある。そのセンターの中では、視覚に障害があっても、通常の生活を送ることができるような技術を身につけることができる。ただ、センターは不便な地域に建っていることもあるし、それほど施設数も多くないので、入所・通所できる人は限られてしまうのだが。

 ただ、最近は、高齢になってから視覚に障害を生じる人が増えている。40歳を過ぎると、ほとんどの人の視力は衰えていくのだが、糖尿病による失明・網膜症、白内障、加齢黄斑変性等網膜疾患などの罹患率が高くなる。高齢になると、障害にあった技術を習得することが難しくなる。高齢化も、視覚障害者の多様性を増している原因の一つだと思う。

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 バリアフリーの話をしていると、「視覚障害者には見えていないのだから、誘導用ブロックをあんなに派手な黄色を使う必要はないのではないか?」という疑問を投げかけられる時がある。実際は、あの誘導ブロックは足や白杖で触れて感じるだけでなく、ロービジョン者の多くが目で見て判断していたりするわけだ。そんなわけで、アスファルトの黒とのコントラストではっきりと見える黄色を使うことが多い。他の場合でも、色のコントラストをはっきりとさせることが、ロービジョン者の情報取得に大いに役立つ。

 また、点字は、指の先で読み取るという大変難しい技術であるので、高齢者ならずとも中途障害者の多くは、習得することが困難だと聞いた。数字等、簡単なものだけ覚えている人も多いと聞く。点字を用意することは重要だけど、点字になってさえすれば、視覚障害者が全員読めるというわけではない。ロービジョン者でも、コントラストのはっきりとした濃いゴシック体であれば読める人もいる。

(視覚に障害がある方に対するバリアフリー対策については、また、別途書きます。ていうか、バリアフリー対策は私の専門の一つなんで、個別に書きたい/書かなきゃ)

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 視覚障害者をまちで見かけても、困っている様子がなければ、話しかける必要は全くない。当たり前だ。

 今となっては恥ずかしい話なのだが、私は、ガイドヘルパーを始めたばかりの時、駅で白杖を持っている人をみかけて、親切のつもりで、電車の中まで誘導したことがある。いいことをしたというつもりで、私はきっと自信満々の顔をしていたことだろう。その方はすごくやさしい方だったので、私に付き合ってくれて、最後に「ありがとう」と言ってくれた(思い出すたびに顔から火が出そう。申し訳ない。自己満足にもほどがある)。

 自分の身を振り返ってもわかるが、見知らぬ人間にやたらと話しかけられるのは、迷惑なことだ。ある視覚障害者の方は「ぶらぶらと散歩したいのに『どこにいくんですか?案内しましょうか?』と、すぐ話しかけられるので、いつも困る」と言っていた。視覚障害者だけでなく、車いすユーザも、知らない人間にすぐ話しかけられる、という話を聞く。しかも、勝手に白杖を持とうとしたりとか、車いすを押そうとしたりする人もいるらしい(これ、本当にめちゃめちゃ怖いと思う。急に足をとられるようなもんだよ)。そういうことが日常茶飯事にあると、本当に怖いし、面倒くさいことだろうなと思う。相手が善意でやっているから、断りにくいだろうし。

 ただ、困っている場合には、適切に助けるべきだ。人間が歩いている中で、情報の8割は視覚から得るらしい。そのため、視覚障害者の方が普段と違う状況に陥った時に、情報をうまく取得できないことがある。例えば、工事などによって通常の道が通行止めになっている時など。それと、駅のホーム。視覚障害者の方の多くが、ホームから転落した/しそうになった経験があるとか。混雑時には、少し注意が必要だと思う。

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 一応、私は、視覚障害者の歩行環境について査読付き論文を1本書いている。それと、短い期間ではあるが、視覚障害者の方のガイドヘルパーをボランティアでやっていた。実験の被験者になっていただいた方まで含めると、今までに視覚障害者の方には100人近くの方にお会いしているし、一般の人よりは、視覚障害者の歩行環境について詳しいと思う。おこがましいかもしれないが、専門家として、代弁者として(アドヴォカシーとして)、こういう話を多くの人にわかりやすく伝えていきたいという想いがある。専門バカになることなく、奢ることなく、謙虚な気持ちを持ちながらも、自分が話すことができる内容をちゃんと組み立てて行こう。「私なんかが」という自己卑下は、どこにも繋がっていかない。また、時間をみつけて、この手の話を、少しずつ記事として書きたい。

