思い出つれづれ

2013年2月 2日 (土)

知らない人との一度きりの会話

日経新聞の夕刊のコラムにこんな文章があった。

"知らない人との一度きりの会話というのは、不思議に心に残ることがある。 立場や利害関係、お互いの知り合い、そういうものに配慮しないでいい、二度と会わない人だからできる、そういう話もある。偶然の、誤解まじりの、共感と励ましが人を支える。そういうことは案外、すくなくないとわたしは思う。(中村千恵 比較文学者) "

私自身も、ふりかえればそういう偶然の出逢いに励まされたことがある。

カナダからの学会の帰りで、シカゴで乗り換えた飛行機で隣に座った方がたまたま日本人だった。

国際学会で初めての発表、しかも一人で海外旅行しなければならないというのに、心底疲れ果てていた。

私の英語が拙いということもあり、私の研究内容がうまく伝わらなくて少し落ち込んでもいた。

学会であった日本人研究者に、子どもを育てながら今から研究職を目指すのは厳しいのではないかなどと言われたのも、疲れ果てていた原因の一つだ。

隣の席に座った人は、私が読んでいた「アメリカ大都市の死と生」という本のタイトルをみて興味を持ったらしく、どういう目的で北米に来たのかと聞いて来た。

そこで、ひとしきり、本の内容と学会のこと、その頃佐用町江川で関わっていた住民参加型バスの話をした。

その方は、某大学の心理学の先生で、私の研究を面白がってくれた。

名刺をいただいたけれど、結局そのまま連絡をとっていない。

その人とお話したことで、私の研究は面白いし、世の中に必要とされているという思いが強くなった。

その思いは、私の博士後期課程の三年間を支えてくれたと思う。

私自身はつまらない人間かもしれないけれど、私がしていることは他人の興味を惹くことができる。

最近、忘れていたけど、大事な思い出。

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2010年11月14日 (日)

昔のものには、人の記憶がたくさんしみ込んでいる

189111657 先日、娘の七五三のお祝いをした。娘は私が昔着た朱色の着物を着て、私の祖母の形見の渋い帯を締めた。着付けは母がしてくれた。私は、着物のことはよくわからないのだが、昔の着物には最近の着物にはない重さがあって好きだ。古くさい菊の花柄も、くすんだ朱色も好きだ。

 七五三のお祝いは、オットと私が結婚式を挙げた気比神宮で行った。祝詞をあげてもらっている時、ふと娘の横顔を見た。その瞬間、28年前の自分の七五三の記憶の欠片が戻ったような気がして、くらっとした。私も晴れ晴れしい気持ちで、この着物を着て、唇に紅をさしていた。どうやら、この古い着物は、人の記憶をたくさんしみ込ませたまま、保存されてきたらしい。

 お祝いの式が終わり、娘の着物を脱がせながら、母に御礼を言った。神社で見た晴れ着の中で、この着物が一番好きだったということ、母が着物を保存してくれたおかげで娘のお祝いを安くできたことなんかを。

 「安くできた」だなんて無粋なことを言ったのは、私が母に話す時の癖だ。私は母のことを合理主義者だと思っていた。私が、自分の好みで何か行動を起こすとき、母はいつも難癖をつけるように感じていた。もったいないとか、役に立たないとか、そんな感じのことを言うのだ。だから、つい、私は母と話す時、いかに自分の行動が理にかなっているのか、他の選択に比べて何がどうお得なのかを言うように防御線をはるようになっていて、この時も同じように言ったのだ。

 すると、母は、私たちの七五三の着物を取っておいた理由を「自分の作品だから捨てられなかった」と言った。自分で反物を選び、柄を合わせ、自分で縫ったものだから捨てられない、購入していたものだったら捨てていたかもしれないと。母は和裁の仕事をしていたので、一つ一つの着物に思い入れがあると思わなかった。もったいないから捨てなかっただけなのかと思った。

 ああ、そうか。この着物には、私の記憶だけじゃなくて、母の思い入れもつまっているんだ。だから、私が忘れていたはずの記憶の欠片が戻ってきたのか。どうして気づかなかったのかね、私は。この人の娘をもう34年もしているのに。母は、合理性だけで判断しているわけがないのは、よく知っているじゃないか。母は、考え無しの私を考えさせるために、大人として私に口をはさむのだよ。

 子どもを育てていて繰り返し感じるのは、子育てというのは自分の子どもの頃を追体験しているということ。子どもと一緒に体験しながら、ああ、子どもの頃、こういうことしたなあ、こういう気持ちになったなあと思い出す。そして、追体験しながら、その時、親はどういうつもりだったのだろうと、親の気持ちに思いを馳せる。思い出は、私に、子どもの視点と親の視点の複眼を与えてくれる。古いものには、追体験をしやすくなるものがたくさんつまっているような気がする。物を捨てれないのは悪癖かもしれないが、大事な物はきちんと残していきたい。

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2010年8月 7日 (土)

ひょっとしたら私botかも(その1) -中二病であることは、よく知ってるけど-

(注意)定期的に書きたくなる、自意識こじらしているキモイ日記です。
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 中二病 というネットスラングがある。中二病とは、思春期の少年少女にありがちな自意識過剰やコンプレックスから発する一部の言動傾向を小児病とからめ揶揄した俗語(引用元:Wikipedia)。私は、なんともう34歳になってしまったにも関わらず、この中二病をこじらせたままなんだ。

