(お断り)今回の記事は、ちょっとキモイかも?と思っている。30をゆうに超えているのに、乙女とか恋愛について書いちゃっている自分がキモイよ。それでも、インターネットの世界は広いので、ひょっとしたら気持ちを共有できる人もいるかもしれないし、せっかく書いてしまったのでupするよ。内容は、私が"乙女のカリスマ"嶽本野ばらさんの小説を愛してやまなかった理由について。
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一時期、嶽本野ばらさんのファンだった。「ミシン」が出てから「下妻物語」が映画化された頃まで。
サイン会には2回行ったのだが、すごく面白かった。サインを書いてもらった本を見返したら、1回目は「カフェー小品集」の発売の際で、サインには「lolita de cafe」と書いてある。2回目は「エミリー」の際で、「Born in the lolita」って書いてある。左←はサインの一部。自分の名前を切り抜いてスキャニングしたのだけど、1回目と2回目で、私、名字変わってるぞ。結婚してからも行ってたらしい。
野ばらさんのファンは、ロリータさんばかりなのだけど、ロリータさんにもいろいろいて、彼女たちを見ているだけで楽しかった。白やらピンクのパステルカラーの姫ロリさんやら黒一色で固めたゴスロリさんやら。年齢もバラバラ。10代から30代まで幅広かった。私は、ギンガムチェックでパフスリーブのブラウスとコムデギャルソンの黒のフレアスカートという私なりの精一杯フリフリな格好で行ったのに、すごい普通すぎて、逆に浮いていた。フリル度合いが足りなかった。やっぱり、emily temple cuteとかbaby, the stars shine brightで、全身キメていくべきだった。ウソ。だいいち似合わないし、そんな服を買っても他に着ていく場所がなくて困る。
野ばらさんは、サービス精神がめちゃめちゃ旺盛な人だった。野ばらさんは、トッカータとフーガの派手な前奏と共に、何やらポーズを決めながら登場した。雑誌や本の奥付などで見たまんまの黒づくめの服装で、華奢で、髪の毛はウェットで、王子様みたいだった(笑。ま、当時はそう見えたのですよ)。野ばらさんの隣りで、本屋さんが笑いをこらえていた。本にサインを書いてくれたあと、握手もしてくれて、写真も一緒に撮ってくれた(キャー)。写真を撮ってくれるときに、野ばらさんはお澄ましポーズをしていて、すごくすごくかわいらしかった。写真を見ると、並んで立っている私、今よりも全然痩せていたはずなのに、えらいごつく見えるわ(←の写真は10年前ぐらいなので、今とほとんど顔が別人っす)。
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さてさて。嶽本野ばらさんの何に魅かれていたかというと、ロリータなところとかナルシストところだけじゃない。私は、野ばらさんの価値観に強く心惹かれていた。乙女というのは孤独で孤高な存在であるということ、そして、野ばらさんの書く小説の主題(私が勝手にそう思っているんですけどね)の
”孤独な魂が、自分の分身とどのように関係を結ぶのか”
というのに強く、心が惹きつけられた。
自分の分身を見つけてしまうというのは、一見幸せなことのように思うが、そうでもないっぽい。野ばらさんの小説の中で、分身との恋物語は、大抵不幸な結末を迎えている。自分の分身のような存在と関係を結ぶということは、とても居心地のよいことだし、孤独感を分かちあうことになる。お互いに多くの言葉を費やさなくても理解し合えるし、自分たちの外の世界と接しなくても過ごせるように思ってしまう。でも、そんな関係は間違いなく閉塞する。自分の分身だと思っても、結局のところは他人なので、自分と違うところの方が多いはずだし。それに、ずっと一緒にいることもできない。いずれは、別々の世界を持って、自分と価値観が異なる人々と接点を持たないといけない。それなのに、1回分かりあえる分身と関係を結んだがために、分身との繋がりが少しでもきれてしまうと、孤独感が増大してしまう。その孤独感は、分身を見つける前より深くなる。