 一番の問題は、人に読んでもらえるような面白い文章が書けないということ。でも、それは今の私の能力の限界なので、書きながら試行錯誤するしかないかな。※今回の内容は、私が知っている範囲で確認しながら書いています。間違っている箇所がありましたら、ご指摘ください。

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2010年2月 5日 (金)

社会の多様性とか

(言い訳)社会の多様性とか私の研究課題について、真面目に書いたものの、ちょっと考えが浅すぎる。とりあえず、今の段階でうっすらと考えていることについて。ええと。もっとちゃんといろいろと勉強したりして、精進します。

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 環境アセスメントに、生物の多様性という評価指標がある。多様性が高いほうが、豊かな自然環境なんだそうな。多分、人間社会も多様性が高い方が豊かなんだと思う。いろんな背景を持つ人々が、共生できる社会。

 時代を象徴するものがなくなっている。文化的なものだけじゃなくて、人の生き方、規範が多様化されていく。時々、それを寂しく思うこともあるけれ ど、きっとそれはよい方向に向かっているんだと思う。みんなが信じる"平均的なもの"がどんどんなくなっている。その方が生きやすい人がたくさんいる。

 人の生き方、規範が多様化していく中で、時代は悪い方向に向かっていると思いたがる人がいる。でも、私はそうは思わない。みんな同じ価値観を持つ ように仕向けられていた時代の方が、変だったし、生きにくい人も多かったに違いない。既得権を持っている人には生きにくいかもしれないが、どんな価値観で も認められる方がよい社会だと思う。

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 それにも関わらず、土木計画が想定して来た人間は、平均的な人間ばかりだったように思う。

 需要予測は、土木計画学の中でも重要な分野の一つ。需要予測の研究はどんどん細かくされ、理論上は精度が上がっている。それなのに、過大(過少)予測になりがち。当たらない理由は、人の生活が多様化していること、土木事業は細かなニーズに合わせにくいこと。

 土木事業が”公共”事業じゃなくなってきている。道路を作る、鉄道を通す、橋を架ける、ダムを作るといったことは、少し前まで、最大多数の幸福を実現できた。今、土木事業が生活に与える貢献度は低くなっている。土木工学の研究者の中には、ライフスタイルの多様化に危機感を抱いている人もいる。 多様化した社会に、インフラをどうやって対応させるかというのを、私の研究課題にしたい。

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 多様化していく社会に対応するには、どうすればよいのか?

 答えは、簡単に見つかるものではない。でも、手がかりとして、もう1回公共性のあり方というのをみんなで話し合うのが大事じゃないかと思っている。ただ、影響を与える範囲が大きい課題について話し合うのは、少し困難なように思っている。情報を十分に把握することができない中で、公共性について議論するのは、難しい気がしている。よく知らないことに評価を下すのは無責任だ。それに、課題が大きすぎると、責任の所在が不明になりがちだ。

 ただ、ある地域の特定の範囲の活性化など、小さいことであれば、十分議論できると思う。小さい事業を対象とするのであれば、誰が負担するのか(お金だけでなく、労働力等まで)、誰が利益を得るのか、それでその小さい地域社会で困っていたことが解消されるのか、そういう細かいことまで、みんなで議論できると思う。まずは、小さいところから、一歩一歩進めていきたい。

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2009年12月11日 (金)

特別講義に出た

 今日は特別講義に出席した。講義を受けに行くの、1年ぶりぐらいだ。講義の内容は、ランドスケープとヴァーチャルリアリティを使ったコミュニケーション技術について。こういう微妙に分野外のことに関する講演って、めっちゃ面白く感じる。初めて知ることばかりだし。

 借景の話とか、ランドスケープと土木施設の関係とか、ヴァーチャルリアリティの活用可能性とかいろいろ。また、そのうち、時間がある時に、考えたことなどをメモするかも。

 

 ヴァーチャルリアリティについての講師は、twitterで知り合った方。ネットでできた知り合いに会うって初めてなので、少し緊張した。ネットでお見かけした感じと一緒で、前向きで明るい感じの方だった。文字しか見えなくても、印象ってそんなに変わらないものなのかな。手みやげに何か渡したいと思い、佐用でもらったゆずを使って作ったゆず茶を持って行った。こういうとき、手づくりの何かを持って行きたくなるのって、うちの母親と一緒だ。年々、私って母親に似てきている。(私信)もし、変な味がしたら捨ててください。