 私がかかった中二病は、自分はロボットに違いないという妄想*。私は高度なプログラムがなされていない低級のロボットだから、うまく環境に適応できないし、臨機応変の対応が苦手。ロボットなので、嫌な物を見ても不快に感じることもないし、楽しくも思わないし、寂しくも思わないし、心を動かすことはないっていう、大変やばくて、暗くて、気持ちの悪い妄想だ。

 その妄想は、高校に入った頃から囚われなくなったのだけど、今でも、時折、自分はロボット(bot)なんじゃないかっていう妄想が顔を出すことがある。ほんまに キモイ☆ ですね(笑) 

 例えば、私がここに書いている文章は、本当に自分の固有の言葉なのか? どこかで見かけた言葉、文章、そういう既にinputされた情報を適当に組み替えて、反射的にoutputしているだけなんじゃないかと思う時がある。自分の文章を書いているつもりだけど、誰かのコピペとそれほど変わらないのではないのか。

 chatを初めてやった時、「わかぬ」さんという見知らぬ人がそこにいた。とても気さくで、時折無礼で、反応がとても早かった。この人はいったい誰なんなんですか?と、chatの中にいる人に聞いたら、「人工無能だよ」と教えてくれた。わかぬは、書かれた言葉とデータベースをマッチングさせて、応答を返すだけの存在で、しばらく会話をしていたら、人間じゃないことはすぐ分かるのだが、初めて見た時は、人らしく感じた。暇な人が、「わかぬ」と会話しているのを何度も見たことがある。この「わかぬ」と私のコミュニケーション力に、あんまり差はない感じがした。私の方が、ほんのちょっと込み入った話ができるという程度だ。

 ちょっと古い記事だけど、twitterでずっと仲良くしていた人がbotだったというのもある。文字だけでやりとりしていると、そういうことってあるかもなぁと思った。会話って多くの場合、自分が望んでいる答えを返してもらいたいもののように思う。人が期待していない答えを返すと、「空気読め、ばか」みたいな反応を受けたりする。そういう意味では、botの方が、ちゃんとデータベースを作りさえすれば、人が望むような答えを確実に返せる。

そして、星野しずるの短歌。

手ざわりの眠りを捨てて君だけのかなしい傷を見た朝に日々
草原の女王になった臨月のつめたい傷を待っている街
過ちが広がる恋のともしびは給水塔の大地に託す
ゆりかごを飛び越えてゆけ 臨月の世界の風になったたましい
恋人を愛し続けるさかさまの話の午後でさえも嘘つき
星野しずる

 私は短歌のことはよくわからないが、星野しずる**の作る短歌には、時折心を動かされる。一首目の「手触りの眠りを捨てて」で、触感のある妙にリアリティのある夢を思い出したりとか。星野しずるは、第七回枡野浩一短歌賞を受賞した短歌自動生成スクリプト。これを見た時、私なんかが綴る言葉になんかまるで価値がないんじゃないかとがっかりした。私の方が、語彙が表現力が貧弱で、低レベルのbotじゃないかと。

 とかいう思いを日々抱きながら、とめどなく溢れる文章を綴り続けている。botよりも拙い文章しか書きませんが、読んでくれている方々、ありがとうございます。

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* 中二の頃に、私が妄想に囚われた理由など。

 私が通っていた中学校は、私達が入学する前まで校内暴力がひどくて、ヤンキーの巣窟だった。私が入学したころは、校内暴力はおさまったが、代わりに学級崩壊といじめがひどかった(唯一学級崩壊していない時間は体育だけだった。体育は、体罰を平気でふるう先生が授業時間を支配していた)。学級崩壊にもいじめにも加わりたくなかった私は、クラスメイトと話をするのを断った。自分から断ったつもりだったけれど、1週間もすると、クラスメイトの輪にうまく加われなくなってしまった。

 クラスメイトと口をきかないのは、なかなかキツかった。目にみえるもの、耳から入る情報に対して反応を示さずに、自分を空気みたいな存在にするということだから。といっても、空気になりきれなくて、自分は今ココに存在して、実在している。ということで、自分はロボットに違いないという妄想を作り出したわけだ。当時は、星新一とか新井素子とかSFっぽいものを熱心に読んでいたので、もろ影響を受けている。ほんまの妄想と違って、これは自分が作った設定で、ほんまは自分はロボットなわけはないって分かってもいたんだけど。

 環境にうまく適応できていなかった。でも、あの環境にうまく適応できちゃっていた同級生も心に傷を残していることだろうと思う。みんな、学級崩壊もいじめも辛かったよね? している方もされている方も。ほんまはあんなことしたくなかったよね? 思い出すとキリキリ胃が痛むよね? 夢に見て、嫌な汗をかいて起きたりしない? 何であんなことしてたんだろう? そして、私を含め、どうして誰も、あの状況を壊すことできなかったんだろう? 娘が同じ状況に陥った時に、彼女はどうするんだろう? 母として何かできることはあるんだろうか?

 自分がロボットだったという妄想は、私の最大の黒歴史(他にもいろいろあるけれども!)。自分でもキモすぎるのは分かっているので、あんまり人に話したことがない、っていうかオットにも話したことがない。それなのに、world wideに書いちゃう自分がまたキモすぎですね☆ミ でも、キモイところも含めて自分を愛しているし、周りの人に受け入れて欲しいのよ、とか、ほんまにキモイことばっかり書きたくなる。ほんまキモイお母さんでごめんなさい(オカンに大事なのは開き直りや!)。

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**星野しずるの作者が、以下のようなことを書いていて興味深い。

人間ではつくれないような新鮮な暗喩をつかったり、時には逆に、まるで人間がつくったかのような深淵な意味が読み取れてしまう短歌も出てきます。まずはそのおもしろさを楽しんでほしいですね。その上で、人間の持つ「理解しようとしてしまう力」の潜在的な高さについて驚いたり、読み手依存型の創作の怖さに気づいたり、創造性がほんとうに発揮されねばならない場所とはどこなのか再考したりしていただければ幸いです。

何かを解釈する、意味付けする、そういうことは自動生成scriptにはできない。ということは、解釈や意義付けに人間らしさが含んでいるということか。短歌だけではなくて、過ぎさる日々に何らかの意義付けをしないと、人間らしく生きていることにならないのか? 

