家の話

2009年3月 1日 (日)

北山の茶室住宅の話6-七輪パーティ-

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 北山の茶室住宅に住んでいた頃、週末にはよく七輪パーティをした。

 炭を起こすのも、手慣れたものだった。茶道部で教えてもらった通りに、コンロで炭を起こして、炭が半分ぐらいまで赤くなったら台十能に載せて七輪まで運ぶ。で、七輪に自転車の空気入れで空気を入れるとすごく早く火がついた。

 七輪の素晴らしいところは、何を焼いてもおいしくて、失敗しないところ。お肉やお魚、野菜、なんでも焼いた。焼く食材は必ずしも高い物である必要は無くて、シシャモ(という名で売っているカラフトシシャモ)とかオクラとか安い物もおいしかった。オクラの炭火焼は本当に意外な程おいしくて、塩をかけて焼いたあと、絞ったすだちをかけて食べるのだ。焼きおにぎりもおいしかったな。紅茶の葉っぱを使って燻製もやってみたけど、おいしかったなー。

 人が遊びに来た時にもよく七輪パーティをしたけれど、オットと二人でチマチマとよくやった。晴れた日には月夜を愛でながら、雨の日でさえも雨の滴が落ちるのを眺めながら。オットは興に乗ると、ノコギリを取り出して弾いたりもしていた。怪談話で有名な深泥池の近くだったので、通りがかった人にはノコギリの音がきっと薄気味悪く聞こえただろうけれど。七輪パーティをする日は、夕方の5時頃からいそいそと用意して、11時過ぎまで、炭が朽ちるまで、二人でダラダラと愚にもつかぬことを話し合った(何を話し合ったのか、ひとつも覚えていない)。七輪の何がいいかっていうと、ちょっとずつしか焼けないので、必然的に時間がかかるところ。少しずつ自分が食べたい物を焼きながら、炭火を確かめながら、食材を焼けるのを待ってゆっくり食べる。バーベキューコンロだとこうはいかない。本当に懐かしい、豊かな日々。

 今の団地の物置には、七輪と台十能が所在なさげに4年間の日々を無為に過ごしている。時折、七輪パーティの名残で、ベランダにゴザをひいて、外を見ながらご飯を食べる。茶室住宅の七輪パーティに比べると格段に雰囲気は落ちるけれど、それでも少し楽しい。あ-、こうやって書いていると、だんだん北山の茶室住宅に帰りたくなってきた。まだ空き家なんだろうか?茶室住宅に住んでいたのはほんの一瞬だったのに、今の生活の方がいまだに仮の宿りな気がしてならない。

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写真は庭にあった灯籠。この庭には灯籠が4つあった。気がむくと灯籠の中に蝋燭を付けたりしていたけれど、だいたいの日は暗いまま。目の悪い私は、人が立っているのと間違えて、「どなたさまですか?」と何回か灯籠に話しかけたことがある。

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2009年2月 1日 (日)

北山の茶室住宅の話5-便利よりも不便の方が良い時もある-

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 いまさら思い出したように、北山の茶室住宅の話の続き。ニュータウンの団地生活も5年目になり、北山での日々が、時々夢のように思えてくる。

 北山の茶室住宅についての以前の記事はこちらからどうぞ。


 茶室住宅の生活は、自然と一体になった生活だった。

 自然と一体になっていた理由は二つある。一つは、茶室が一枚の障子で外で隔てられていただけなので、外と家の中の空気は限りなく同じだったこと。もう一つは、近くに怪談で有名な深泥池がある山の麓に立地していたことである。深泥池には太古から生き残りの生物がたくさん生息している。そのせいか、茶室住宅の周りは静謐な空気が流れていた。