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2009年12月 9日 (水)

備忘録(ルーマン システム理論)

 ルーマンのシステム理論について、個人的メモ。また、そのうち追記するかも。

オートポイエーシス 
 あるシステムがそれ自身の作動をそれ自身の諸作動のネットワークを通じてのみ生み出しうるということを意味する。

  • システムはオートポイエティックであるか非オートポイエティックであるかの いずれである。少しだけオートポイエティックということはありえない。
  • 程度が高い複雑なシステムは独立性と同時に特定の依存性も増大させる。

 観察者は一方で作動を観察し、他方で観察者自身が作動である。

 私たちが何らかの時間理論を定式化しようとする場合、したがって他の人々が時間をどのように観察しているのかを観察しようとする場合には、そもそもわたしたちが誰を観察しているのかについて区分しなければなりません。
 第一に全体社会の視角を、第二に組織の視角を、そして第三に個々人の生の視角を区別することです。

 意味あるものと意味のないものとを区別するということは、意味があるのでしょうか。

 意味のカテゴリーを二つの類型にふりわけるべきだということを明らかにできる。
 ・意味的に体験される心的システム
 ・意味がコミュニケーションのなかで用いられることによって意味を再生産するシステム

 目的と手段の区別をしなければならない。
 どのような目的に対して、行為者が手段としてみずからの行為やそのほかを用いるのかを問うてはじめて、人は行為そのものを理解し、そして理解することができる。

 作動上の閉鎖と因果の開放性との概念的な区別に出合うことになる
 作動上の閉鎖はひとつの対象、ひとつのシステム、あるいは因果的に反応することができるものを構成する。
 閉鎖ということなしにそれは自己言及的システムとして存在することはできない。
 システムと環境、心的システムと社会システムが再び融合してしまうことを避けなければならない。
 オートポイエーシスのコンセプトによって理論の両立性を創りださねばならない。
(二クラス・ルーマン:システム理論入門、新泉社、2007)

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2009年12月 7日 (月)

備忘録(ロールズ 正義の原理)

 論文修正だけしていると、気が滅入って仕方がないので、少しだけ現実逃避するために、本を読んでいる。完全に関係のない本だと、逃げすぎなので、少しは関係しそうな本を。

 で、本の中で、面白いと思った部分を引用しておくと、あとで面白いかと思い、備忘録代わりにメモ。感想などは、また後日追加するかも。

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 善ないし幸福を「合理的人生計画の成就」ではなく、「みずからに備わる力量の発揮」というアリストテレス風の観点に立って考察することもできる。その場合、人間は自分の力量の活用を享受する。この喜びは、力量が実現されればされるほど、それが複雑になればなるほど大きくなる。また善い人間は、秩序ある社会の構成員にとって、その仲間に加えたいと望むのが合理的であるような、道徳的人柄に関する諸特徴をもっている。

 そこで大切になってくる幸福の要素が「自尊心」である。これは二つの側面をもつ―自分自身に価値があるという感覚、および自己のもくろみを果たす能力に対する自信。反対に秩序とは、ある人が自尊心を傷つけられたときに抱く感情以外のものではない。

 正義や<正しさ>の諸原理が原初状態において選択されるべき原理であるのに対して、合理的選択の諸原理は原書状態での選択の対象ではない。善・幸福についての各人の構想が異なることは、それ自体望ましいことだが、<正しさ>の構想に関してはそれはあてはまらない。また正義の諸原理は無知のヴェールに制約されるのと違い、ある人の善の評価は諸事実に関する完全な知識に拠りどころを持っている。

(川本隆史:ロールズ 正義の原理、pp150-151、講談社、2005)

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 「正義論」の中にある、「愛の冒険」という章に書いてあることに、少し驚いたので、引用。
社会倫理学の本にこんなこと書いてあるなんて。恋をしたことがない人には、この文章を実感を持って理解することができない?