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※ 「ひょっとしたら私botかも」というキモイお題で、今回を含めて4回ほど書きます。あぁ、どんどん、ゆるふわ愛されキャラから遠ざかっていくわ。って、わざとですけどね。

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2010年2月13日 (土)

私は理不尽な姉だったらしい

 1つ上に姉、6つ下に妹がいる。1つ上の姉とは、子どもの頃にいろんな経験を共有した覚えがあるのだが、6つ下の妹とはあまり一緒に何かをした覚えがない。そのせいか、お互いにちょっと距離を感じている部分がある。

 私は、妹に、「お姉ちゃん」ではなくて「○○ちゃん」と名前で呼ばれている。妹にとってお姉ちゃんとは、私の一つ上の姉をさすのであって私ではない。姉は妹二人の世話をよく見ていたが、私は妹の世話をあんまりした記憶がない。妹によると、子どもの頃は、圧倒的な知力・体力の差で、妹に理不尽の限りをつくしていたらしい。でも、大人になってから、私は妹にいじめられてばかりいる。妹の方が口がたつから。一緒に話している時に、私が不用意なことをいうと、「もう!○○ちゃんのおばか!」って、すぐ言われてしまう。

 少し前に、久しぶりに妹に会った際、次のような話を聞かされた。 

 小学生だった妹がバレンタインデーのためにクッキーをせっせと焼いていたらしい。そこへ、大学受験を控えた高校生の姉(私!)がやってきて、彼氏にあげるのにちょうどいいと言って、勝手にクッキーをもっていったとか。しかも、帰ってきたら「釘が打てるほど堅かった」と文句をいったらしい。ひどす。

 聞かされるまで私はすっかり忘れていたし、聞かされてもまったく思い出せなくて、他人事のように笑ってしまった。これ、妹に対してもひどいけど、当時の彼氏に対してもかなりひどいよなぁ。生まれて初めてできた彼氏のはずだったのに、何を考えてたんだろう?しかも、何と言って渡したんだろう?自分のことながら、不思議だ。

 過去の自分のひどい話を聞くと、なんか他人事のように感じるんよな。何で覚えていないんだろう? そういえば、一緒にいることが多かった姉のことでさえも、思い出せないことがある。過去の私は、人に対する思いやりというものが根本的に欠けていたように感じる。妹ちゃんとの思い出が少ないのは、そのせいかもしれない。やばし。

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 妹は、小さい頃は、繊細な印象の美少女だった。私は、子どもの頃、妹の顔を羨んでいた。でも、成長するにつれて、なぜか少女の頃の繊細な印象はなくなり、大味な感じの顔になった。不思議だ。彼女は顔のパーツのすべてが大きい。瞳も、鼻も、口も、額も、眉毛も、顔の輪郭もすべてが大きい。しかも濃ゆい(中学生の頃、妹が「あだながモアイになった」と悲しんでいたw。それを聞いて爆笑する姉(私)とかひどすぎる)。私も顔は濃ゆい方だけど、妹の方が濃くって、スッピンなのにアイメークばっちりしているように見えるぐらい濃ゆい。性格も、顔に合わせて、大味で、元気。よう喋るし。あ、昔の方がよかったというわけではなくて、今の方が愛嬌があって、かわいらしいと思うよ。

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 先日、たまたま妹のWebページを見つけた。そこで、妹は小説を発表していた。彼女が小説を書いていたのは知っていたが*、今も書き続けているのは知らなかった。しかも、同人誌を作って、販売している! そこそこアクセス数も稼いでいるようだった(私のblogの10倍ぐらいアクセス数がある)。もう!お姉ちゃんに言ってくれたらいいのに。水くさいなぁ。

 同人誌を購入してあげたいのだけどなぁ。でも、妹からすると、私は信用のおけない理不尽な姉なので、すごい嫌がりそう。だから、ブックマークに妹のwebページを登録して、時折、そうっと妹の紡ぐ文章をにやにやしながら眺めている。かわいいなぁって。

 妹の文章は、私のものとよく似ている。もし、私が小説を書くとするならば、似たような感じになるかもなぁ。書かへんけど。なんかたくさん書いていて、それだけでえらいなぁと思う。短編は面白いかなと思いながら読んでるんだけど、正直なことをいうと、長編はちょっと私と趣味が合わない(ごめんねごめんねー)。

 いろいろ書いたけど、お姉ちゃんは妹ちゃんのことを応援してますよ!私は妹ちゃんLOVEで、かわゆすって思ってますよ。本当はリンクを貼って妹ちゃんのページを宣伝をしたいのだけど、そういうことをすると、本気でうざがられて、口をきいてくれなくなりそうな気がするので、やめておきます。

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*妹は、高校生の頃、小説で小さな賞をもらって、母親を喜ばせていた。わー、うちの家から芸術方面の才能がある子が出たって。あ、そういえば、姉も小学生の頃に詩で新聞に載ってたなぁ。私にはそういう何かを創作するという才能がなかったので、母的にはつまらなかったみたいだ。母は、地に足のついた実用的なものの考え方をする人なのに、というか、そのせいか、創造的なものに対するあこがれが強いみたい。そういうところ、私もよく似ている。