 外の暗闇と静けさ、それらを家の中から感じることができるのは、茶室住宅の魅力の一つだった。私達が寝室として使っていた3畳の部屋(おそらく水屋だったと思われる部屋)には、大きくて素敵な丸い障子窓が付いていたため、外の様子をつぶさに感じることができた。ある夜、寝ようとすると、妙に外が明るい。庭の灯りを消し忘れたかと思い、外に出たら、空に見事な満月がかかっていたことがあった。落ち葉が落ちる音も、一つ一つ聞こえた。雨の音もよく聞こえた。家の中から雨のしずくを見続けるのも風情があった。

 冬場は家の中でも本当に寒かった。毛布を2枚と羽毛布団を使っても寒かった。朝はいつも凍えて目が覚めた。冬には、化粧品のオリーブオイルが凍っていた。娘が生まれてからは、赤ん坊が凍えていないかと心配になって、目覚めるとすぐ子どもが息をしているのを確かめた(結局、子どもが生まれてからは一冬も越さずに引っ越した)。

 湿度が高くて、気をつけていないと夏場にはいろんなものにカビが生えた。カビを防ぐために6リットルのタンクのある除湿機を購入したのだが、それでも間に合わなかった。朝、家を出る時に除湿機をかけていくと、帰ってくると6リットルのタンクがいっぱいになって止まっていた。洗濯物もなかなか乾かなくてかなり困った。

 梅雨には、庭に巨大な白いキノコがたくさん生えた。大きさは10cmぐらい。最初の頃はすごくびっくりして、抜いて捨てたりしてたが、生えたまま放っておいたら2,3日で消えていた。おそらくオニフスベだったのではないかと思う。オニフスベはそれほど美味というわけではないらしいが、食べようと思ったら食べれるキノコのようである。

 虫もたくさん出た。ごきぶりは、家のなかよりも庭でよく見た。ごきぶりを餌とする蜘蛛もたくさん出た。壁によく体長20cmぐらいの大きさの蜘蛛(たぶん、アシダカグモ)がいて、最初の頃はキャーキャー騒いでいたのだが、あっという間に馴れて平気になった。なぜなら蜘蛛は、刺したりもしないし、音もたてないから。出産直後に母が手伝いに来てくれたのだが、いちいちクモに騒ぐので、面倒くさかった。

 庭にあった御堂(という名の物置)には、ミツバチが巣を作っていた。ミツバチ自体はそれほど攻撃性が強くない。踏んだり叩きつぶしたりしない限り、刺されることはない。でも、ミツバチを襲いにスズメバチがよく来ていて、怖かった。スズメバチがすごい速さで顔の横を通り過ぎていったこともある。

 ムカデもよく出た。オットも私も1,2回ずつ刺された。ムカデに刺されると本当に本当にめちゃめちゃ痛い。ムカデは不意に天井から落ちてくることもあった。そういえば、虫だけでなく、野良猫がよく庭を通り過ぎていてた。一度だけ庭で猿を見かけた時があって、怖かった(猿も恐かったかもしれないけれど)。

 今はアルミサッシのついた団地に住んでいるので、家の中から外の様子はそれほど窺い知ることができない。冬になってどれほど寒くなっても、凍えて目が覚めることはなくなった。オリーブオイルだって凍らない。室内の湿度が異常に高くなることもなくなった。家の中で、あまり虫も見かけなくなった。でも、月が満月なのかどうかも気にかけなくなってきた。落ち葉の音はおろか、雨音でさえも家の中ではよく聞こえない。今の生活は、かなり意識しないと自然を感じることができない。茶室住宅は否応無しに自然を感じさせられる生活だった。

(しつこいようだが、茶室住宅の話は、あと2回ぐらい続ける予定。)

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写真は茶室で生活していた頃の様子。生活感あふれまくり。

少しだけですが、マイフォトにも茶室住宅の写真を追加。

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2006年12月16日 (土)