互いに愛し合う人々は同時に破滅に陥りやすくなる。
愛する者たちは、自分たちを他者の不幸や不正義の人質として差し出す。
友人や恋人同士は大きな危険をおかしても互いに助け合う。
いったん恋をすれば、私たちは傷つきやすくなる。
恋をしているとき、私たちは傷つくことや損害をこうむることの危険性を受け入れる。
けれどもそんな「愛の冒険」に賭けている場合だと、私たちは自分たちの愛を後悔しないし、愛への決断をのぞましいとも考える。
こうしたことは、秩序ある社会における愛に、またしたがって正義感覚にもあてはまるだろう。
だから正義感覚を保持することは、合理的で望ましいことなのだ、と。
(同上、pp157)

(追記)他者とつながろうとしたら、自分を傷つきやすい(vulnerable)な状態におかないといけないって、金子郁容先生も「ボランティア」で書いていた。自分は傷つくことがない完全な人間だと思っていると、他者とつながることができないって(本を探すのが面倒なので、うろ覚え)。一人一人が傷つきやすさを保持して、傷つきやすさへの理解がないと、社会がうまくいかないのかなぁ(って、浅すぎる感想ですが、ちゃんと書こうとすると難しすぎるので)。

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2009年10月30日 (金)

障害があること自体は不幸じゃないはず

  国際生活機能分類(ICF)というものがある。国際的に障害がある状態というものをどう定義づけるのかを示したものである。ICFの利点はたくさんあるが、障害とは身体的な機能障害だけでなく、環境因子も障害に含まれると位置づけた点は大きな利点であると思う。

 同じ身体機能を持っていても、環境が異なれば、できること/できないことは大きく違う。たとえ車いすユーザであっても、住宅や交通機関、多くの施設がバリアフリー化されていれば、移動に大きく困ることはないだろう。一方、身体機能に障害がなかったとしても、車が使えない私なんかは、田舎に行くと大きく移動に不便を感じる。子どもが小さかった時も、ベビーカーを押していると、やたらと遠回りしないといけなかったり、エレベータがなくて階段しかない駅のホームで立ち尽くしたことがある。人の能力というのは環境に依存する部分が大きい。

 ということをふまえて。私は社会をバリアフリーにする意義は大きく4つあると考えている。

 1つはバリアフリー化することで、個人の能力を高めることができるだろうということ。障害があろうとなかろうと、一人一人ができることの幅を広げる。そして、生き方を自分できることができるようになる。

 2つ目は、バリアフリー化することで、公平な社会を実現できるだろうということ。バリアフリー化されていないと、障害を持っている人、持っていない人との間で格差が大きい。移動もそうだし、教育、職業など様々なところで格差が生じている。バリアフリー化は、そうした格差を小さくすることができる。

 3つ目は、バリアフリー化することで、「安心」「安全」な社会を実現できるということ。車いすユーザでなくとも、駅のエレベータにほっとしたことがある人は多いだろう。万が一、けがをした時、妊娠したとき、大きな荷物を持った時、そういった一時的な障害が生じても、社会全体がバリアフリー化されていれば困難が小さくなる。また、不確定要素の多い将来に対する不安も減らすことができる。

 4つ目は、バリアフリー化することで、社会を活性化することができるということ。たとえば、通勤が困難であることを理由に仕事ができなかった障害者の方は多い。働きたい人が働けるようにする、人と人との交流を深めるなど、バリアフリー化することで達成できることはたくさんあるだろう。

 障害があること自体は不幸じゃない。障害に対応していない社会であるということが不幸なんだ。私は、この世の中が良い方向に向かっていると信じているし、そう感じている*。障害を障害だと感じない社会がいつの日か実現できる日がくると思っている。

 具体性がなくてすごく上滑りのつまらない文章になってしまった。私の経験値が少なくて、文章が下手なせいだなぁ。書きたかったことは、障害があるかないかというのは環境に依存するから、障害者のことやバリアフリーは他人ごとなんかじゃなくて、みんなに関する話なんですよ、ということです。

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*もちろん小さなブレはあって、悪い方向に向かっている時もあるが、大きな流れを見ると、そう悪くはないのではないかと。そして、その悪い方向は修正がきくのではないかと。

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2009年8月29日 (土)

ぼくの話を聞いてくれ

 博士後期課程の学生にとって、非常勤講師は大変ありがたい仕事だ。研究に比較的近い事柄で生活費を得ることができるし、大事な教育実績にもなる。実績になるということは、履歴書に書くことができるということ以上に、経験を他のことに生かすことができるという意味で結構重要だと思う。