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2010年2月 6日 (土)

自分の分身がほしかった

(お断り)今回の記事は、ちょっとキモイかも?と思っている。30をゆうに超えているのに、乙女とか恋愛について書いちゃっている自分がキモイよ。それでも、インターネットの世界は広いので、ひょっとしたら気持ちを共有できる人もいるかもしれないし、せっかく書いてしまったのでupするよ。内容は、私が"乙女のカリスマ"嶽本野ばらさんの小説を愛してやまなかった理由について。

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 一時期、嶽本野ばらさんのファンだった。「ミシン」が出てから「下妻物語」が映画化された頃まで。

04  サイン会には2回行ったのだが、すごく面白かった。サインを書いてもらった本を見返したら、1回目は「カフェー小品集」の発売の際で、サインには「lolita de cafe」と書いてある。2回目は「エミリー」の際で、「Born in the lolita」って書いてある。左←はサインの一部。自分の名前を切り抜いてスキャニングしたのだけど、1回目と2回目で、私、名字変わってるぞ。結婚してからも行ってたらしい。

 野ばらさんのファンは、ロリータさんばかりなのだけど、ロリータさんにもいろいろいて、彼女たちを見ているだけで楽しかった。白やらピンクのパステルカラーの姫ロリさんやら黒一色で固めたゴスロリさんやら。年齢もバラバラ。10代から30代まで幅広かった。私は、ギンガムチェックでパフスリーブのブラウスとコムデギャルソンの黒のフレアスカートという私なりの精一杯フリフリな格好で行ったのに、すごい普通すぎて、逆に浮いていた。フリル度合いが足りなかった。やっぱり、emily temple cuteとかbaby, the stars shine brightで、全身キメていくべきだった。ウソ。だいいち似合わないし、そんな服を買っても他に着ていく場所がなくて困る。

03_2 野ばらさんは、サービス精神がめちゃめちゃ旺盛な人だった。野ばらさんは、トッカータとフーガの派手な前奏と共に、何やらポーズを決めながら登場した。雑誌や本の奥付などで見たまんまの黒づくめの服装で、華奢で、髪の毛はウェットで、王子様みたいだった(笑。ま、当時はそう見えたのですよ)。野ばらさんの隣りで、本屋さんが笑いをこらえていた。本にサインを書いてくれたあと、握手もしてくれて、写真も一緒に撮ってくれた(キャー)。写真を撮ってくれるときに、野ばらさんはお澄ましポーズをしていて、すごくすごくかわいらしかった。写真を見ると、並んで立っている私、今よりも全然痩せていたはずなのに、えらいごつく見えるわ(←の写真は10年前ぐらいなので、今とほとんど顔が別人っす)。

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 さてさて。嶽本野ばらさんの何に魅かれていたかというと、ロリータなところとかナルシストところだけじゃない。私は、野ばらさんの価値観に強く心惹かれていた。乙女というのは孤独で孤高な存在であるということ、そして、野ばらさんの書く小説の主題(私が勝手にそう思っているんですけどね)の

 ”孤独な魂が、自分の分身とどのように関係を結ぶのか”

というのに強く、心が惹きつけられた。

 自分の分身を見つけてしまうというのは、一見幸せなことのように思うが、そうでもないっぽい。野ばらさんの小説の中で、分身との恋物語は、大抵不幸な結末を迎えている。自分の分身のような存在と関係を結ぶということは、とても居心地のよいことだし、孤独感を分かちあうことになる。お互いに多くの言葉を費やさなくても理解し合えるし、自分たちの外の世界と接しなくても過ごせるように思ってしまう。でも、そんな関係は間違いなく閉塞する。自分の分身だと思っても、結局のところは他人なので、自分と違うところの方が多いはずだし。それに、ずっと一緒にいることもできない。いずれは、別々の世界を持って、自分と価値観が異なる人々と接点を持たないといけない。それなのに、1回分かりあえる分身と関係を結んだがために、分身との繋がりが少しでもきれてしまうと、孤独感が増大してしまう。その孤独感は、分身を見つける前より深くなる。

 野ばらさんの本は、どれも大好きなんだけど、「エミリー」が一番好きかな。孤独な二人が強く結びついてしまうのだが、強く結びついた時点で主人公はこの関係が長続きしないのを感じ取っている。そこで、寂しい寂しいと泣くのではなくて、この先、大人になって、自分を理解してくれない世界に打ちのめされたとしても、この二人の関係に戻ってくればいい、と強く宣言する。二人の関係が全くの無駄だったかというとそうではなくて、この先、大人になって、生きていく上で必要だという(引用しようかと思い、読み返したら思っていた以上に赤面するような内容だったので、ちょっと引用できない。というか引用できないような本を好きと言っちゃう自分は、やばいっすね)。

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 私は、子どものころから、自分の分身を欲していた。子どもの頃は、自分には分身がいるんだと妄想しながら眠りについていた。たとえば、自分には双子の片割れがいるのだが、何かの理由で離れ離れになっていて、いつかどこかで偶然出会うかもしれない、といった感じの。自分の分身は、全く外見は異なっていたとしても、会った瞬間にお互いのことをわかりあえるんじゃないかとか。妄想の中の分身は異性ではなくて、同性であったんだけど。自分の分身がどこかにいるという妄想は、夜の不安から私を逃してくれた。多分、この妄想は、他者に自分の考えを伝えることが不得手だったことに由来している。自分を変えて自分のことを分かってもらうようになりたい、というんじゃなくて、自分を変えたくなくて、そのままの自分というのを分かってくれる人がほしいというのが、とても子どもっぽい(大学生の頃、当時の彼氏にこの話をしたら、どん引きされた。すげーきもいって。妄想癖って、人によっては気持ち悪いことみたい。赤毛のアンとかを読んでいたせいか、妄想癖があるのが普通かと思っていた)。