野ばらさんの本は、どれも大好きなんだけど、「エミリー」が一番好きかな。孤独な二人が強く結びついてしまうのだが、強く結びついた時点で主人公はこの関係が長続きしないのを感じ取っている。そこで、寂しい寂しいと泣くのではなくて、この先、大人になって、自分を理解してくれない世界に打ちのめされたとしても、この二人の関係に戻ってくればいい、と強く宣言する。二人の関係が全くの無駄だったかというとそうではなくて、この先、大人になって、生きていく上で必要だという(引用しようかと思い、読み返したら思っていた以上に赤面するような内容だったので、ちょっと引用できない。というか引用できないような本を好きと言っちゃう自分は、やばいっすね)。
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私は、子どものころから、自分の分身を欲していた。子どもの頃は、自分には分身がいるんだと妄想しながら眠りについていた。たとえば、自分には双子の片割れがいるのだが、何かの理由で離れ離れになっていて、いつかどこかで偶然出会うかもしれない、といった感じの。自分の分身は、全く外見は異なっていたとしても、会った瞬間にお互いのことをわかりあえるんじゃないかとか。妄想の中の分身は異性ではなくて、同性であったんだけど。自分の分身がどこかにいるという妄想は、夜の不安から私を逃してくれた。多分、この妄想は、他者に自分の考えを伝えることが不得手だったことに由来している。自分を変えて自分のことを分かってもらうようになりたい、というんじゃなくて、自分を変えたくなくて、そのままの自分というのを分かってくれる人がほしいというのが、とても子どもっぽい(大学生の頃、当時の彼氏にこの話をしたら、どん引きされた。すげーきもいって。妄想癖って、人によっては気持ち悪いことみたい。赤毛のアンとかを読んでいたせいか、妄想癖があるのが普通かと思っていた)。
私は、友人に嶽本野ばらさんの本にはまっていたのを伝えたことはほとんどない。それは耽美的な本が好きな自分を知られるのが嫌だという以上に、孤独なヒロインに自分に共感している自分を知られるのが嫌だった。だって、私、別に孤独じゃなかったんよね。たくさんではないものの信頼のおける友人が何人かいたし、恋人(今のオット)も家族もいたし。多分、自分に不相応なほど、私はみんなに愛されていたと思うよ。それなのに、自分のことを孤独だと思っていたなんて、悲劇のヒロインを気取るにもほどがある。
野ばらさんの小説を読み始めた時期は、大学卒業して、友人もいない金沢で一人暮らしを始めた時期で、自立して独りで生きていけるようにしなきゃと意気込んでいた。強い人間にならなあかんと思ってた。でも、元々が内向的な性質なので、その反動で、野ばらさんの小説に癒しを求めていたんだろうと思う。野ばらさんの小説を読む度に、私は、子どもの頃に夢見ていた分身との遭遇というのをシミュレーションできた。外へと出て行くのを恐れている小さな自分に戻れるような気がして、居心地がよかった。
野ばらさんの本に手を伸ばさなくなったのは、娘の妊娠がわかったあたり。あの頃、子どもができて、私はすごく混乱していた。自分だけでも持て余しているのに、自分が親になってしまうということが怖かった。特に意識したわけではないが、多分、自分の子どもっぽさと決別しようと思っていたのだろう。今もまだ親になりきれていない部分があるし、周りから見たら子どもよりも自分のことばかりしているように見えるかもしれない。でも、自分の中には"子ども>自分"という優先順位がはっきりとある。
公聴会も終わったので、そろそろ小説を解禁しているのけれど、嶽本野ばらさんの小説は、ちょっと後回しにしようかと思っている。多分、以前みたいにのめりこむことができなくて、寂しく感じるから。せっかく大阪にいるので野ばらさんのサイン会も行きたいなぁと思いつつも(だって、以前は金沢から京都までわざわざ行ったのだよ!)、なかなか時間もとれないし、以前みたいに楽しく感じれないように思うので、行動にうつせない。