 で、ホイホイと気軽に講師の口を受けるのは良いことなのか、というとそうでもない。授業準備は結構時間がとられるんよな。しかも、適度に工夫しないと学生は全く聞いてくれないという非常に不幸な目に合うことになる。あまりにもつまらない話だと、真面目に受けようとしている学生でさえも寝かしつけることになってしまって、自己嫌悪に陥る。

 別に学生が聞いてくれなくても、すぐさま給料に影響することがないから気にしなくてもよいという人も稀にいるかもしれないが*、せっかく時間をかけて授業準備をしているのだから、話を聞いてほしいのが人の心というもの。だから、できる限り工夫をするのが建設的なやり方だと思う。

 というわけで、私がここ4年ほど集中講義の非常勤講師を通して効果的だと思えた工夫のいくつかを紹介。ごくごくありふれたやり方だけど、下記の工夫をすることで、少しは学生に授業に集中してもらえるように仕向けることができるようになったし、学生からも「わかりやすかった」とアンケートに書いてもらえるようになった(と書きつつも、授業内容に対して全く興味がない学生が、単位欲しさのためだけに来ていたら、打つ手はないような気がしている)。

1. 学生に対して質問をできるだけたくさん大量にする

 たとえば、写真や図を見せて、何を説明しようとしているのかを推測させたり、3択にして手を挙げさせたり、説明したことに対してどう思うかを聞いたりなど。質問はアドリブで行ってもよいけれど、前もって用意しておいた方が無難。質問をあてるのは、できるだけランダムにあてて、急に当たるかもしれないという緊張感を学生に持たせる。そして、大事なこととして、学生の回答を全否定するのを避けること。できるだけ、学生の回答を元に、違う視点を与えて、正解を導く。正解がないような質問をしているのであったら、学生の回答を認めた上で、講師の考えを述べる。

2. 教室中を歩き回る。

 最近の学生は私語がびっくりするぐらい多い。携帯電話で遊んだり、ゲーム機で遊んでいたりする学生もいる。こういう学生は、授業から出て行ってもらってもよいような気もするけれど**、きっと少しは興味があるから出席しているのだろうから、できるだけ授業を聞くように仕向けたい。で、こういう学生を注意するには、教室中を歩き回るのが手っ取り早い。私は授業でパワーポイントを使用することが多いので、こういうときパワーポイント操作機能付きのレーザーポインタがすごく便利。

3. 穴埋め式の資料を配布する

 通常であれば、ノートは自分で作るべきだと思う。それでも、積極性の薄い学生の場合、何も資料を配布しないと何もしなくていいと勘違いするみたい。それに、私は集中講義を担当しているのもあって、1日に3~4コマ授業する。真面目な学生でも1コマ目は真面目に聞いていても、3~4コマ目には疲れ始める。そこで、穴埋め式の資料を配布すると、学生たちは「とりあえず埋めなきゃ」という気持ちになるみたいなのと、作業量がそれほど多すぎないこともあって、せっせと作業する。作業すると眠気も少し薄らぐし、用語を穴埋めするためには集中して聞かないといけない。

4.写真を見せたり、物を見せる

 授業内容にもよると思うのだけど、私の授業は設計の基礎なので、説明を多く重ねるよりも、具体的な写真を見せたり、物を見せることが学生の理解を深める。だから、毎年できるだけたくさんの写真を見せるし、たくさんの物を持っていって、学生に触らせるようにしている。

5. 最後に簡単な振り返りテストをする

 授業内に出てきた内容を踏まえて、簡単なテストを行う。私は授業中に話した知識を確認する○×式の問題5問と、授業内容に関する記述式の問題を出すようにしている。○×式の問題は授業をちゃんと聞いてくれていたかどうかという確認で、記述式の問題は学生が授業内容を元に何を考えたのかを書かせるもの。この振り返りテストは採点に使う。正直なところ、授業料を払っているのは学生で、学生が授業から何か得ることができたのであれば、採点なんかしなくてもいいんじゃないかな、と思わないでもない。でも、学生さんには、長年の学校生活で培われた「真面目にやったらいい点をつけてほしい」という意識があるので、努力が報われるような明確な採点の基準を設けた方が無難だと思う。