 私は、友人に嶽本野ばらさんの本にはまっていたのを伝えたことはほとんどない。それは耽美的な本が好きな自分を知られるのが嫌だという以上に、孤独なヒロインに自分に共感している自分を知られるのが嫌だった。だって、私、別に孤独じゃなかったんよね。たくさんではないものの信頼のおける友人が何人かいたし、恋人(今のオット)も家族もいたし。多分、自分に不相応なほど、私はみんなに愛されていたと思うよ。それなのに、自分のことを孤独だと思っていたなんて、悲劇のヒロインを気取るにもほどがある。

 野ばらさんの小説を読み始めた時期は、大学卒業して、友人もいない金沢で一人暮らしを始めた時期で、自立して独りで生きていけるようにしなきゃと意気込んでいた。強い人間にならなあかんと思ってた。でも、元々が内向的な性質なので、その反動で、野ばらさんの小説に癒しを求めていたんだろうと思う。野ばらさんの小説を読む度に、私は、子どもの頃に夢見ていた分身との遭遇というのをシミュレーションできた。外へと出て行くのを恐れている小さな自分に戻れるような気がして、居心地がよかった。

 野ばらさんの本に手を伸ばさなくなったのは、娘の妊娠がわかったあたり。あの頃、子どもができて、私はすごく混乱していた。自分だけでも持て余しているのに、自分が親になってしまうということが怖かった。特に意識したわけではないが、多分、自分の子どもっぽさと決別しようと思っていたのだろう。今もまだ親になりきれていない部分があるし、周りから見たら子どもよりも自分のことばかりしているように見えるかもしれない。でも、自分の中には"子ども>自分"という優先順位がはっきりとある。

 公聴会も終わったので、そろそろ小説を解禁しているのけれど、嶽本野ばらさんの小説は、ちょっと後回しにしようかと思っている。多分、以前みたいにのめりこむことができなくて、寂しく感じるから。せっかく大阪にいるので野ばらさんのサイン会も行きたいなぁと思いつつも(だって、以前は金沢から京都までわざわざ行ったのだよ!)、なかなか時間もとれないし、以前みたいに楽しく感じれないように思うので、行動にうつせない。 

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 私はあんまり文学に詳しくないので、あまり例が思いつかないのだが、多分、分身との恋愛はあちこちの小説にありそう。そして、多くの場合、それは悲恋になっていそう。思いついたところでは、"嵐ヶ丘"のヒースクリフとキャシーとか。"マノン・レスコー"もそうかな。川本真琴の初期の楽曲も、同じ主題を扱っている。"1/2"はタイトルからしてそうで「同じもの同じ感じかたしてるの」と恋愛対象を自分と同一視している。"微熱"では、「別々の物語を今日も生きてくの?」「からまったまんまでひとりぼっちだって教えるの?」と、自分と同一になれない相手との悲恋を予感している。

 ええと。大人になってしまった自分が考えるに、多分、自分と感性が似すぎている人間と恋愛しちゃうと、不幸になると思う。自分の分身さんとは、お友達関係でいる方が幸せなんだと思う(ほら、下妻物語の桃子といちごちゃんみたいに)。お友達であれば、始めから生活を共有しないことが前提だし、二人の関係よりもお互いが持っている世界の方が優先順位が圧倒的に高いから、”分かりあえてる”という思いは、それほどマイナスには働かない。恋愛とか夫婦関係においては、生活を共有することになるし、私だけが相手のことをわかってあげられるって思い込んじゃうと、二人の関係とお互いの世界の優先順位が入れ替わっちゃうこともありうる。そして、依存/共依存の関係に陥いりそう。下手にわかりあえていると勘違いすると、お互いのことをわかりあおうとする努力を疎かにしてしまうし。わかりあえない部分があるということを意識することで、適度に距離感をたもつことができて、お互いの趣味や時間を尊重することができる。特に、夫婦関係は細く長く続けないといけないので、距離感を保つことって大事な気がしている。

 私は、オットを自分の分身のようには感じていない。オットは私と違って、社交的で自分に強い自信を持っている。自尊心の強さは本当にうらやましい。私もかくありたい。私は、普段は元気にガサツに過ごしているのだけれど、何かあるとすぐ他人に依存しようとしてしまう。でも、オットは私が依存しようとすると突き放してくるので、私達の関係は依存/共依存の関係にはならない、多分。

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 嶽本野ばらさんの本をいくつか紹介。ちらりと読み返したら、思っていた以上に、エログロな描写が多くて、うーん、オススメするのはちょっと恥ずかしい感じがしないでもない。ええと、エログロな部分は、さらっと流して読むのがいいですよ。wikipediaには、「性描写の乱用、破滅的なストーリーが多いことがよく批判される」と書かれている。私も初めて読んだ際、乙女な小説だと思って安心して読んでいたら、面喰った。そういうのが嫌な人は読めない。それと、お洋服について、執拗な説明もあるので、そういう雑学を楽しめない人も読めない。