北山の茶室住宅の話4-茶室住宅を離れた理由-

Fh000017  北山の茶室住宅に私達がとても魅かれたのは何だったのか.このことについて他人に適切に説明する言葉を私は十分に持っていない.最近読んだ「シャドウ・ワーク(イヴァン・イリイチ著)」の言葉を借りるなら,茶室住宅は市場経済ではかることができないvernacularな価値を持っているということ,しかもそうでありながらも,賃金労働に軸足を置いた生活ができるということかと思う.
 北山の茶室住宅に住んでいると,季節の移り変わりや天候の変化を肌でひしひしと感じることができた.部屋の中の気温と外気温が同じであったため,氷が凍るほど寒ければ家の中も凍えるほど寒く,オリーブオイルが凍ったりもした.雨が降ると屋根に落ちる雨音が大きく聞こえ,家の中全体の湿度が極端なほど高くなり,カビに悩まされた.満月の時には,月がとても明るく感じられ,円窓から眺めながら寝たりしたものだった.それまでの私の生活はそれなりに都市化されたものであったので,外の様子がダイレクトに家の中に影響を与える茶室住宅の生活は新鮮な感じを与えた.イリイチは標準的な経済学では捉えることができない生存に固有の仕事をvernacularな仕事と名づけている.茶室住宅で暮らしているとvernacularな仕事をする必要があった.例えば草むしりや庭の手入れ,障子貼り,七輪を使ったご飯の準備など.それらは今の私を悩ましている家事労働とは異なって,結構楽しい仕事だった.
 そして,完全な田舎にある家と異なり,北山の茶室住宅は地下鉄の北山駅まで歩くことができたし,何とかそれまで働いていた職場まで通勤することもできた.私達はvernacularなものに憧れてはいたが,賃金労働から足を洗う覚悟はできていなかったのだ.だが,結局,賃金労働をすることができたことが私達を茶室住宅から引き離してしまったようにも思う.
 私達が北山の家を離れたのは,子どもができたのがきっかけだ.子ども生まれた際に,私は自分可愛さのために,仕事をやめずに周りの人に迷惑をかけながらでも続けることを決めた.子どもが生まれてからしばらくは茶室住宅に住みながら義実家や姉夫婦宅に大きな迷惑をかけながらどうにかやっていこうとしていたのだが,そうした生活はやはり不自然で,生活を考え直さなければいけなかった.その際に,vernacularな価値と市場経済で評価される賃金労働を天秤にかけたのだが,私は賃金労働を優先させて茶室住宅から離れることを決めた. 寒くて子どもが凍えてしまう,高さ2mの廻廊から子どもが落ちるととても危険といった問題はあったが,私が賃金労働を諦めるという選択さえすれば,どうにか茶室住宅に住み続けることはできたと思う.
 私達が引っ越した後,イスラエル人の大工さんとマッサージ師をしている日本人の夫婦(彼らはもともと近所に住んでいたので,私達と顔見知りだった)が茶室住宅に引っ越すことになった.彼らの仕事は,私達の仕事と異なり,vernacularな仕事であるように思う.だから,きっと彼らは長い間住み続けることができるのではないかと思う.

(言い訳)「シャドウ・ワーク」を読んで,私が北山の茶室住宅に魅かれた理由が整理されたように感じたため, vernacularという言葉を借りている.私の浅はかな理解力では,イリイチの言葉をきちんと理解できていない恐れがあるし,この文章もわかりにくいものになっているかもしれない.それでも,私自身の今後の研究を考える上で,vernacularという概念は大事なような気がするので,用いている.世の中にたくさんいるイリイチ好きの人,ごめんなさい.