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* 私が大学生の頃、といっても10年以上前になるのだけれど、当時は学生が授業を聞こうが聞くまいが興味がない先生方が多かった。学生の方をほとんど見ないまま黒板書きをひたする続ける先生、学生に聞こえないような小さい声でほそぼそと話す先生、テストさえできればいいから授業に来なくてよいという先生、授業時間30分で帰っちゃう先生、15回のうち6回しか授業しない先生などなど。当時の大学の先生の多くは、自分たちの仕事は「研究」であり、授業を行うのはついでの仕事と捉えていたせいかもしれない。それに、大学という場所は学びたい人間だけが学ぶことができる場所で、学ぶ気のない学生は学べない場所だったような気もする。それに比べると、今は授業に力を入れる先生は増えていて、大学は学生たちを学ばせようと頑張っているように思う。

**ある人(京都出身)は「授業よりも大事なことがあるんやったら、出て行ってもろてもかまへんよ」と言うそうな。私がこういうことを言うと、角が立つし、本当に学生が教室から出て行ってしまうような気がするんよな。気が小さいせいかも? はんなりとした京都弁をマスターすると、嫌みもさらっと言えるようになるかも?

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 下記は、私が授業内容を考える際に参考にした本とレーザーポインタ。以下の説明を書きながら、私はもう一回本を読み返すべきだと思った。

  • 授業評価に基づくティーチング技術アップ法:学生による授業評価アンケートを元に、学生が授業のどこを評価しているのかが整理されている。こちらの目次を見るだけでも参考になる。
  • 成長するティップス先生:ティップス先生が大学の授業を通して成長していく日記。小さい小さい失敗もたくさん書いてあって、授業をしたことがある人なら読みながら「あるあるあるある…」と言いたくなる。
  • KOKUYOレーザーポインタ:パソコンに受信部をUSBポートに差し込むだけで、すぐに使うことができる。受信可能距離は半径10mと広いので、80人ぐらい入る教室でも使える。レーザーの色は赤色のものよりも緑色の方が格段に値段が高い。緑色の方が赤色の8倍も明るく見えて視認性が良いらしい。(高価なものなので、私は研究室で借りています)

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2009年8月27日 (木)

研究者の冷たいハート

 研究者に憧れて、博士後期課程にきたものの、私は研究者に向いていない気がする。

 研究者に憧れた理由のひとつは、仕事範囲を自分で定めることができるということ。影響を及ぼす範囲の広さ。そして、若い世代と交流することの可能性といったこと。

 でも、なりたいと思いつつも、ポストが限られている以上、なかなか研究者にはなれないし、それ以前の問題として、研究者の適性があるかどうかというのもある。

 博士後期過程に入ってすぐに、准教授の先生に「これからの研究者は地域に入っていかないといけない。でも、地域の中でいろいろと一緒に活動しつつも、冷たいハートを持っていないといけない。冷たいハートの持ち主だけが、客観的な分析をできる」と言われた。その時はそんなものか、と思ったのだけど、いまさらながら私は冷たいハートなんか持てないような気がしている。

 たとえば、困っている人がいたとして、その人の状況を詳しく分析するのが研究かもしれないが、私はついついその人に対していろんな思い入れをしてしまうし、何かに対して憤りを感じてしまったりする。それに、研究的に新規性がある、という理由だけで、いろんなことを聞き出すのには、かなり躊躇する。

 今回の佐用の災害だってそうだ。もっともっとボランティアを投入すべきだ、とか、義捐金を集めなきゃ、とか思う。ある先生は「これをきっかけに人口が移動するだろうから、そういう人口動態を調査したりすると研究上意義があるんじゃないか」と言った。私はそんなことを思いつきもしなかったし、そんなことするのは嫌だ、そんな研究できない。だって、「ここに住んでいたおばあちゃんは佐用が大好きだったのに、住宅を再建することができなかったから神戸の娘さんの家に移り住んでしまった。高齢になってから慣れていない都市で生活するのはどれほど大変なんだろう」といろんなことを考えてしまって、調査なんかしたくなくなるのが目に見えているから。それに、今だって、論文の締め切りがあるからここにいるけれど、本当は佐用にもっと行きたい。論文なんて役に立つかどうかわからないのに、こんなものに振り回されている自分が恨めしい。

 冷たいハートを持ちきれていないから、私の分析はシャープさに欠けるし、考察も一般的すぎる。だから、私の論文はつまんない。なんか言い訳がましいな。がんばろうという掛け声だけじゃ乗り越えられない壁があるような気がするんよなぁ。

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