  • それいぬ-正しい乙女になるために:エッセイ集。嶽本野ばらさんは、森茉莉の孤高の乙女精神の正しい継承者だと思う。「乙女は気高く孤高なもの」、「ボロは着てても心はロリータ」「多分、僕は結局のところ、恋文しか書けないのだと思います」など引用したくなる名言多数。
  • ミシン:「世界の終わりという名の雑貨店」と「ミシン」の2本からなる短編集。基本は乙女小説なのだけど、結構エログロな描写があるので、注意が必要。これを読めるかどうかで、嶽本野ばらの世界に入れるかどうかが決まりそうな気がする(ちなみに、うちのオットは読んで爆笑してた。ひどいよー(ノД`)・゜・。)。
  • エミリー:上の文章で触れた本。これも性的な描写があるので、要注意。
  • カフェー小品集:あ、これは安心してオススメできる(笑)。小洒落たカフェじゃなくてカフェーに関する物語。だれか、いつか、この短編集の中のカフェーめぐりを一緒にしましょう。 

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2009年10月23日 (金)

巫女さんだった

 学生の頃、ホテルの結婚式の巫女さんのバイトをしていた。1回だけ写真を撮ったような気もするが、紛失してしまって残っていないのが残念だ。残っていたら、子どもに見せて自慢したかった。

 巫女さんのお仕事は、準備と片付け(神酒、榊、杯、お祝いのお菓子の設置、雅楽テープの確認など)、神主さんのサポート、お神酒をつぐ程度の軽微な内容だったのだが、なかなか楽しかった。1回だけ研修を受けて、あとは何となくのノリでこなしていた。お神酒をスムーズにつぐこと、すり足で素早く歩くことが大事だった。

 基本神式だったのだけど、人前式、仏式も体験したことがある。そういうときは、巫女さんの衣装ではなくて、スーツを着ていた。人前式はお神酒もないし、榊もないから、することが少なかった。仏式 は、お坊さんがお経読んで、それに合わせて出席者も唱えるので圧巻だった。

 1回だけ、ホテルに行ったら「都合により式がなくなりました」と言われてびっくりしたことがある。2週間前にアルバイトの連絡をもらったばかりだったので、こんな短期間に心変りがあるものかと。

 いずれにしても、見ず知らずの人の結婚式に参加している私という状況自体が面白かった。巫女さんの格好自体がコスプレみたいで楽しかった。こんな軽いノリで巫女さんになってしまって、結婚式を挙げた方々、ごめんなさい(ちなみに、神主さんは近くの神社からやってくる本物)。

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2009年8月 5日 (水)

アンドロイドは電子オルガンの夢を見るか

 子供の頃、エレクトーン*の県大会に一度だけ出たことがある。

 それまで特に目的もなく、かなり気軽な感じでエレクトーンを習っていた。クラシックよりもポピュラー音楽や歌謡曲を中心に弾いていたので、私にとってエレクトーンは遊びの一種だった。そんな私だったが、小学校5年生の時に先生のすすめでYAMAHAの大会に出ることになった。弾いた曲は「幻想曲さくらさくら」というピアノ曲のエレクトーンアレンジ。当時の我が家にはゲーム機器もパソコンもなく、他にするべきことがなかったので、結構熱心に練習した。そうしたら、地区の大会で優秀賞をいただいて、県大会に出場できることになったのだ。 

 で、せっかく出ることができたにも関わらず、県大会での私の演奏はあまりよくなかった。誰にでもわかるようなミスをいくつかしたし、気持ちがのっていなかった。聞きにきてくれた姉が「練習の方が上手だった。今日は下手だった」と率直な感想をこぼして、母にたしなめられていた。姉の感想を聞いて少し凹んだが、確かに下手だったなと納得もした。

 それでも、県大会に出たのは、すごく貴重な体験だった。というのは、それまで何となく弾いていたエレクトーンにかなり真剣に取り組むことができて、エレクトーンや演奏についていろいろと考えるきっかけになったから。

 一つは、私は楽器を上手に弾くことにそれほど興味がないことがわかった。私にとって「幻想曲さくらさくら」は地区大会に出た時点で、間違わずに弾けるようになっている曲だったので、それ以上練習を続けるのは苦痛でしかなかった。私はエレクトーンの練習に飽きていた。楽器の才能がある人というのは、練習に飽きるというのを乗り越えて、演奏に自分なりの表現力を加えることができる人なんだろうと思う。

 それ以上に、エレクトーンという楽器の限界を何となく感じた。エレクトーンという楽器は、リズムや音色をあらかじめプログラミングしておいて、そのプログラムに従って演奏する楽器。Aメロの終りにフィルインが入って、音色が勝手に変わる。それに合わせて正確にキーを押していかないといけない。120のテンポにプログラムしたら、110のテンポで弾きしたくても120で弾かないといけない。プログラムからずれた音を弾くことが許されない。最初にプログラムしたのは私のはずなのだけど、弾いているうちに、私がエレクトーンにプログラムされているような気持ちに陥っていた。今考えると、この主体性の問題はもっと積極的にプログラムをしたり、編曲、作曲することができれば、解決できたんだろうなぁ。

 演奏技術の汎用性の低さも気になっていた。いくら上手にエレクトーンが弾けても、ピアノなど他の鍵盤楽器がからきし弾けないのだ。ピアノはタッチが大事なのに対し、エレクトーンの鍵盤は弱い力で押そうが強い力で押そうが同じ大きさの音が出る。音の大きさは右足のペダルで変えるからだ。一応タッチトーンという機能もあったけれど、それほど指の力が必要とされない。それに、私は一定のリズムで演奏するのが苦手だった。なぜなら、いつでもエレクトーンから流れてくるパーカッションに合わせて弾いていたから。便利であるがゆえに、技術力が培われなかったからだ。