「シャドウ・ワーク」については詳しくはこちら→松岡正剛の千夜千冊『シャドウ・ワーク』イヴァン・イリイチ

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2006年3月11日 (土)

北山の茶室住宅の話3-大屋さんの話-

97480020 この茶室住宅のことを話す上で,大屋さんの話は欠かせない.
大屋さんは大変変わった人だった.風貌はまるで仙人で,ゆっくりしたペースで,自分が喋りたいことだけを喋る.家の契約は大家さん宅で行ったのだが,契約書の受け渡しと保証金の支払いだけだったのに,なぜか3時間ほどかかった.大屋さんは茶室住宅と銅閣の由来をゆっくりと喋り,保証金(現金で持っていたのだ)をゆっくりと数え,契約書を毛筆でゆっくりと書いてくれた.
大家さんが語った茶室住宅と銅閣の由来は次の通り.40年ほど前,大屋さんの家の近くに,大きな会社の会長宅があった.会長が亡くなり,家を解体することになった.たまたまそこを大屋さんの奥様が通りかかり,素敵な茶室を見つける.いらないものなので持っていってもかまわないと解体業者にきき,茶室ごとすっかりもらって今の場所に移築したそうだ.移築して住宅として改造してからは,北欧(デンマークだったか?)出身の大学の先生が30年ほど住み,その後牧師さんが1年ほど住んでいたそうだ.
銅閣の由来はかなり眉唾ものだ.大家さんが言うには,豊臣秀吉が建てた建物で,滋賀から移築したとのこと.大屋さんの弟さん夫婦がしばらく住んでいたこともあるらしい.数年前に能の会を行ったりもした,と言っていた.後でいろいろ調べたのだが,豊臣秀吉が「銅閣」というものを建てたという話はない.建築史的には,銅閣というと伊東忠太の設計した祇園閣を銅閣と呼ぶらしい.それでも大屋さんの銅閣は立派な三層構造の書院造で,おいそれと簡単に作れるものではない.

入居してからも大屋さんとのやり取りは続いた.それまで住んでいたところにおいて大屋さんというのは,毎月お金を払いこむだけで,入居する際と退居する際以外はほとんど関係がない存在だった.それが,この茶室住宅では,1,2ヶ月に1回ずつぐらいは何かが起こって,大屋さんと連絡をとらざるをえない状況に陥る.例えば入居したとたん雨漏りがあったり,庭にある御堂に蜂の巣ができて普通の業者さんでは取れなかったり,屋根にソーラーパネルがいつの間にかついていて業者が訪ねてきたり,台所に羽蟻が大量発生したり,などなど.大屋さんに電話をかけると,いつもどおりのゆっくりとした口調で応対してくれ,そして実際の対応もかなりゆっくりなのだ,気がつくといつの間にか対応してくれている時もあるが,いつまでたっても対応しくれない時も多い.駆除業者さんにもとれない蜂の巣があって,電話したときは「ああ,あの蜂はよい蜂蜜がとれるんですよ.」と言われ,ミツバチを襲いにスズメバチが来ると説明しても,こちらの困っている状況がなかなか伝わらず,大変難儀した(結局,蜂の巣は対応してくれなかったような気がする).

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2006年2月11日 (土)

北山の茶室住宅の話2-決めた理由-

Fh000006_20 茶室住宅を見せてもらった後,「面白いけど住むのは難しい」と彼と言い合いながら帰った.
難しいと思った点は主に2つ.まずは収納が少ない点.押入れが1箇所(しかも半間分)だけしかなかったのだ.しかし,意外とこれはそれほど問題ではなかった.押入れだと思っていたところは,実は水屋と外をつなぐ玄関だったが,私たちはここに棚を入れ,夜具入れ(布団が入る箪笥)を義父母にもらい,何とか布団を入れることができる押入れにした.あとは,庭に大型のコンテナを買ったり,庭にある御堂も大家さんが使っていいと言ってくれたり,大家さんがなぜか裏に物置を作ってくれたりしたため,住んだ後は収納場所には困らなかった.しかしいずれの場所も部屋と直接繋がっていないため,一旦外に出ないと物を取りにいくことができないという不便はあった.
次に困難に思えた点は,部屋と外の境界が障子しかない点.春,夏,秋はまだしも,冬は無事にすごせるのだろうか. 特に茶室住宅は京都の北山にあり,山のふもとに立っていたため,冬は厳しそうだ.また,母屋から台所に行く際には,一旦外に出ないといけなかった.寒いというのもあるし,かなり不便である.これについて,彼はそれほど最初から問題に思っていなかったようだ. 私は本当にここに住めるかどうか悩んでいたのだが,当時たまたま読んでいた安藤忠雄の本に「住吉の長屋は住みにくい家だが,それを超える美しさがある」というような文章を見つけて,少しふっきれた.私達は便利に過ごすために生きるのではなく,楽しく過ごすために生きている.幸い私達はまだ若いし,柔軟性もあり,不便であっても不便さを楽しむ余裕があるのではないか.
そうして,前回の見学から2週間ほど後に,もう一度私達は茶室住宅を見に行った.今度は見学ではなく本当に住むつもりで,メジャーや図面を持って行き,あちこちを測った.そして,私達は茶室住宅に住む契約をした.