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私はあんまり文学に詳しくないので、あまり例が思いつかないのだが、多分、分身との恋愛はあちこちの小説にありそう。そして、多くの場合、それは悲恋になっていそう。思いついたところでは、"嵐ヶ丘"のヒースクリフとキャシーとか。"マノン・レスコー"もそうかな。川本真琴の初期の楽曲も、同じ主題を扱っている。"1/2"はタイトルからしてそうで「同じもの同じ感じかたしてるの」と恋愛対象を自分と同一視している。"微熱"では、「別々の物語を今日も生きてくの?」「からまったまんまでひとりぼっちだって教えるの?」と、自分と同一になれない相手との悲恋を予感している。
ええと。大人になってしまった自分が考えるに、多分、自分と感性が似すぎている人間と恋愛しちゃうと、不幸になると思う。自分の分身さんとは、お友達関係でいる方が幸せなんだと思う(ほら、下妻物語の桃子といちごちゃんみたいに)。お友達であれば、始めから生活を共有しないことが前提だし、二人の関係よりもお互いが持っている世界の方が優先順位が圧倒的に高いから、”分かりあえてる”という思いは、それほどマイナスには働かない。恋愛とか夫婦関係においては、生活を共有することになるし、私だけが相手のことをわかってあげられるって思い込んじゃうと、二人の関係とお互いの世界の優先順位が入れ替わっちゃうこともありうる。そして、依存/共依存の関係に陥いりそう。下手にわかりあえていると勘違いすると、お互いのことをわかりあおうとする努力を疎かにしてしまうし。わかりあえない部分があるということを意識することで、適度に距離感をたもつことができて、お互いの趣味や時間を尊重することができる。特に、夫婦関係は細く長く続けないといけないので、距離感を保つことって大事な気がしている。
私は、オットを自分の分身のようには感じていない。オットは私と違って、社交的で自分に強い自信を持っている。自尊心の強さは本当にうらやましい。私もかくありたい。私は、普段は元気にガサツに過ごしているのだけれど、何かあるとすぐ他人に依存しようとしてしまう。でも、オットは私が依存しようとすると突き放してくるので、私達の関係は依存/共依存の関係にはならない、多分。
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嶽本野ばらさんの本をいくつか紹介。ちらりと読み返したら、思っていた以上に、エログロな描写が多くて、うーん、オススメするのはちょっと恥ずかしい感じがしないでもない。ええと、エログロな部分は、さらっと流して読むのがいいですよ。wikipediaには、「性描写の乱用、破滅的なストーリーが多いことがよく批判される」と書かれている。私も初めて読んだ際、乙女な小説だと思って安心して読んでいたら、面喰った。そういうのが嫌な人は読めない。それと、お洋服について、執拗な説明もあるので、そういう雑学を楽しめない人も読めない。
- それいぬ-正しい乙女になるために:エッセイ集。嶽本野ばらさんは、森茉莉の孤高の乙女精神の正しい継承者だと思う。「乙女は気高く孤高なもの」、「ボロは着てても心はロリータ」「多分、僕は結局のところ、恋文しか書けないのだと思います」など引用したくなる名言多数。
- ミシン:「世界の終わりという名の雑貨店」と「ミシン」の2本からなる短編集。基本は乙女小説なのだけど、結構エログロな描写があるので、注意が必要。これを読めるかどうかで、嶽本野ばらの世界に入れるかどうかが決まりそうな気がする(ちなみに、うちのオットは読んで爆笑してた。ひどいよー(ノД`)・゜・。)。
- エミリー:上の文章で触れた本。これも性的な描写があるので、要注意。
- カフェー小品集:あ、これは安心してオススメできる(笑)。小洒落たカフェじゃなくてカフェーに関する物語。だれか、いつか、この短編集の中のカフェーめぐりを一緒にしましょう。