 エレクトーンはそのあと2年ほど習ってやめた。直接的な理由は、中学生になり部活などで忙しくなったことなのだけれど、これ以上習っていても楽しく弾けないような気がしていたからだ。

 楽器を習うのは、生活の楽しみの幅を広げてくれる。それに、五線譜がよめると、学校の音楽の時間を苦痛を感じないで過ごせる。私は音痴であるにも関わらず、小学・中学と音楽の成績だけは良かった。平凡な子どもにとって、何か得意なものがあると思い込むことができるのは幸せなことだ。もし、バイエルから入るピアノを習っていたら、練習が嫌で、もっと早くやめていたかもしれない。でも、その一方で、やっぱりピアノを弾ける人が羨ましかったりする。ピアノの演奏技術の汎用性の高さ、楽器の構造のプリミティブさ、演奏者によって音色が変わる点、そういうことが羨ましい**。娘がそろそろ「ピアノを弾きたい」とか「ヴァイオリンを弾きたい」と言い出したので、何か楽器を習わせたいのだけれど、何を習わせるのかはまだ悩んでいる。

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*エレクトーンというのはYAMAHAの電子オルガンの登録商標。カワイではドリマトーンという名前らしい。でも、子どもの頃は一般名称だと思い込んでいた。エレクトーンのせいで、私はフルートはうるさい楽器だと思っていたし、ストリングスは何か変な音と思っていた。当時のサンプリング技術はそんなに高くなかったんだろう。そういえば、初音ミクなどのVOCALOID技術は、YAMAHAが開発したらしい。初音ミクの歌声を初めて聞いた時とかはちょっと衝撃的だった。ヴォーカルいなくても、ライブできるやんって。多分、生楽器のサンプリング技術も上がっているので、エレクトーンの音は良くなっているんだろう。

** 社会人になってからピアノを習い始めた。大人になるとバイエルをする目的がわかるので、とても楽しく練習できた。出産直前まで習っていたのだが、あんまりうまくならなかった。あぁ、こうやって書いていると、ピアノの練習がしたくなってきた。時間を見つけて弾こうっと。

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2009年6月25日 (木)

ノラの広告、そして山猫堂の思い出

200906212149  南風耕作堂さんところで、「ku:nel」に内田百閒先生が「ノラ」を探すための広告が載っていたということを知り、久々に雑誌を購入してしまった(ノラの広告はコチラにもある)。日本語版だけじゃなくて、英語版も作っちゃっている。百閒先生は本当にかわいらしいなぁ。本気なんだもの、いつでも。

 この記事では、矢吹申彦さんというイラストレーターの方が百閒先生の魅力を語っているのだが、この方の本がうちに1冊ある。「ぼくの絵日記-遠いおかしな日々を…」というタイトルの絵本で、たんたんとシュールな出来事を描いている。たんたんとしすぎていて、面白い。私は夏休みの宿題の絵日記を書くのが苦痛で苦痛で仕方がなかったのだけど、こういうふうに夢と現実を混ぜて書くことができていたら、楽しく書けたのかも。この本は、金沢の山猫堂という古書店で手に入れたもので、お店の人がやたらとお勧めするので、購入したのだ。

 山猫堂は金沢東山の住宅地にひっそりとあった古本屋さん。今ではもう閉店してしまったようだ。初めて訪れたときは、手書きの分かりにくい地図を片手に、友人と宝探しでもするような気持ちで探し歩いた。見つけた時は、思わず歓喜の声を上げた。中に入ると、男の人が一人と猫が一匹。そして壁一面の古書。美術書だったり、ガロの古いのだったり、美しい絵本、何に使うのだかわからない古道具とかいろいろ。どれを見ても面白かった。男の人は、何も買わない私達に冷たい飲み物を進めてくれ、「この猫が店長です」と猫を紹介してくれた。

 山猫堂を訪れて何度めかの時、大正時代の冒険家の写真のセット(5千円)とか、古い子どもカルタを勧められた。いずれもとても魅力的だったのだけど、高く感じて断ってしまった。でも、冒険家の写真は、買っておけばよかったと後悔している。大正時代の冒険家なので、行っているところが今の観光地ばかり。ピラミッドの横で記念撮影とかタイかどこかで象にまたがっている写真とか。現在の価値観で見ると、あんまり冒険している感じがしない。でも、当の冒険家がすごく真面目な顔で写っていて何だかおかしかった。そして、白黒の写真に上から色が塗ってあるのだけれど、想像で色が塗ってあるから、微妙に変だった。あんなもの、もう二度と手に入らない。

 と、「ku:nel」を買ったら、思い出のスイッチが入ったのだった。年をとるってこういうことかね。一つのささいな事が、とりとめのない思い出に細く細く繋がっていく。

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写真:奈良公園の鹿と娘。鹿がアクティブに絡んでくるので、娘は脅えて遠目に見ることしかできなかった。

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2009年1月18日 (日)

十五歳の原点

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 アンジェラ・アキさんの「手紙 ~拝啓 十五の君へ~」を繰り返し繰り返し聴いている。この曲、NHKのみんなのうたでも流れていたようなので、娘が大好きなのだ。この歌詞に、「消えてしまいそうな時は、自分の声を信じ歩けばいい」というのがあって、ふっと中学生の頃に書いた啓発録*を思い出した。

 福井では、地元の偉人であるところの橋本左内氏にちなんで、中学2年生(数えで十五歳)の時に一人ひとりが自分なりの啓発録を書く。

 私の啓発録のタイトルは「自分らしく生きる」だった。内容は、異端審問を受けたあとも「それでも地球は回る」と言い続けたガリレオ・ガリレイのように、自分が確かだと思うことを信じて生きて行きたいというようなもの。誰が何と言おうと、自分のことを信じて生きて行くべきって。(わざわざガリレオを持ち出しているものの、科学的真実と意志の強さを取り間違えていた感じがして恥ずかしい。)