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2006年1月23日 (月)

北山の茶室住宅の話 -きっかけ-

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 私たち夫婦は,しばらく茶室のある住宅に住んでいた.その試みは1年と8ヶ月という割と短い年月で頓挫してしまったが,なかなか面白い経験がたくさんできた.ある出来事を体験した瞬間は絶対忘れないと思うものだが,実際にはほとんどの物事を忘れてしまう.茶室住宅のことも決して忘れないだろうと今は思っているが,10年後,20年後には細部のことは忘れてしまうだろうと思い,このブログにメモとして残すことにした.

 茶室住宅を最初にみつけたのは義姉だった.たまたま帰省していた義姉が,義父母の引越し先をインターネットで検索していたのだ.引っ越した後に,よく「こんな物件どうやって探したの?」と聞かれ,「インターネットで」と答えるとびっくりされた.インターネットがこれだけ普及されていなかったら,私たちと茶室住宅は結びつかなかった.

 「面白そうな家だけど,住むのは大変そうね」なんて話しながらも,「話の種になりそうだから,見に行くだけいってみよう」ということで,見に行くことにした.そうして不動産屋さんを訪ねた私たちは度肝を抜かれる.

 まずは,茶室建築の隣には大家さんが銅閣と呼んでいる立派な3層構造の書院造の建物が建っていたこと.この銅閣と茶室住宅は同じ敷地内に建っており,銅閣の前を通り過ぎないと住宅にたどり着けない.道から見ると,茶室住宅は銅閣の付属物にしか見えない.この銅閣は,辺鄙なところなら土地付きの家が買えるほどの保証金を積まないと貸してもらえないとのことで,長い間空き家である.

 次に,大家さんが仙人みたいな人だったこと.白髪を腰まで伸ばし,あご鬚も長く伸ばし,着物を着ていて,下駄を履いていた.やたらとゆっくりと喋り,大屋さんの周辺だけ時が止まっているように思えた.大屋さん宅の周辺は,戦後すぐに建てられたような木造文化住宅がひしめいていた.

 そして,茶室住宅が本当に立派なお茶室だったこと(大学の茶室よりも立派だったかもしれない).炉がきちんと切ってあり,釣り釜用の金具もある.にじり口も,貴人口もある.床の間も立派で,床柱は立派な松(だと思う)が使われた.そして,障子を開けたらすぐ外だった.そう,ガラスの窓がなかったのだ.部屋の中は雨戸がしまっているにも関わらず,落ち葉が入り込んでいて,内と外の空気は同じだった.

 どうやら,この茶室住宅はもともとあった茶室の外側に無理やり増築し,無理やり住宅の体をなしていた.4畳半の茶室,昔は水屋だったと思われる3畳の和室,増築部分には4畳半の洋室とトイレとお風呂,そして,別棟に6畳の台所があった.台所は別棟にあるため,ご飯の度に1回外に出ないと台所にたどりつけなかった.

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