 で、その後、立志式で、代表者が自分の啓発録を読み上げるのだが、なぜだかよくわかないが私が選ばれてしまった。

 数百人を前にして、スピーチをするというプレッシャーで、私は自家中毒**をやからした。自家中毒というのは、ストレス性の嘔吐症。前日には病院で点滴を受け、立志式の直前まで保健室で寝込んでいた。今思い返すと、自家中毒にかかったのは、自分自身と自分が書いた啓発録の内容が乖離していたので、それを他者に聞かれるのが嫌で嫌で仕方がなかったんだろう。当時の私は、自分自身に自信がなくて、人の目を気にしていたし、他者と自分の違いにばかり気を囚われていた。そんな私が「自分らしく」生きたいと語るなんて、他人におかしいと思われるのではないかと思ったのだろう。

 肝心の立志式はさっぱり覚えていないのだが、たぶん、問題なく発表したようだ。で、きっと、他人は人のことなんて大して気にしていないということに気づいたんじゃないか。立志式が終わった後に、啓発録の内容について聞いてくる同級生なんて一人もいなかったから。その後も私は相変わらずの自信のない人間だったけれど、少しずつ、他者との違いなんてどうでもよいと考えるようになった。

 橋本左内先生ほど立派ではないが、私の啓発録はやっぱり私の原点なんだ。三十歳を超えても、自分に自信があるわけじゃないし、きっとこの自信なさ加減は一生治らない。でも、少しずつ、信じるべき自分を模索し続けている。

 というわけで、啓発録、立志式は面倒なんだけど、なかなか良い通過儀礼だと思う。福井だけでなく、日本全国あちこちで行われるようになったらしい。娘にもぜひ啓発録を書いて欲しいし、我が家で個人的に立志式をするのもいいかも、と思ったりする。

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**啓発録は、橋本左内先生が15歳の時に、自分を勇気づけるために書いた自己の行動規範を五項目に渡って記したもの。稚心を去る、気を振う、志を立つ、学に勉む、交友を択ぶの5つの事項について書かれている。15歳の時に、こんなことを書くなんて、ほんまに立派な人だ。

*自家中毒とは、10歳ぐらいまでの子どもがかかる病気である。自家中毒を治すのは、ストレスの原因を取り除くこと。ストレスの原因がなくなれば、ケロッと治る。私は子どもっぽいせいか10歳を過ぎた後も、何回も自家中毒を繰り返していた。うちの娘も自家中毒をやらかさないか心配。おおらかそうに見えて、意外と神経質なところがあるから。うちの母は、いまだに「人前で何かやる度に自家中毒をおこしていたあなたが、学会で発表したり、授業をしたりするなんて不思議」と笑う。


写真:数年前に植物園で撮ったキヌガサダケ。かさの部分がレースになっているキノコ。かわいい。中華料理では高級食材だとか。

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2008年11月 7日 (金)

見えない明日に迷う時

 TKさん、あまりに売れ過ぎていたので、恥ずかしくて周りに言ったことがないのだが、私ファンだったのですよ。小学校高学年から中学1、2年の頃まで。TKプロデュースの曲はテレビや街中で聞く程度で興味を持つことはなかったけれど、TMネットワークはよく聞いていた。彼らの曲は、田舎の子どもにとって最先端の音楽だった。歌番組とかにあんまり出ていなかったから手垢がついていない感じがしたし、その一方でCDは手に入れやすかった。それに、彼らの曲はシンセを多用していたので、エレクトーンで弾くと比較的再現性が高くて楽しかったので、よく弾いた。"come on everybody"とか"human system"とか"self control"とか。TMNになる前の曲たち。

 ということで、TKさんの逮捕は純粋に悲しい。信頼をおけるよいブレーンさえ置いておけばこんなことにならなかっただろうに。ニュースで流れるTMNの楽曲も、もの悲しく聞こえるよ。

 作詞をされていた小室みつ子さんが「彼が生み出した曲は、変わらなくいつも誰かの心にあって、そこで生きています」とコメントを出されているけれど、それに強く同感。TKさんが罪を犯したとしても、TKさんが生み出した楽曲たちには何の罪もないような気がするんだけど。何で取扱い中止になるんだろう?

 ここ2日ほどもうずっと聞いていなかったTMネットワークとかを聞いている。改めて聞いてみたら、小室みつ子さんの歌詞って物語があって美しいなとか、TKさんはその美しい物語に合った美しいメロディを書く人だったんだな、とかいろいろと思って、なおさら悲しくなる。こうやって悲しい気持ちでTMネットワークを聞いていると、TKさんの追悼みたいな気持ちになってきて、さらに落ち込んできた。

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以下の事柄は、今回TMネットワークに関して、wikipediaで手に入れたまめ知識。ネットって便利ね。中3くらいでTMネットワークに対する興味が急速にうすれたので、こういった情報を今まで全然知らなかった。
・TMネットワークの初期の作詞をしていた西門加里は、小室みつ子さんであること。知らなかったなー。みつ子さんの小説を読んだことがあるので、TKさんと関係ないのは知っていたんだけど。
・木根さんの実家が水道屋さんということ。木根さん、めっちゃ小説書いているし。ユンカースカムヒア、なつかしす。
・木根さんと宇都宮さんは小学校の同級生。
・TKさんはハンカチ王子のいた早実出身。

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